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「いや、だって、君……」
「事後承諾は謝るわ。でも、そうでもしないと、あの子はまた別の組織に狙われる。戸籍を作り替えておいた。愛ちゃんはあなたと死別した奥さんとの間に産まれたことになっているの」
なっちゃってますか……
「でも、ニュースであれだけ大々的に報道されて……」
「ひとは自分に関係ないことだと判断すればテレビや新聞の報道だって勘違いだと思い込んでしまうものよ。勿論、それ相応の操作は必要だけど」
現代社会ってのは、それほど他人に無関心なのか……。あれほどの出来事を人々の脳は短期記憶として扱えるものなのだろうか。
「衛星のほうは、わたしたちの力では無理だから〝彼〟が侵入しているはず。なにも心配はいらないわ」
いやいや、心配いるだろう。そりゃあ苦労して助け出した愛ちゃんはまもってあげたい。だけど実際は結婚もしてない僕が、突然バツイチになって子持ちになっちゃうんだぞ。なのに僕はこう答えていた。
「へーえ」
「いまはあたしがあなたの妻よ。戸籍上はそうなっている」
えっ! 僕の内なる抗議の声はピタリと止んだ。
「入籍はいつ?」
いや、問題は日付じゃなくって――。なのに僕はこう訊ねていた。
「昨日付けよ、なにか不都合でもある?」
きっとあるはずだ。こんな美人と可愛い女の子が突然家族になってしまった感動に神経が麻痺しているだけだ。寝不足だってある。考えろ! 僕が再婚の子持ちとして職場内に定着してしまう前に。戸籍を戻してもらう理由がきっと――。
「い、いいんじゃない? それで愛ちゃんをまもってあげられるなら」
なにも思いつかなかった。
「幼児の脳は可塑性に富んでいるから操作し易いの。愛ちゃんはあなたを父親だと思い込んでいるわ」
それであの親しげな笑顔だったのか……。あれだけ悲惨な目にあってPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症さすこともなく屈託の無い笑顔を浮かべた幼女への疑問が解けた。
知世があらわれる前、ディスカバリーチャンネルだかナショジオだかで観た人間の脳についての特集を思い出していた。その番組では、記憶というものが如何にいい加減なもので自分に都合良く置き換えられるかを語っていた。
まあ、いいか。戸籍に数行付け加えられる文字より、愛ちゃんの命のほうが大切であることには違いない。
「じゃあ、それで」
例の指輪を買った時も、僕は店員にこう言っていた。
「ありがとう、あなたはあたしの思ったとおりのひとだわ」
「いやあ、それほどでも……」
〔いいのか? 安請け合いをして〕
――いいさ。
あのまま亜美と結婚して平々凡々とした人生を送り、惨憺たるニュースを見聞きしては人類の行く末を案ずるだけの日々を送るよりは。
進化はトレードオフの関数で働くと言う。僕たち人類が変わるため、すべてが上手く運ぶことなどなく、〝あっちを立てればこっちが立たず〟で進んでいくしかないのだ。それに幾らかでも貢献できるなら、一団体職員の人生だって少しは有意義なものとなるはずだ。
行き交う車の騒音のなか、僕たちの会話は知世の素敵な笑顔で締め括られた。
「今日も一日、頑張ってね」