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「N駅で乗り換えるからね」
僕のマンションがある街は快速が停まらない。
「わかった。でも、なぜ恥ずかしそうに言うの?」
「そんなことないよ、君の気のせいだろう」
そう答えはしたが、実はそんなことあったのだ。〝快速の停らない街〟に住んでいることをアンチステータスだと考える僕は、この地域の地理に詳しくないひとに住所を訊ねられると〝Kだよ〟と、有名な港町を騙っていた。風采の上がらない外見の上、住所まで下町では、女性と縁遠くなると思っていた。そんなもの、交際が始まればすぐにわかってしまうのに、〝電車で二十分だから〟を言い訳にできるとでも考えていたようだ。
車内放送が乗り換えの駅が近づいたことを知らせる。
この機会に考えを改めよう。どこに住んでいたって僕は僕じゃないか。少しだけ胸を張って眺める駅舎は、いつもと違って見えた。
「あそこは?」
知世の視線の先にはスポーツクラブの看板がある。
「スポーツクラブだよ。全国展開してるから、君も名前くらいは聞いたことあるんじゃないか」
「見てみたいわ」
乗り継ぐ予定の電車は既に止まっていたが、知世は僕の返事も待たず、さっさとホームを上がるエスカレーターに乗っていた。
「見学者パスですべての施設をご覧いただけますよ」
入口に立ってマシンジムで汗を流す人々を見ていると、エンジ色のポロシャツを着た女性スタッフが声を掛けてきた。
「ありがとう、もう十分よ。お仕事の邪魔をしてたのならごめんなさい」
「い、いえ、そんなことは……」
こんな美人が会員でいれば、それ目当ての男性客も増えるだろう。だが、昨夜僕が見た知世の裸身には一片の贅肉もなく、従ってスポーツクラブ通いをする理由もない。
「なにを見てたんだい?」
ホームに下りるエスカレーターで僕は訊ねた。
「あのひとたちは、あそこでなにがしたいのかしら」
「なにがって、スポーツクラブですることは決まっているさ。現代人は運動不足だからね。身体を動かすことでストレスを発散し、心身の健康を保とうとしているんだよ」
「ひと月の利用回数が一~二回の人達でも?」
「えっ! そんなに少ないひともいるんだ?」
「履歴にアクセスしてみた。一万三千円強の月会費を払って平均利用回数が週に二回というひとが六割、月に一~ニ回のひとが二割もいたわ」
「へえ、それじゃあドブに金を――」
言いかけて、僕は続きを呑み込む。駅直結のスポーツクラブだ、利用客がそこらにいないとも限らない。
僕の勤務先では亜美を含む多くの女性職員がさっきのスポーツクラブの会員になっていた。手が空いた時、彼女たちがピラティスがどうの、バンプがどうのと話しているのを聞いたことがある。滅多なことを言って誰かの耳にでもはいれば、勤務先で総スカンを食らうことにもなりかねない。
「それに、あれでストレスが解消できるとも思えない」
「そうかい? 運動はストレス解消の有効な手段じゃないのかな」
「あれじゃあ、まるでハムスターじゃない」
ルームランナーやエアロサイクルがそう見えなくもないことには僕もかねてから気づいていたが、先ほどと同じ理由で同意もできず、同僚が暗黙で要求してくるであろう否定をしない僕を、誰かが見ていたらどうしよう、と周囲を窺った。
本心を語れば知世の言うとおりだと思う。高い会費を払う理由は「宅はどこそこの会員ですのよ」といったステータスの誇示、或いは社交場利用料としての認識なのかもしれない。
僕がよく見るテレビ番組のCMに〝ペットボトル飲料1本分のお金で救える命がある〟というのがある。世界では230万人を超える子どもたちが、栄養不良のせいで五歳まで生きられないと言う。
骨格の要求を越えて体重を落とすことなど無意味だし不健康にも繋がる。どうせ変わらない体型ならさっさと諦めて内面の美しさ――例えば『分け与える心』を練磨されてはいかがだろうか。
実は僕も、去年の暮れから一口分だけ寄付を始め、亜美にも勧めたことがある。
――Aが広告塔になってるアレ? 都心の一等地に自社ビルを持ってるわよね。そのお金の何割かがビルの維持費に消えてるんじゃない?
そう言って亜美は、僕を哀れむような眼で見たものだった。