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普段、利用していた鉄道は復旧がなっておらず、退院後の初出勤は他の鉄道を使うことになる。この路線は事故による『運転見合わせ』がしょっちゅうで、最寄り駅まで二十五分も歩かねばならないが、背に腹はかえられない。
自動車関連業種に勤務していてなぜ? とお思いだろうか。実は、僕の勤める軽自動車検査協会には職員全員が車を置くだけの駐車スペースがない。〝子供の送迎をしなきゃならない〟〝独身貴族とあんたと違って主婦は忙しい〟〝ジンちゃんは若いんだから――〟などの理由で、僕はマイカー通勤の権利を剥奪されていた。勿論、彼女たちは僕のことを『貴族』だなんて思っちゃいない。
知世と一緒に通用口を抜けた僕は、デスクに着いた途端、質問攻めに遭う。
「ジンちゃん、ジンちゃん。あのイインチョと知り合いなの?」
先ずは、ここで一大勢力を築いている竹内さん――面倒な仕事を全部、僕に押し付けてくるオバサマ――が一番手だ。
「ええ、ちょっと……」
「なんで、あんたみたいのが知り合いなのよ? 彼女、美人じゃない」
まるで僕に美人の知り合いがいてはいけないような口ぶりだ。だが、僕はこのオバサマの非礼にはとっくに慣れている。
「電車に乗る駅が同じだったんですよ」
「ふうん。あんた、痴漢でもしたんじゃないでしょうね。それでイインチョに引っ掻かれたのがその額の傷って訳」
「してませんよ! これは……、その……猫を飼ったんです。まだよく馴れてなくって」
「どうだか――。まあ、いいけどね」
〝まあいい〟なら放っといて欲しいものだ。
過去に一度だけ、異常とも思える深さのスリットスカートにクラクラして我を忘れそうになったことはあるが、犯罪に手を染める直前に鼻血が噴き出して車内が騒然となったため、僕は事なきを得ていた。
次は亜美の番だった。
「誰なのよ、あの女」
オフィスを颯爽と闊歩する知世は、黒のシャドゥストライプ柄のスーツで身を固めていた。テキパキと指示を出し、職員からの質問にも淀みなく答え、まるで本物の――
「――参与付法制委員長さんだろ?」
「それはわかってるわよ。なんで俊哉の部屋に来たのかを訊いてるの! しかもあの時――」
はいはい、ショーツの件ですね。
「ごめん、実は君と二股だったんだ」
この先、僕の人生でこんなことを言う機会は二度と来ない。理想のパートナーを見つけてもらう約束がなければ、とても口にできない台詞だった。勿論、禁欲生活対策という付帯契約があったことも僕を増長させた原因のひとつだ。
きょとんとした亜美の顔は『予想外』を語っていた。彼女のシナリオでは、そろそろ僕が、〝君の誤解だよ、勘弁してくれよ〟と詫びをいれてきてもおかしくない頃で、『モテない君』の謀反などどこにも書かれてなかったと思われる。
やがて、端役が台本に従わないことを理解した亜美は、交際中には決して見せなかった形相で僕を睨みつけてきた。もし、視線にも質量があるなら、僕は数メートル弾き飛ばされていたはずだ。襟首を掴まれ「なんだと、この野郎!」詰め寄られるのを僕は覚悟していた。
〝お待たせしました。只今より業務を開始いたします〟のアナウンスが流れる。
「おはようございまーす」
瞬時に憤怒の表情をかき消した亜美は、カウンターに並ぶお客さんたちに笑顔を向けていた。
女は生まれながらにして女優である――使い古されたフレーズだが真理であった。
「僕の欠勤理由は?」「親類の葬儀にでもしておけば? 戸籍の操作はそれほど難しくないわ」そんな遣り取りの末、空白の四日間は、いもしない沖縄の叔父が急逝したための欠勤ということになっていた。平和ボケした社会ではこんなことまでもが大ニュースになる。重量税印紙を買い求める人々は「たいへんだったな」とか「気を落とすんじゃないぞ」とかの言葉で弔意を示してくれていた。
「三千四百円のお返しです。ありがとうございましたー」
親族を亡くした哀しみを堪え、健気に業務に励む青年――それが僕に課せられた演題だった。




