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「可愛いお嬢ちゃんね、ママにそっくり」
マンションの住人たちの間でも愛ちゃんの存在は既知のものとされていたようで、すれ違う人々が「お子さんがいたんだ?」と疑問を投げかけてくることはなかった。
部屋に戻ると知世は夕食の支度、愛ちゃんはソファにもたれて絵本を開き、僕は部屋着に着替えて読書と、まるでそれが日々のルーティンであるかのように、ごく自然にそれぞれの場所に身を置き、ごく自然に振舞っていた。
「パパー、このおんなのこはわるいこなの?」
「どれどれ? ああ、これはね――」
愛ちゃんが読んでいた本は『ゴルディロックスと三びきのくま』だった。ストーリーを要約すると、くまの家にはいり込んだゴルディロックスという女の子がデタラメやらかすという内容だ。
「女の子には悪いことをしている自覚はないと思うよ。でも、ひとは大切な物を壊しちゃってからしか気づかないこともあるんだ。それと熊を数えるなら『頭』が正解だね」
「よく、わかんなーい」
「パパにもよくわかってないんだよ、ひとがなんでこんなことをしてしまうのかが。ただね、ひとは欲しがるばかりじゃなく我慢することも覚えるべきじゃないのかな」
愛ちゃんは下唇を突き出して僕を見上げていた。
「そんなこと、まだこの娘には理解できないわよ。はい、今日も一日ご苦労様でした」
知世は冷蔵庫から冷えたビールを取り出してグラスに注ぎ、僕の前に置いた。
「この本は君が?」
「ええ、そうよ」
「だったらパパもオサケをがまんできる?」
愛ちゃんは会話から取り残されるのが心外であるかのように、文字通り僕と知世の間に割ってはいってきた。
「あはは、そうだな。パパも我慢を覚えなきゃいけないな」
悪くない、こんな暮らしも――。僕は心からそう思っていた。ひとは平凡な生活に辟易して変化を求め、その変化が自分の望んだものではないことがわかると平凡こそ愛すべきものだと気づく。急に妻子ができちゃうことが平凡であろうはずはないが、昨夜の大冒険からすれば好ましい変化だと思えた。
「この子がいて仕事を続ける訳にもいかないわね」
愛ちゃんは知世の膝で眠りこけている。そこは昨日まで僕の特等席だったのに――。
「そうだね」
知世と肩を並べての通勤は羨望の視線を一手に引き受けることになり、自尊心がくすぐられることこの上ないのだが、託児所のない職場に、毎日愛ちゃんを連れていくことはできない。自身の経験から、我が国の早期幼児教育に疑問を持っていた僕は、知世の専業主婦宣言を受け入れることにした。
愛ちゃんが見せるあどけない寝顔が、僕をたった一日で親バカに仕立て上げていた。
「もう休んだら?」
いまや僕は、知世との会話を成立させながらも百科事典を宙に浮かせ、開いた本から情報の収集をできるまでになっている。
「君はどうするの?」
僕は『最新・遺伝子工学ハンドブック』を閉じた。
「あたしも休ませてもらうわ」
僕には凄く気になっていることがある。知世は〝休む〟と言ってもソファにもたれて眼を閉じるだけ。僕が夜中にトイレにでも起きようものならすぐに眼を覚まし〝どうかしたの?〟と訊ねてくる。ひとがああも不食で不眠でいられるものだろうか。
「おやすみ、いい夢を」
〔図書館でこの本を選ばせたのはなんのためだと思う?〕
――さあね。
2ちゃんねるが議論をふっかけてきたが、僕は布団を頭まで被ることで最も僕らしい意識を閉じることにした。
孤立死、いじめ、自殺、と朝からニュースは暗いものばかり。おまけに例の原発事故は一年かけてやっと報告書がまとまったそうだ。民間でこんなことをやっていたら、その企業は大抵、倒産の憂き目に遭う。『痛みを分け合おう、日本はひとつ』と、お題目のように繰り返されたスローガンもメッキが剥がれ落ち、『絆』は放射性廃棄物の処理という鉈が見事に断ち切っていた。並みの神経の持ち主なら、誰だって人類の行く末を案じてしまう。
「浮かない顔ね」
玄関で僕を見送る知世は、ノエル(ロックバンド、オアシスのメンバー)のママのようだった。
「そんなことはないさ」
僕は無理に笑って見せた。
「いってらっしゃい」
「はやくかえってきてねー」
「いってきます。お利口さんにしてるんだぞ」
「うん!」
パジャマ姿の愛ちゃんは知世の腰に回していた片方の手を離し、ひらひらと僕に向けて振ってきた。
すべての人類に生き残る価値があるかどうかは疑問だが、まもるべき生命は確かに存在する。人類が進化を迎えるため、重量税を売りさばく以外にも僕になにか出来ることがあるはずだ。
そんなことを考えていた僕は、点滅信号の交差点で、危うく車に轢かれそうになった。