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「僕はどうなってしまったんだろう」
なにかの間違いで岩に刺さったエクスカリバー(アーサー王の剣)を引き抜いてしまった平民の困惑は続く。
「あなたが描いた絵を福永に見せてみたの。彼は〝神内君は原子を見ているのかもしれない〟と言っていたわ」
独り言のような小声でも知世にはわかるようだ。彼女はいま、掃除機で割れたガラスを吸っている。
〔口の動きを読んでるようだな〕
さっきから勝手に僕の頭のなかで発言するこいつは、顕在化された並列意識だ、と僕に自己紹介してきた。
読唇術か――。
〔聴覚は視覚で補完されるものだからな。その逆がマガーク効果と言って――〕
――間が空く?
〔違う! マガークは人名だ。つまり、他の感覚モダリティの――〕
偉そうだし話も長そうなので放っておこう。
「原子って水素とか酸素とかのあれ?」
騒音のなか、僕も知世の言葉が聞き取れていた。
「ええ、量子論で考える原子模型はあんな感じだそうよ。あなたの視界にマクスウェルの悪魔が住みついたようね」
家主である僕に断りなく住みつかれても……。後にググッてみたところによると、マクスウェルの悪魔とは驚異的な視力を持ち、空気分子の流れを見ることができる想像上の生物を言うらしい。エントロピーがどうのこうのとも説明にあったが、それに言及するとなると熱力学第二法則についても語らねばならないので説明を省略する。
「それで?」
「大気電流発電についてはなにか知っている?」
「例の本に書いてあったね。大気中の静電気を電気二重層キャパシタに回収し電力として利用するってヤツだろう?」
「ええ、大気中では微粒子でさえ帯電している。原子は素粒子が集まったもので、周囲には負の電荷を帯びた電子があり、なにかが動くだけで摩擦帯電が起きる。ドアノブに触れた時、バチッとなることがあるでしょう?」
「うん」
「頭部への打撃が、あなたに大気中分子の視認とコントロールを発現させた。人体の構成要素には水や炭素にタンパク質、鉄にケイ素も含まれている。あなたは自らの肉体を大型のコンデンサとして利用したのではないかしら」
〔――だから、あの英語教材はあまり効果的とは言えない。まあ、やらないよりはやったほうがマシって程度だね。CMでペラペラ話してる連中は、生活の拠点を英語圏に置いているからこそ――〕
意識その2は、まだマガーク効果について語っていた。こんなのが、あと幾ついるのだろう。僕の意識だと言うのなら、もっと控えめであっていいはずだ。なのに、こいつときたら……。
〔彼女はいいところを突いてるね。だが、僕に見えているのは電子雲、つまり、電子の軌道だけ。電磁波は電子を揺り動かす波――逆を言えば、電子を攪拌すれば電磁波が起きるってことだ。そして電場があれば磁界は簡単に生成できる。そこに蓄電した静電気を流してやったんだよ。もっとも、さっきのはヒステリーを起こした奥様ぐらいの破壊力でしかなかったけどね〕
――電磁誘導か。磁場が変動すれば電場が発生する。電場が変動する時に磁場を固定しておけば、直線的なエネルギーに変換されるということだ。僕はそんなことを無意識に行なったんだろうか。
〔表層意識の怒りを僕が具現化したんだから無意識とは言えない。しかしあれだな、きっと世に言う超能力の正体はこの類なんじゃないか〕
昆虫は紫外線を認識し、爬虫類は赤外線を見ると言う。電子雲が見えるようになった僕の脳はシーラカンス並みということか? どうせなら空を飛ぶとか壁を通り抜けるとか。もっとこう、見栄えがする力が発現しないものか。『モテない君』は遺伝子まで地味なようだ。
背後にあって被害を免れた姿見を見る。片仮名のミを逆にしたような一辺十五ミリほどの傷跡が額中心やや左寄りに残っていた。