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「久しぶりだなあ。お前が部活を逃げ出したのが二年になったばかりの時だったから十年以上になるんじゃないか」
「……あはは」
僕は早くも日本人旅行者の笑みを発動する。しかし、なんであんたがここにいるんだ?
「こっちに住んでんのか? 俺も今年から関西勤務になってな――。そっちは妹か?」
たった一年で部活動を逃げ出すような軟弱者に、こんな美人の彼女がいるはずはない。知世を顎で指し示す佐原先輩の眼はそう言っていた。
「あたしたち恋人同士なんです。だから、あなたはお邪魔虫。ほっといてくれませんか」
にこりともせず言う知世に佐原先輩は、「あ……はい。わかりました」とか細い声で答え、すごすごと隣の車両に移っていった。
「念のために聞いておくけど、いまの彼に、君が探す資質はなかったのかい?」
「先入観で凝り固まった人間に進化は訪れない」
佐原先輩の指にマリッジ・リングはなく、垢抜けない立ち振る舞いは恋人の存在も感じさせない。その上、進化からも見放されたとなれば――。
僕は彼の背中を、深い同情をもって見送った。
「いい雰囲気の店だろう」
古い銀行の建物を改装して作られたカフェでは、あちこちのテーブルで観光ガイドが広げられている。情報誌に載ると、いきなりこれだ……って、僕も観光客と大して変わらない。
知世は「そうね」と同意を示し、店内を見回す。
「いないわね」
彼女の脳裏にあったのは『使命』のふた文字で、僕のそこには『美女と過ごす憩いのひととき』があった。僕がコーヒーを飲み終えるや否や、知世は「出ましょう」と言ってグラスの水に口もつけずに席を立った。その間、約十五分。千円也のたいして上手くもないコーヒー代にはテーブルチャージも含まれているだろうに……。
インドでは四百十一日間に渡って水だけで生き延びたひとがおり、我が国にも似たような『不食のひと伝説』はある。就寝中のことまではわからないが、昨日、知世があらわれて以来、彼女がなにか飲み食いしてるところを僕は見ていない。しかし、まさかな、単にダイエット中なのだろう。
「場所がまずかったのかな」
「気にしないで、あなたを見つけるのにも三ヶ月かかった。そう簡単に進化の可能性を秘めた遺伝子保有者が見つかるなんて思ってない」
表情を曇らせたのは知世だけではなかった。予報通り機嫌を損ねた冬の空から、水分率の高い雪が落ちてきていた。
僕はコートの襟を立て、折りたたみの傘を広げる。知世に差しかけるとローズとジャスミンが香った。
「凄いひとの数……。超LSIみたい」
繁華街の中心は予想通りの集積、いや、混雑ぶりだった。
「ああ。まだ寒いこの時期でさえこうだからね。ゴールデンウィークなんかだと真っ直ぐ歩くのにも苦労する。探すひとが見つかるといいね」
「そうね」
知世は微笑んで僕の手を握る。僕の心拍数はドーンと一気に跳ね上がった。
「あ……、歩こうか」
潮の香りに導かれるように海へ向かう。海岸通りを渡る歩道橋の上で夫婦者と思しき外国人旅行者がなにか話し掛けてきた。
「Жао ми је. Китанозака Где је?」
「I'm not much good at English. Please speak slowly」
僕が得意気に英語が苦手だということを告げると、知世が傘を出る。アプリコット色のグロスがひかれた唇から流暢な外国語が流れ出てきた。
「Знате одмах ако одете директно овде на северу」
「Хвала. Српске заиста добар」
「Срећан пут, али не толико」
外国人旅行者はにこやかに手を上げて去っていった。
「いやあ、フランス語だけはどうもね」
「セルビア語だったわ」
「……」
セルビア語で『恥の上塗り』はなんて言うのだろう。