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「これなんですけど……」
Hデパートの宝石店で、領収書と共に指輪のケースを置く。購入時、〝これだけのものなら、いつでも買い取らせていただきます〟と、店員に聞かされてはいたが、まさか本当にそうなるとは思ってなかった。
「お引き取りさせていただくということでしょうか?」
すわ、連れの美人にプレゼントを買いにカモが来た! と一度は眼を輝かせた女性店員の視線温度が急降下するのがわかる。
「はあ、プロポーズを断られてしまったもので……」
プロポーズは未遂に終わっていたが、亜美の様子を見る限り、受諾してもらえそうもない。なにより僕自身にその気がなくなっていた。少し焦っていたのは、このデパートに閉店の噂が流れていたからだ。
「先月のお求めですね? 売価という訳にはまいりませんがよろしいでしょうか?」
感情を混じえず淡々と話す女性店員は、接客マニュアルを読み上げているだけのように見える。まあ、大袈裟に同情されても惨めになるだけだし、過剰な買取り価格を期待した客が、店側の指し値との開きに取り乱さないようにとの配慮もあったのかもしれない。 僕は好意的に解釈することにした。
「構いません。お願いします」
当然だが、ものの値段には営業利益が含まれており、それでこの店員さんの給料もテナント料も賄われている。〝せいぜい半値〟は承知の上だ。
「店長を呼んでまいります」
僕の決意が変わらないことを知った女性店員は、そう言って奥のドアに姿を消した。
ややあって、先ほどの店員が中年女性を伴ってドアから出てくる。店長と思われる女性の顔は、乗りの悪いファンデーションに苛立ちを重ね塗りしたようでとても粉っぽく、僕は思わず大福餅を思い浮かべていた。だが、そのなかは甘い餡やフルーツではなく、おそらくはハラペーニョを擂り潰したもので満たされていたのではないだろうか。彼女が電卓を叩いて提示したのは購入価格の三十パーセント程度の金額だった。
「それで……結構です」
それでも用途をなくした指輪を持っているよりはいい。客で来た時とは比べ物にならないほどの居心地の悪さに、僕は一刻も早くここを立ち去りたかった。
「待って!」
知世は店員が手にしていた領収書を奪い、電卓の数字と見比べる。
「これってオーダー品じゃないわよね。サイズは直してもらったの?」
「いや……、亜美が受け取ってくれたら後で一緒に直しに来るってことで標準サイズをもらって帰ったんだけど……」
「すると商品交換の可能性は伝えていたことになるわね」
「う、うん」
知世はなにが言いたいのだろう。店内の効き過ぎた暖房のせいばかりでなく、僕の額には汗が噴き出してきた。
「雑費込みの粗利が売価の七十パーセントですか、暴利ではなくって?」
舌鋒鋭く知世が店長に詰め寄る。
「当店の規定というものがございまして――」
店長の木で鼻をくくったような返事は、その無表情とよく似合ってはいたが、ファンデーションにクラック(ひび)がはいるのを恐れたからだと聞かされても僕は驚かない。
「契約書を見せていただけます?」
毅然として言う知世に、店長は渋々といった体で書類の綴じられたファイルを開いて見せる。知世の黒目が凄いスピードで上下左右に動いていた。
「押印はあなたが?」
「印鑑は持ってなかったから……。えっ、押してあるの?」
店長の顔が微かに歪んだ。
「この条項は読んでもらったの? それとも読むように言われた?」
顔を近づけないと読めないほど小さな文字の羅列を知世の白魚のような指がなぞっていく。
「いや、単なる顧客登録のためのものだからって……。これって契約書だったんですか?」
僕が顔を向けると更に店長の顔が歪んだ。それはもう、ファンデーションの表層が剥がれ落ちそうなほどに。パリン! と音が聞こえたように思ったのはきっと錯聴だと思う。
「押印は本人の印鑑で行われておらず、契約解除出来ない旨は意図的に告知されていない。消費者契約法の第十条、『民法 、商法 (明治三十二年法律第四十八号)その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し、消費者の権利を制限し、又は消費者の義務を加重する消費者契約の条項であって、民法第一条第二項 に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するものは、無効とする』にも抵触しそうね」
「……売価で引き取らせていただきます」
呆気にとられて経緯を見守る僕の前に、三日前に支払ったのと同じ額の現金が手品のようにあらわれていた。