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 ポケットからスマホを取り出そうとする僕の手を押しとどめて知世が言った。

「それには既に別働隊が当たった。人間のワーキングメモリが一度に処理できる情報は七つまで。関連記憶の整理やパターン化に熟達することが、それ以上の情報処理能力を有しているように見せているだけ。脳波に見るべきものはなかったそうよ。鬼才と呼ばれるサヴァン症候群の人々にも接触を試みた。彼らを差別するのではないことを理解した上で聞いてちょうだい。九千冊の書物を暗記する能力は驚嘆に値する。でも、内容の理解を伴わない記憶では意味がないの」

 未だ原因の解明には至ってないようだが、サヴァン症候群の人々は脳に発達障害を持ちながらも、特定の分野では天才的な才能を見せる。胎児期における男性ホルモンの異常分泌が原因で左脳の発達が妨げられ、右脳が支配を解かれたから――という説もあるようだ。ならば薬指が異様に長い僕も、胎児期に大量のテストステロンにさらされたのかもしれない(薬指が長い程、テストステロンを多く分泌する男性型脳の持ち主だそうだ)。幸いなことに僕は、内向的なりにコミュニケーション能力までは損なわれてない。

 一年前交通事故で頭部を強打、それから暫く原因不明の頭痛に悩まされた僕は、担ぎ込まれたT病院――マンションの隣がそうなのだが、なぜだか救急車が着くまで待たされた――でMRIとCTの検査を受けていた。

 元来、慎重派で仕事の遅かった僕が、他の職員に押し付けられた雑務までこなせるようになったのは、その頭痛が治ってからのような気がする。

 まだ、腑に落ちない点がある。自覚はないが、知世は、〝あなたには完全なる並列思考の能力もあるようね〟と言った。つまり、それが保護対象となったのではないと言うことだ。一体、僕のなにを保護しようというのだろう。

 電車は降りると、木枯らしが立木を揺らしていた。僕はそれに負けない程度まで声を張る。「特別ってのはどういうことなのかな」それがわからない限り、これが『新手の詐欺』であるという疑いは捨てきれない。

 束の間、知世の表情に逡巡が揺れた。

 僕とて、〝この出逢いは運命なのよ〟などという胸躍る台詞を期待したのではない。だが、次に知世が語ったことは別の意味で胸の鼓動を高めることになる。

「あなたは、あの事故で死んでいても不思議はなかったの。病院に運び込まれた時のMRI画像と担当医の所見を見たから間違いない。あなたの脳は、25パーセントにも及ぶ神経細胞が破壊されていたのよ。担当医が高齢だったという僥倖にも恵まれた。〝彼〟は他の研究機関の眼に留まらないよう、あなたの画像データとカルテを改ざんしたの。そうでなければ今頃あなたは……」

 どこかの病院の地下研究室に幽閉され、実験動物のような毎日を送っていたとでも言いたいのか――。

 尋常でない喉の乾きを感じた僕は、気がつくと僕は自販機の前に立ち、震える指で百二十円を投入していた。缶コーヒーをぐびぐび流し込む僕に知世が続ける。

「普通、人間の脳は損傷が生じた部分の被害を最小限に食い止めようとグリア細胞で埋められる。この状態を病理医はグリオーシスと呼んでいるわ。異物除去と機能補填のためにグリア細胞の活動が活発になるの。でも、いくら増殖が可能なグリア細胞でもニューロンの代役を果たせる訳じゃない。例えば、呼吸筋を動かすための情報伝達が行われなければひとは死んでしまう。でも、あなたはそうならなかった。軽微な麻痺さえ残ってない。有り得ないのよ、こんなことは」

「有り得ないと言われても、僕はこうして生きて喋っているんですが」

 僕は自らの生存を賭けて反論に出た。

「つまり、あなたには神経細胞を再生する能力が具わっている。ひょっとするとあなたのアストログリアは、増殖した後にニューロンに変態するのかもしれない。わたしたちが後世に伝えたいのはそれなの」





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