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 以前、〝僕はひとりっ子〟と語ったことについて注釈を加えておく。僕は戸籍上、三男ということになっている。早産で長兄が死に、一歳半で水死した次兄がいた。どちらも僕が産まれる前のことなので実質的にはひとりっ子みたいなものなのだが、杓子定規な戸籍ではそうなっている。父は二年前に肺癌で亡くなり、今年、五十五歳になる母だけが元気に伊勢崎市の実家で暮らしている。なぜ、こんなエピソードが必要なのかというと、決して資産家の息子ではなく、冴えない容姿の僕でさえ、両親からの贈り物(遺伝子)次第では絶世の美女と同居できる幸運に恵まれることもあるということを、世の『モテない君』たちに知ってもらいたくて書いている。

 僕が住むマンションは賃貸だがそれなりにセキュリティは充実している。従って訪問者はエントランスゲートで目的の部屋のチャイムを鳴らしてゲートを開けてもらわない限り建物にはいれない。訪問販売員が入り込む余地などなく思えるのだが、他の部屋に招き入れられた販売員が、〝ものはついで〟とばかりに手当たりしだいに部屋を訪ねて回るせいか、予期せぬ時に玄関のチャイムが鳴ることがある。例の百科事典も女性販売員の押しの強さに負けて買わされた物だった。ところが最近は、すべて知世が応対してくれるため、余計な出費がなくなっていた。

 マンション住人との交流も増えた。会釈程度だったのが「きれいな恋人がいるんですね」となり、「羨ましいなあ」の声を聞き、単に『二〇七号室の住人』だった僕は、ちゃんと『神内さん』と呼んでもらえるようになっていた。

 物事は悪化し始めると悪化の一途を辿り、好転する時には、盆と正月が一度にやってきたようになる。こういった現象は統計学上で『ギャンブラーの破滅』と呼ばれ、気象や証券市場などにもそんな傾向が見られると言う。だが、ハープをオモチャにする連中に気象は操られ、ヘッジファンド運用者に証券市場が蹂躙される現在、そろそろ新しい法則を探さなければいけない時期に差し掛かっているのではないだろうか。そして悲観論者である僕は「こんな幸運は長くは続かない。そのうち不幸が数珠繋ぎでやってくるに違いない」と気に病み始める。くるぞ、くるぞ、と思っていると、裏切ってくれてもいい予測は絶対に裏切らない。その兆候は朝のニュースが伝えてきた。

 ――H電鉄、T駅直前で起きた列車事故の生存者である津野愛ちゃん三歳が、父親の誠さん共々、行方がわからなくなっていると、O市に済む祖父母が警察に届けていることがわかりました。津野さん親娘は昨日病院を出た後――

 知世は、災禍を生き延びたひとの強運を科学的に解明しようとする動きがあると言っていた。ひとは時に不合理な選択をし、それで危機を免れることがある。それを科学で解き明かそうと各国の研究機関が躍起になっている、と。この父娘もどこかの組織にさらわれたのだろうか。

 キッチンにいたはずの知世も、いつの間にか僕の背後でテレビに見入っている。

「あの娘にもなにか特殊な能力が?」

「いいえ、あなたが抱いてなかったら死んでいたはずよ」

「父娘で旅行に出掛けたとかは……ないのかな」

「調べてみないとわからない。でも、もし誘拐だとすれば――」

「すれば?」僕は息を呑んで続きを待った。

「マスコミの注目を浴びていたふたりを連れ去るような連中よ。どこかの諜報機関である可能性は高いでしょうね」

 僕が助けたせいなのか? 生まれて初めての献身的行為が仇になるなんて――。いや、まだ、わからない。騒がしいマスコミから逃れようと、行方不明を装ってるだけかもしれないぞ。

〔その献身的行為にしたところで〕唐突に2ちゃんねる。

〔ジョージ・プライスが定理化しているんだ。人間の利他的行動は進化の過程で獲得した遺伝的性質によるものだと。わかりやすく言えば〝親切はひとのためならず〟ってことだな。どこまでいっても人類は遺伝子の支配から逃れられないんだよ〕

 どうしてこいつは、いつも水を差すようなことばかり……。僕のなかにこんな嫌なヤツがいるとは知らなかった。

「とにかく」知世が言った。「ここで考えていたって始まらない。あなたは仕事に行って。あの親娘のことは、わたしが調べておくわ」

 ――そうするしかないようだ。僕はコーヒーを呑み干して洗面所に立った。

 マンションのような集合住宅の場合、同じフロアで見知らぬ人物がひとりでいるのを見ると警戒心を抱くものだ。 エレベーターホールですれ違った長身のイケメン君がどの部屋に入っていくか突き止めようとしなかったのは、電車の時刻が迫っていたせいもあるが、彼が電気工事士のような作業着姿で工具箱を提げていたからだった。


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