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三日後、知世が大きな紙袋をふたつ提げてやってきた。
「おめでとう、退院よ。これに着替えて」
中身は衣類だった。僕の部屋から持ち出したのではなく、紙袋にロゴプリントされたファッションビルで買ってきてくれたもののようだ。僕なら絶対に選ばないローズレッドのダウンジャケットに、馬上の騎士が刺繍されたセーター、古着かな? と思ったツギハギだらけのジーンズは、なんとイタリア製だった。
だから『モテない君』なんだよ、と言われるかもしれないが、仕事用のスーツでさえ二着で三万九千八百円のものしか買わない僕は金額を訊くのが怖かった。
「気にしなくていいのよ。わたしはあなたの部屋に住まわせてもらって下宿代も払ってないんだし」
その代わりに知世は、食事の支度や洗濯までしてくれていた。しかも、あんなことまで――。
改めて病室を見回す。トイレにシャワーに、応接セットまであるここの支払いには幾らふんだくられるのだろう。知世が取り戻してくれた五十八万七千円がどれだけ目減りするかが心配になってきた。
「部屋に戻ったら払うからね」
知世は、否定とも肯定ともとれない笑顔を浮かべていた。
僕にはもうひとつ心配事があった。入院中、ひとりの見舞い客も訪れてないのだ。いくら友人の少ない僕と言えど、これは如何にもおかしい。食事の世話をしてくれた病棟婦さんは僕が投げかけるアイスブレイクにも終始無言で、彼女の眼に僕の姿が映っていたのかどうかさえ怪しい。
僕は『シックス・センス』という映画を思い出していた。『死んだ』自覚のない精神科医が、幽霊と対話することのできる少年のセラピーに当たるという内容のものだ。数え切れないほどトイレに立ち、何度も窓際に足を運んだのだから足はあったはずだが、いま一度、手で触れてその存在を確かめる。
「なにも心配はいらないわ」
知世にそう言われると無条件に信じられそうな気がしたし、信じるしかなかった。医師の知り合いがいて人口知能のコピーであるという彼女の言葉に、高卒の僕が異論を挟むのは得策ではない。
この三日間、テレビを観ることは許されず――何度頼んでも「ごめんなさい、忘れちゃった」と、知世はプリペイドカードを買ってきてくれなかった――病室には外から鍵がかけられて幽閉状態。「退屈でしょう? はい、これ」と知世が持ってきてくれた数冊の書籍は、コミックでも週刊誌でもなく、小説でもなければ時刻表でもなかった。
重量税印紙を売りさばくのが生業である僕に『シリーズ脳科学全六巻』や『電気磁気学の理論と応用』など読ませてどうしようというのだろう。だが、本を読むという行為には七個以上のチャンク(記憶の塊)が関与しており、外傷性健忘のリハビリに効果があると『シリーズ脳科学大全』の第四巻に書かれていた。
僕は読んだ。どうせ他になにもすることがなかったのだ。
以前、交通事故――マンションを出ようと待っていた僕の車に、逆行してきた宅配便のトラックが猛スピード突っ込んできたのだった――で、この病院の世話になった時には、一階総合受付の隣に診療明細書を出して、そのまた隣で支払いを済ませて帰っていた。知世のバッグに書類がはいっているのかと思ったが、彼女はスタスタと出口に向かって歩いて行く。僕は知世に追いついて訊ねた。
「支払いはどうなってるの?」
「なにも心配はいらないわ」
列車事故で入院したんだから、鉄道会社が面倒を見てくれるのか? 車両に施されたマルーンの塗装は、お金持ちっぽい感じがしないでもない。
よちよち歩きの女の子が両親の監視の目を逃れて走り出し、僕の膝にぶつかって転ぶと激しく泣き出した。駆け寄った母親らしき女性の咎めるような視線に、僕はようやく自分が生きていることを実感した。
「四日ぶりの我が家かあ」
本来は特定のチャンネルしか観ない僕だが、新聞も届かず、外界との接触を完全に絶たれていたので世間の動向が気になる。部屋にはいるとすぐにテレビのスイッチを入れた。
――H電鉄、T駅直前で起きた列車事故は、未だその原因が掴めず、鉄道事故調査委員会関係者の頭を悩ませているようです。事故発生直前に沿線住民に使用するパソコンなど電子機器の誤作動が相次いだという情報があり、それが事故と関連のあるものかについても調べを進めている最中だと報道発表がありました。また沖縄県の基地移転問題で来日していたストロベリーアメリカ国防長官が現地を訪れ、調査協力を惜しまないと発言したことを受け、今朝の記者会見で坂本国土交通省大臣が公式に感謝を表明、調査協力の要請を申し出ました。なお、たったひとりの生存者である津野愛ちゃん、三歳の怪我は当初の診断より軽く、明日にでも退院が可能だと病院側のコメントが発表されました。
「え……」
僕の人差し指はテレビに、そして視線は知世に向かった。
「あなたが混乱しないよう、知らせてなかったことがあるの。わたしたちはあの電車に乗ってなかった。いいえ、乗ってはいたのだけど生存者リストに名前はなく、死者の数にもはいってない」
「はい?」
知世が仕掛けてきた禅問答は僕を混乱に陥れていた。