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ドサリと音がして百科事典が落ちる。誰かが投げ落としたのではなく空間に浮いていたものが落ちた音だ。
この世界はすべてが原子からできており、表面にはマイナス電荷を持つ電子がある。それらが反発し合うからこそ、僕たちは洋服を来たり、歩いたりができるのだ。映画『フェノミナン』でジョン・トラボルタがサングラスを浮かせていた時にも、同様の説明があった……ような気がする。
引力を分断できるだけの斥力をテーブルと百科事典の間に作り出せ。これが知世に課せられた日課だった。
動くぞ、動くぞ、という前触れもなく、百科事典はすっと浮き上がってしまった。この調子なら象や車でも問題なく持ち上がっただろう。だが、そこらに象はおらず、いたとしても室内には持ち込めない。車は駐車場にずらりと並んでいるが、それを持ち上げれば、きっと所有者に叱られるし目立ちすぎる。何トンもある重量物を持ち上げるには、それ相応の分子密度が要求され、同時に高熱を発する――これは単純な物理法則だ。
火災を起こすことなく、〝たまたま〟では浮き上がらない、一冊が数キログラムある百科事典を知世は対象物に指定した。
地面に大穴をあけられるのだからそのくらいできて当然、とやはり知世は褒めてもくれない。思うのだが、一流の奇術師でも歓声や拍手がなければそのパフォーマンスは低下するのではなかろうか。観察に徹した視線に晒され続けたインスタントマジシャンの集中力は頻繁に途切れてしまう。
「集中なさい」
「してるってば」
僕はまた百科事典を浮かせた。ついでにそれをクルクルと回す。〝いつもより余計に回しております〟とでも言ってみるか。しかし知世はどうも浮世離れしている。ドラゴンボールを知らない彼女が、正月しかテレビに出てこない大道芸人の口上を知っているとは思えない。
「静電気が潤沢でない場所で敵と遭遇した時のことを考えてみて。銃弾を跳ね返せとまではいわないけど、これが完全に習得できれば、少なくとも刃物からは身をまもることができる。あたしは俊哉が心配なの」
ボケようかボケまいか迷っている僕に、知世は大真面目な顔でトレーニングの必要性を訴えてくる。単なる『モテない君』で、条件が揃えば人間掘削機になれるだけの僕に、そんな危機が訪れるのだろうか。
小一時間も続けていると僕は頭の芯にだるさを覚えた。未知の感覚だった。それを知世に伝えようとする間もなく、僕の意識は暗渠に呑み込まれていった。
気がつくと僕は、知世の膝枕で髪を撫でられていた。
「気を失ってた……のかな?」
「ええ。トレーニングを急がせすぎたせいね、ごめんなさい」
今時の人類は謝辞さえ満足に告げられない。どこかの国では交通事故の過失割合を殴り合って決めるそうだ。だけど知世は、僕を叱りもするが、こうして謝ってもくれる。僕が張り切りすぎてしまう原因でもある。
「以前、テレビで観たんだけど――」僕はそのままの姿勢で言った。意識は戻っても、この心地良さを放棄するような愚は犯せない。それに僕は、女性を話すのが大好きだ。世の中にそれが嫌いな男性などいないのかもしれないが、知的な女性との知性を刺激される会話にはセックスにも劣らぬ興奮があると僕は信じている。
「――アンパなんとかって薬品が脳の思考速度を速めるそうだよ。そういうのは進化に役立たないものかな」
「アンパカインのことね? シナプス応答を増強し、情報伝達の速度は上がるようね。幾らか認識障害には効果があるみたいだけど――」
「だけど?」
「あれは生命維持を司る脳の機能に悪影響を及ぼす可能性があるの」
「えっ、テレビではそんなこと言ってなかったよ」
「これでしょう」
知世が手をかざすと買い換えたばかりのテレビに電源が入りDVDプレイヤーが起動する。この番組でよく見かける科学者の顔が映し出されていた。やはり学者は、〝副作用ば一切ありません〟と言っていた。
「彼らの多くは製薬会社の紐つきよ。メディアの取材が来ると、薬効成分の単体分離に見通しが立ってないものでも、明日にも実用化が可能なように語る。成果が見られなければ研究が打ち切られるのだから必死なの。それが製薬会社の株価にも反映されているわ」
番組は次のシーンに移っていた。
「再生医療に関する研究も同じね。生体器官印刷、細胞外マトリクスを使った臓器の再生、どちらも膨大な課題を抱えていて治験課程にすら至ってない」
言われてみれば――。それらを用いて癌や白血病が治ったなどとの報道はついぞ聞かない。
「見て」
知世の声に画面に眼を遣る。切った尻尾が生えてきたというマウスを、白衣を着た女性が撫でている。瘢痕をできないよう遺伝子を組み替えてやれば失った手足も生えてくる、と話していた。
「これにしたって免疫機能を低下させてまで行うことじゃない。なくなった指が生えてくるのと、HIVに感染、即、発症するのとどっちがいい?」
「それは……」言わずもがなだ。
「肉体を構成する細胞のひとつひとつに寿命がある。それを超越してまで生きたがる理由はなんなの? そんな強欲な老人ばかりが蔓延る世界で、食料問題はどうなると思う?」
僕は『この社会の間違い』をまたひとつ知ることになった。
「あなたの脳はね――」知世が僕の顔を覗き込む。深い碧を湛える瞳に吸い込まれそうな気がした。「デフォルト・モード・ネットワーク――聞いたことあるかしら? それが顕在意識と同時に活動しているの。アンパカインでは、ひとつの思考信号に複数のニューロンを動員するのが精一杯。基本的にモノが違うのよ」
待ち焦がれた知世の賞賛だったが、僕は困惑していた。臓器を褒められて素直に喜べるものではない。〝あなたの膵臓ってなんてセクシーなの〟と言われたようなものだ。
「潜在部分ってこと?」
「そうよ。さっきの失神は脳がオーバーロード(過負荷)になったみたいなものね。わたしのせいで貴重な細胞が失われるところだったわ。本当にごめんなさい」
僕は大いにがっかりした。知世の興味の対象が僕自身でなく、僕の脳であったことに。
〝新たな能力が発現したあなたの理想のパートナーはわたしかも〟――そんな夢みたいな台詞が聞けることを、知世があらわれて以来、ずっと期待していた自分に気づいていた。