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気をつけてって言ったはずよ、とでも言いたげに知世がため息をつく。僕は左手で頭を掻き毟った。
「生体認証システムね」と知世。よく見れば老朽化した建造物に似つかわしくない電子部品然とした筐体が横の壁に貼り付いている。掌紋や虹彩を読み取るタイプのものであることはハリウッド映画で学んでいた。こんなものがある時点で〝ここは怪しいですよ〟と言っているようなものだ。
「どうしよう?」
「どいて」
前に出た知世が筐体に手をかざすと扉は音も無くスライドして開いた。
「引き戸であることは間違ってなかったな」
僕の負け惜しみは誰も聞いちゃいなかった。
「生態認証システムには致命的な弱点があるの。照合するためのデータが端末に記憶されているのだから、それを引き出してやればいい。赤子の手を捻るようなものよ」
例え比喩でも、知世が赤子の手をひねっているところは想像出来ない。
樹脂製のパレットに乗せられ、堆く積み上げられた木箱には『MADE IN CHINA』の焼印が見て取れる。やはり誘拐犯は中国の諜報機関なのだろうか。照明が落とされたた倉庫内、灯りが漏れてくるのは右手奥にあるプレハブだった。海でコマセを撒き散らした僕のお腹がグウと鳴る。
「物音を立てないで」
不可抗力なのに知世は手厳しい。僕は生唾を飲み下すことで空になった消化器官を埋める努力をした
鈴木君が壁づたいにプレハブに近づき、中を覗き込んでからこちらを振り返った。
「相手は五人、父娘の姿はプレハブのなかにはないそうよ」
事故直後の記憶だが、知世が声も出さずに福永医師を呼び入れたのが思い出される。やはり彼らの間にはなんらかのネットワークが構築されていると見て間違いない。
「もう船に乗せられちゃったのかな?」
僕は声を潜めて知世に訊ねる。
「いいえ、衛星のデータではひとが運び出された形跡はない。このなかのどこかにいるはずよ。探しましょう、こっちよ」
知世を先頭に、僕たち三人は積み上げられた木箱の間を進む。彼女は木箱のひとつひとつに手を触れて回った。なにを感じ取ろうとしているかはわからないが、ある種の生体反応ではないだろうかと想像する。足音より心臓の立てるバクバクという音が大きく感じられ、また知世に咎められるのではないかと気が気ではなかった。
木箱群が途切れる場所では、更に慎重な足運びとなる。急に知世が立ち止まったため、僕は彼女の背中につんのめるような格好になった。
「ひとりはここ」
知世が手を置いた木箱は厳重に釘で打ち付けられており容易に開きそうもない。開かないのであれば担いで出るしかないのだが、さっき通ってきたドアの開口は狭く、優に1・5メートル四方はある木箱を担いでは通り抜けられない。運河に面した電動シャッターを上げればその問題は解決するが、それなら木箱を開ける音のほうが余程目立たない。
知世は佐藤君に意見を求める。
「どうする?」
「一戦混じえるか――」
ちょっと待ってくれ! 他人に錯覚を起こさせたり、脳波をいじったりができる君たちなら、もっとこう、平和的な解決というものを選ぼうとは思わないのか。
僕の抗議はそのまま表情にあらわれていたようで、額に書き出された文言を読んだかのような言葉が知世から返ってくる。
「工作員の人相風体もわからない状況で錯視は使えない。それと一度に多人数の意識は操作できないの」
そうなのか? そういう情報は前もって教えておいてくれないと僕にも心の準備ってものがある――これも顔に出ていたようだ。
「ごめんなさい、あなたを危険に晒すつもりはなかったの」
「なんてことないさ」
そんな強がりとは裏腹に僕の心拍数は上がり、血行のよくなった右手の指先がジンジンと痛んだ。
ガシャッともグシャッとも言えない音が倉庫に響く。さっきまで僕の背後にいたはずの佐藤君の姿が見えない。それもそのはず、佐藤君は積み上げられた木箱の上にいた。