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昼休み、僕は自動車会議所のオフィスで知世の言葉を反芻していた。
――もし誘拐だとすれば、どこかの諜報機関である可能性は高い。
例え、そうだったとしても日本の警察は優秀だ。あの父娘はすぐに発見されることだろう。僕は残り数十ページになっていた『雷のサイエンス』を開く。2ちゃんねるの要望で図書館から借り出したものだった。
正門の回転灯が眼の端に入って顔を上げる。僕の愛車と同型同色のクロカン4WDが、その大柄な車体を乗り入れてくる。〝カンギレ(完成検査証の有効期限切れ)寸前の大幅値引き〟に飛びついた僕以外にあんな不人気色を選ぶなんて物好きな……。プライバシーガラスのせいで明確ではないが、ドライバーは女性のようだった。あまり運転は上手くないらしく、来客者駐車場に斜めに車を停めていた。
清水の舞台から飛び降りたつもりで購入した20インチホイールも僕の車と同じ物が装着されている。違うところと言えば右リヤフェンダーから後部にかけての大きな損傷くらいで、えっ……。
嫌な予感がした。
ドアが開き、遠目にもきれいな女性が降りてくる――って、あれは知世じゃないか! ってことは……。
自動車会議所の通用口は職員駐車場にしか出られない。僕は隣の軽自動車協会に行き、スィングドアに体当たりするようにして外へ飛び出た。
「これはもしかして……」
車の横では、バツの悪そうな顔をした知世がつくねんと立っている。
「そう。26番駐車場にあったあなたの車よ」
車の前に回って、おそるおそるナンバープレートを確認する。間違いない、僕はその場にヘナヘナと座り込みたい気分だった。マイカーローンは三十六回中、まだ三回しか払ってない。
「どうしてこんな変わり果てた姿に……」
ロボットゲートの柱高は七~八十センチだった。金属製のバンパーはもげ落ち、樹脂製のガーニッシュはパックリ割れている。
「出口を間違えたの。入ってきた車の運転手が、けたたましくクラクションを鳴らすものだから慌ててバックしたら柱があってこすっちゃったみたい。ごめんなさい」
いやいやいや、これはこすったとかの次元じゃない。柱に乗り上げた挙句、再び前進したのでもなければこうはならない。
「君に怪我がなかったのなら……、いいよ」
本当はよくなかったけど仕方ない。幸い、僕の自動車保険は自損事故も担保される一般車両保険付きで、亜美が運転することも考慮して運転者限定はしていなかった。
「それより聞いて! たいへんなの」
僕の車も相当たいへんなことになっている。
「その先は僕が話そう」
助手席のドアが開き、降りてきたのは、今朝ほどマンションにいた電気工事士風体の青年だった。
「彼は?」
「仲間よ。音波解析の専門家なの」
「佐藤です、よろしく。真下の依頼で津野さん父娘の消息を調べていました。ふたりは亡くなった奥さんの実家に向かう途中、何者かに拉致された公算が高いようです。コンビニの駐車場に津野誠さん名義の乗用車が放置されていました」
イケメン青年はスマートに握手を求めてきた。
「えっ、じゃあ警察に教えてあげないと……」
「これは警察署内での会話から得た情報です」
イケメン君はサラリと言った。音波解析って聞こえはいいけど盗聴のことじゃないのか? だけど警察相手にそんなことが……。
「警察はそれを知った上で、まだ家出人捜索願の分類を決めかねている状態なの」と知世。
「家出人?」
「ええ。当人に家出の意思があって行方をくらました場合を〝一般家出人〟、当人に家出の意志が無く、何らかの外的要因によって行方不明になった場合を〝特別家出人〟と分類されるの。前者の場合、警察は全く当てにできない。K国による拉致被害者の数があれほど膨大なのも彼らの怠慢だったと言っていい。事態は一刻を争うわ」
「そんなに切羽詰ってるんだ」
「ここは港町よ、相手が外国の諜報機関だった場合、これほど都合のいいロケーションはないでしょう? あなたの車を持ち出したのはね、ふたりを救出できたとして、走り出した途端、閉鎖された空間になってしまう公共交通期間は使えない、そう判断したからなの」
「彼に運転は?」
イケメン君はにこやかに首を振って言った。
「ハンドルを握ったこともないです」
僕は知世に訊いた。「君の運転歴は?」
「さっきが初めてよ。ドライビング・スクールのシュミレーターで試してみたら簡単そうだったから――」
「……」
さすがに無免許運転での事故に保険は適用されそうもない。これ以上、愛車の形が変わってしまうのも僕には耐えられなかった。
「津野さん親娘が連れて行かれた場所はわかってるの?」
「ええ、それは〝彼〟が教えてくれたわ」
「そこへ僕が運転していくとして」やむを得ない。「仕事は大丈夫かな?」
知世は急に畏まった顔になって言った。
「神内俊哉君、参与付法制委員長の視察出張に随行を命じます」




