05
彼女の口ぶりからすると、僕が亜美にプロポーズをする予定だったことは知っているらしい。進化云々はよくわからないが、やはり誰かの悪戯であると考えるのが自然だ。
「男性であるあなたが結婚を急ぐ必要はないの。卵子の保有数に限りがあり、良質なものとなれば九年程度しか排卵できない女性と違って、あなたならほぼ無制限に精子を作れるじゃない」
生物学的にはそうかもしれないが、その言い方が僕をとんでもない絶倫男だと断定したように聞こえ、僕は頬を赤らめる。
「そろそろ正体を明かしてくれないかな」
「わたしの話を信じてないようね」
そんな荒唐無稽な話、信じろというほうが無理だ。
「誰の悪戯でもいい、とにかくもう帰ってくれないか。僕はこれから亜美を迎えに行かなきゃいけないんだ」
簡単にはいかないだろうが、僕はプロポーズのやり直しを考えていた。
「だめよ、あの女性と結婚するのは」
温厚で鳴らす(温厚なのに鳴らすという言い回しには、いつも違和感を覚える)僕だが、さすがに少しムッとした
「なんで君にそんなこと言われなきゃなんないのかな。君は僕の母親でもなければ兄弟姉妹でもないじゃないか」
更に言うなら二股中の恋人でもない! そのくらい大風呂敷を広げてもよかった。
「メンデルの遺伝法則は知ってる?」
急にそんなこと言われたって……。情けないかな、それが正直なところだった。P世代のAAとaaをかけ合わせたF1世代がどうのこうのという法則を、メンデルという修道院僧が発見したというのは生物で習ったような気はするが、詳しく知らなくても実生活に大した影響はないだろうと、記憶のどの引き出しに仕舞ったのかさえ杳として知れない。そして「出てってくれないか」のオファーは聞き届けられずにいた。
「あなたとさっきの女性のかけ合わせでは、子孫の性別によっては進化に繋がる遺伝子が発現しない可能性があるの」
――はあ? 『かけ合せ』という犬猫の繁殖みたいな言い方にも憤慨すべきだったのだろう。しかし、愚かにも僕は『これが悪戯でなければ気が狂れてるに違いない美女』との会話を成立させるべく努力してしまう。
「なんで君はそんなことを――、僕の遺伝子がどうのこうのなんてことを知っているんだい?」
「国はどこまで精緻に個人情報を管理してると思ってる? なぜ、スーパーコンピューターの処理能力世界一にこだわったのかを考えれてみればわかりそうなものよね。あなたの、いいえ、全国民の性癖や趣味に嗜好、遺伝子情報に至るまでがデータベース化されて国家に管理されているのよ」
「なんだ、それ……」
なんだか壮大なスケール……、いや、僕の個人データなら矮小なのか? とにかく国家が個人の遺伝子情報まで管理しているなんて話は初耳だ。
遺伝子情報には寿命や遺伝性疾患発症の可能性までもが書き込まれていると聞いたことがある。それが本当なら、ハッキングによる流出で起こるだろう社会的差別を心配せねばならない。
「わたしはそこにアクセスしただけ。神内俊哉、二十八歳、身長百七十三センチメートル、体重五十六キログラム。もう少し太ったほうがいいわね。地元の私立大学卒業後、いまは団体職員として軽自動車検査協会内の自動車会議所に勤務している。血液型はRhマイナスのAB型だから血漿中の抗体形成はない。日本人には珍しいタイプね。一年前、交通事故で頭部に外傷を負い、T総合病院の救命救急センターに運び込まれた。性格はやや内向的、趣味は読書と映画鑑賞――」
僕の場合、読書は趣味というより特技に近い。巻頭に登場人物が書かれていれば一度で憶えてしまうので返し読むことはないし、四百ページ前後の文庫本ならニ時間もあれば読破できる。
美女はお構いなしに続ける。
「――、年収は税込、約五百八十万円。これはほんの一部よ。ここ五年間にあなたが通販で買った物も記録されてるけど読み上げる?」
「いえ……、もう結構です」
僕だって出来心でアダルトビデオを買ってしまうことはある。