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 こんなふうに僕と知世の奇妙な同居生活は始まった。禁欲生活対策については、爽やかに目覚めた朝なので記述を控えたい。予想していたものとは少々違っていたが、彼女から贈られた――そう、まさに贈り物のようなめくるめくひとときは、決して普通の女性には創造し得ないものだったと断言できる。

 知世の話を全面的に信じた訳ではないが、懐疑的に見るのは止めようという気になったのは、それが大きい。美女に免疫のない『モテない君』が色仕掛けに陥落したのではなく、昨日見せられた不思議な力の数々も伏線になっていたのだと言い添えておこう。

「どこへ行こうか?」

 個人情報ファイルには僕の嗜好まで記されているのだろうか。知世が煎れてくれたコーヒーは、濃さといい温度といい、僕の好みにピッタリだった。

「どこへでも――。なるべくなら、ひとが多いところがいいわ」

 ここから電車で二十分の距離に観光名所として有名な港町がある。日曜日の今日なら、ひといきれで噎せ返るほど賑わっているはずだ。

 玄関をロックする時、ふと思いついて知世に訊ねる。

「電子機器の操作はお手のものみたいだけど、ここにはピッキングのできないドアロックが使われている。初めて君が来た時、どうやって部屋にはいってきたんだい」

「ディンプルキーはマスターの作成が簡単なの。それに、あなたのキーはいつも下駄箱の上に置いてあるじゃない」

 ――知世の仲間には鍵職人がいる可能性大。忘れないよう、僕は脳内メモに書き込んでおいた。

 天気予報の「お天気はぐずつきがちで、平地でも雪が舞うところがあるでしょう」の忠告に従い、僕はゴム引きのコートを選んでいた。僕のワードローブで唯一、ひとに誇れるものだ。それでも知世と並ぶと、みすぼらしさが際立ってしまう。

 なんだか、洋服にまで差別されているようで気分が悪かった。 

 軽自動車検査協会というところで重量税印紙を売りさばくのが仕事の僕は、ひとたび街に出れば帰宅するまでに必ず何人かの〝名前は知らずとも顔馴染み〟に声に掛けられる。

 そんな時、僕は、外国人から英語で話しかけられた日本人旅行者のように、曖昧な笑みで返すことにしていた。向こうは僕の名を知っており、僕には相手がわからない。下手に話が弾みでもすると、呼びかけようとする度に困ることになる。

 美女とのお出掛けに僕の胸は弾んでいた。昨夜でさえああだったのだ。陽光の下、知世と肩を並べて歩く僕に集まる羨望の視線はいかほどのものか――。

 取らぬ狸ならぬ『モテない俊哉の皮算用』が僕を有頂天にさせていた。

「ジン? おまえ、ジンじゃないのか」

『モテない君』の生涯にも栄光の日は訪れる。それを広く世間に知らしめたい。そんなさもしい根性が、僕に公共交通機関での移動を選ばせていた。そして、それを僕はたちまち後悔することになる。電車内で声を掛けてきたのは、高校時代に僕が在籍していたアマチュアレスリングというマイナーな運動部で先輩だった佐原良彦さんだった。

「あっ、どうも……ご無沙汰しております」

 ここで少し僕自身について語っておこう。僕の名前は神内俊哉〈かみうちとしや〉。それなのになぜか友人知己はジンナイと呼び、ジンナイトシヤが縮まってジンジャーとかジンちゃんとか、酷いものでは『生姜』とも呼ばれていた。

〝さっきから見ていたが君の身のこなしには才能が溢れている〟などという、後で考えればどうとでも誤魔化しの利く誘い文句に絆され、うっかり入部してしまったアマチュアレスリング部だった。最上級生である三年生がマン・ツー・マンで指導に当たるシステムだったため、体重ランクが同じだったこの佐原先輩が僕の指導係だった。

 外見的には僕とどっこいどっこいの彼だ。甘酸っぱい青春を謳歌する友人たちを尻目に、耳がカリフラワー状になるほど熱心に技の習得に励まれたと思われる。入部して数週間の素人を身動きできなくすることなど雑作もない。

「どうだ、動いてみろ」

 サディスティックな笑みを浮かべて語る彼のジャージの股間からは栗の花の香りが立ちのぼった。恍惚感で射精していたのではないかと思う。

 こんなところに長くいたら、いつしか肛門に裂傷を負いかねない――そう考えた僕はチーム改編(個人技のように思われがちなアマチュアレスリングだが、インターハイでは高校単位の対戦となっていた)のドサクサに紛れ、とっとと逃げ出したものだった。


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