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 その昔、両親と行ったハワイ旅行で地球の自転を体感した僕は、港町の有名なこの県に住んでいながら、遊覧船にさえ乗ったことがない。

 車を降りた知世は、突堤で釣竿を振り回す人々の背後を抜け、どんどん先へ進んでいく。自動係留装置に混じって昔ながらの係船柱も目につく。大きな船なら多少は揺れが少ないのでは? そんな期待も虚しく、足を止めた知世が「あれよ」と指差したのは全長6~7メートルの小さなクルーザーだった。

 僕の心情は仰ぎ見る空が如し――泣き出しそうになっていた。

「どう思う?」

 コクピットから顔を覗かせたイケメン君2号(佐藤君に負けず劣らずの二枚目ぶりだったので)が、イケメン君1号に声を掛けた。

「回転音にムラがあるな。ペラに釣り糸でも絡まっているんじゃないか? あるいは貝でも貼り付いているとか」

「そうか……。仕方ない、プロペラシャフトごと交換するか」

 イケメン君2号はコクピットを出ると、軽やかに僕の前に降り立つ。

「鈴木です、よろしく。船の修理をするので少し待っていて下さい」

「あ、どうも……神内です」

 にこやかに握手を求めてきた彼は、ウェットスーツの下にアメフトのプロテクターでも着けているのかと思うほど、筋骨隆々としている。

〔佐藤に鈴木か……。明らかに偽名でございますって感じだな〕

 2ちゃんねるがシニカルな口調で呟く。それでも、便宜上、ないよりはましだ。イケメン君1号2号では長いし、失礼に当たる。

 ふたりとも年齢は僕より少し下に見えるが、ひとの知覚が当てにならないことは、既に学んでいる。敬語で話しておけば間違いないだろう、と自らのスタンスを決めた。

 僕は、彼らの通信手段について思案する。知世は携帯電話を持っておらず、僕の部屋に固定電話はない。でも、こうして船の出航準備をしている仲間がいる。海洋博物館前でもそうだった。いつ、どうやって連絡を取り合っているのだろう? あのコンタクトレンズみたいに身体のどこかに通信器でも仕込まれているのだろうか。

 ザブン! と音がした方向に眼を向けると、鈴木君が海に沈んでいくところだった。このままエンジン不調で海上トレーニングは中止にならないものか――。

「なかへどうぞ。コーヒーでもいれましょう」

 佐藤君の声に、知世はひらりと船に飛び乗った。どうあっても出航するつもりらしい。トランサムステップに足をかけた時のグラリとした揺れとコマセの臭い。僕は早くも吐き気をもよおしていた。

 人間、体調の優れない時はジェラシーも影を潜めるようで、キャビンで額を寄せ合うようにして話している知世と佐藤君を見ても、さほど気にはならなかった。オフトデッキで潮風に吹かれながら、鈴木君が浮上して、〝やはりダメだ〟と言ってくれないものかと期待して待っていた。船縁に置いたコーヒーカップが立てる波を見ているだけで酸っぱい物がこみ上げてくるような気がしていた。

 しかし遅い。ペラだかシャフトだかを交換するのにどれだけ時間がかかるものか僕にわかるはずもないが、諦めの速さは時に美徳となり得ることを鈴木君は知らないのか、と心中でボヤいていたら黒いウェットスーツが浮き上がってきて、右手でサムズアップを作った。

「お待たせしました、出航オッケーです」

 直っちゃったのか……。

〔おい、なにか気がつかないのか?〕

 ――なにかって? 

 落胆が僕の眼を曇らせていたのか、元々注意力が散漫なのか、とにかく2ちゃんねるは呆れたように言った。

〔そいつをよく見てみろ。レギュレータも咥えてなきゃ、ボンベも背負ってない。かれこれ二十分は潜っていたはずだぞ〕

 あっ……。

 ――潜水の達人なのかな?

〔違うだろう! 脳への酸素供給が止まればひとは数秒で意識を失い、数分で細胞破壊が始まる。ところがそいつはピンピンしている。僕の考えが正しければ彼らは――〕

 ――彼らは?

〔憶測でものを言うべきではないな〕

 2ちゃんねるは勿体をつけた訳ではない。これをひとつの表層意識しか持たない場合で説明すると、〝なにか閃いたような気はするのだが、それがなんだかわからない〟といったところで、人類が日常的に経験する感覚とたいして変わりはない。

 鈴木君は濡れたウェットスーツのままコクピットに着いて機器を操作する。僕の願いも虚しく、エンジンは一発で始動した。


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