25
「気がついた?」
混沌に嵌りこんでしまったような場所にいた僕を、優しく呼びかける声が聞こえる。焦点を結び始めた視界に姿をあらわしたのは、べらぼうに美しい女性だった。見覚えがあるような気はするのだが、誰なのか思い出せない。
「ここは?」
「病院よ。あなたのマンションの斜向かいの」
「病院? なぜ僕はそんなところに……」
「俊哉は列車事故に遭ったのよ。憶えてないの?」
「列車事故だって! いつ? つぅ――」
上半身を起こし、記憶を手繰り寄せようとすると強烈な頭痛が襲ってきた。
「記憶障害があるようね。脳に損傷はないから一過性のものだと思う。焦らないで、記憶は徐々に戻るはずよ」
僕は記憶をなくしているのか……。では、僕を俊哉と呼んだこの女性は知り合い? まさか彼女なんてことは……ないよな。でも、たったひとりで病院に見舞いにくるなんて彼女でもなきゃ……、妹かな? いや、僕がひとりっ子だった記憶は確かにある。では一体……うっ!
とりとめのない自問自答は再び襲ってきた頭痛で中断される。僕は額に手をやった。ニットキャップでも被っているのかと思ったが、話の流れからいってガーゼとネットだと判断するのが妥当だ。
「あなたは看護師さん……ですか?」
はい、という答えが返ってくるとは思わなかった。その美しい女性はナース服ではなくエレガントなスーツに身を包んでおり、カルテを挟んだクリップボードも持ってない。やけに若く見えるが、非番の女医さんだろうか。
「すぐに思い出すわ」
慣れた手つきでずれたネットを直してくれた様子から、やはり女医さんなのだと思うことにする。過度の期待は、過去に何度も僕を痛い目に合わせてくれていた。
しかし、どうも視界が変だ。
「意識して見ようとするものの輪郭はハッキリしてるんですけど」僕は自分の症状について訊ねた。「ぼんやり眺めてると部屋中が極彩色の塵みたいなもので満たされているように見えるんです。僕は眼にも怪我をしているのでしょうか」
女医さんの表情が一変した。彼女がドアのほうに視線を振ると、なにも言ってないのに白衣の男性がはいってくる。これがまた、腹が立つほどの二枚目だった。
「なにかが発現したのかしら?」
「ですから、塵みたいなものがですね――」
「見えるものはそれだけですか?」
女医さんの問い掛けを受け、白衣の男性は首を捻りながら僕に訊ねてきた。ネームプレートには『福永』とある。
「ええっと、おふたりの身体からぽうっと灯りが出てるように見えます。美男美女特有のオーラってやつかな」
「触れることは出来ますか?」
「どうかな……」僕が手を伸ばすと塵は拡散してしまう。「無理みたいです。まるで磁石の同じ極を近づけるみたいに離れていってしまいます」
美男美女は顔を見合わせた。
「眼に異物が混入してるような感覚はありますか?」
福永医師は僕の右眼をこじ開けて覗き込む。
「ゴロゴロ感みたいなものですか? ありませんけど――」
今度は左眼をこじ開けられる。女医さんが眼科だったらよかったのに。
「角膜に異常はない。頭部への衝撃が、視覚になんらかの変化をもたらしたのかもしれないな」
「彼にはなにが見えているのかしら」
「わからん、〝彼〟の指示を仰ごう。君は引き続き様子を見ていてくれ」
福永医師は、僕の渾身のジョークを宙ぶらりんにしたまま、足早に病室を出ていった。
女医さんは、僕を見て考えに耽るような顔をしている。さっきのジョークにご立腹なんだろうか――。僕はいたたまれず、声を発した。
「あのう……」
「なにも心配しないで。いまはゆっくり休むのよ」
美貌の女医さんは僕の手を優しく包み込んでそう言った。
昨今、病院経営をめぐる状況は厳しく、患者獲得のため様々なサービスが提供されるようになったとは聞いていたが、まさかここまでとは……。
以前、ここに入院した時の担当医はかなりのご高齢で、一度など、僕に射つはずの造影剤を過ってご自分に注射され、大騒ぎになったこともある。
夢なら覚めないでいて欲しい――僕はそう願っていた。