11
マンションの敷地を出ると、耳朶に吹きつける寒風は鋭利な刃物のようだった。陽はとっくに暮れており、摂氏三度の冷気が、スパイシーな吐息を白く曇らせていた。
終末の夜、この街は眠らない。どこからか逃げ出したアライグマがひとを襲ったことがあって以来、街路灯の数は増え、歩道は煌々と照らし出されている。
知世はシックなトレンチコートを着込んでいた。スレンダーな彼女に良く似合っている。ハイヒールも彼女のすらりと伸びた足を一層細く長くみせていた。真っ赤な靴底が特徴的なそれは、セバスチャン……なんだっけ? とにかく、靴のくせに中古車が買えそうな値段のフランス製だったことだけは覚えている。
慌てて部屋を出た僕は、着古したセーターにコートを羽織っただけの、これ以上ない普段着姿。すっかり足に馴染んだエンジニアブーツは、既に底を二度貼り直していた。
「君は僕以外のひとにどう見えているのかな」
早川には亜美に見えた知世の外見が気になって訊ねる。
「あなたが見てるままのわたしよ。あ、待って」
知世が腕を絡ませてきて、肘が彼女の胸のふくらみに当たる。僕の胸は思春期の少年のように高鳴った。
「こうもして欲しいとあなたの脳が言っている」
「いや、別にそこまでは……」
図星だった。だが、この程度で脳波を読むなどという話は信じられない。世の女性は『モテない君』の考えることなど、すべてお見通しなのだから。
「こっちよ」
「どこへ行くんだい?」
「行けばわかるわ」
すれ違う人々に僕たちの会話までは聞こえない。知世の眼を瞠るほどの美しさに女性たちは二度見し、男性は隣の不釣合いな男に嫉妬と羨望で紡ぎ合わせた視線を送ってくる。僕が優越感に浸るのなんていつ以来だろう。もしかすると生まれて初めてかもしれない。だらしなくやに下がってしまいそうになるのを堪えるのに、かなりの努力を強いられていた。
夢心地だった十五分ほどの散歩が終わる。知世が足を止めたのは、駅からどれだけも離れてないレモンイエローの瀟洒な建物の前だった。尾藤産婦人科医院と看板が上がっている。
「これが、あなたたちの間違いのひとつ」
旧約聖書では婚姻時処女でない女性、男女の不倫、同性愛は死刑と定められていたそうだが、そのどれもが有名無実になってしまうほど、現代の人類が擬似生殖行為に抱く渇望は甚だしい。
「社会の存在意義は子供を守り育てることじゃないのかな。性欲は、あって然るべきだよ」
「わたしが言いたいのはそんなことじゃない。ある地方の熊は一日に三頭の牡とまぐわうことがある。そうしておけば次に小熊を連れている時、本当の父親でない牡と逢っても、牡は自分の子供かもしれないと思って襲ってはこないと考えるのね。他の動物だって同じよ、方法は違っても必死になって子供をまもろうとする。人類の遺伝子にも種の保存は組み込まれている。なのに、なぜ人工妊娠中絶を選ぶひとがいるの? 進化の可能性を自ら捨て去ってしまう理由はなんなの?」
「それは……」
知世の下瞼には涙の粒が張り付いていた。通り過ぎる車のヘッドライトに反射したそれが宝石のように輝く。
「たぶん、経済的な問題とかもあって……、それにレイプされてできた赤ちゃんとか不倫相手の子を身ごもったとかならやむを得ないんじゃないかな」
僕がいまの職場に移動になる前、向かいのデスクに座ってた女性と課長が不倫関係にあり、女性は堕胎費用だけ渡さて捨てられたという噂を聞いた。
その課長に強い反発を覚えた僕は、年度末の忙しい時期に二日間有給をとってやることで抗議に代えたものだった。
「あなたは、それが正当な理由だと思ってるの?」
母体保護法の広義解釈と医療技術の進歩により、いまや人工妊娠中絶は、全妊娠のおよそ五人にひとりの割合で行われている。それが殺処分される野犬や野良猫の総数より多いということをなんかの本で読んでいた僕は歯切れが悪い。
「う、うん……、まぁ……」
「人類は余計な欲求を持ちすぎたのよ。支配、獲得、保身、顕示――。それらがこの社会を捻じ曲げ、もっと早く獲得できるはずだった進化まで遠ざけてしまった」
僕にはたった一言の反論もできなかった。
「行きましょう」
病院に背を向けて知世は歩き出す。僕は黙って後を追った。彼女の足はT駅に向かっており、絡めた腕は解かれていた。
電車を降り、知世が向かった先は、ある商業コンプレックスだった。家電量販店のはいっていた五階に行くと、知世はたくさんのテレビが並ぶ前に立った。掌を画面に向け横に振ると、ドラマやニュースが映し出されていた画面は、すべて戦場の映像へと変わっていった。
「なんだよ! 観てたんだぜ」「これ、録画してないのよ。どうしてくれるの!」人々は口々にクレームの声を上げる。チケットを買って観ている映画でもないのに勝手なものだ。知世に言わせればこれも『余計な欲求』がなせる業なのだろう。ドラマを一話見逃したくらいで人生の意義が失われることはない。
テレビぐらい僕の部屋にだってある。わざわざ僕をここに連れてきたのは、彼らの反応を見せたかったのではないだろうか。
「見て、あなたたちの歴史にはいつだって争いがある。戦ってる兵士を衝き動かしているのは生存本能かもしれない。でも戦争を選択した権力者の頭にあるのは醜い欲望だけ。宗教戦争だってその根底には政治的利害があった。なぜなの? なぜ、そんなもののために同胞同士が殺し合わなければいけないの?」
〝あなたたち〟 ごく当たり前の二人称複数だと思っていたが、こうして繰り返すのは、なにか意図あってのことだろうか? 同時にうら寂しく感じたのは、結果の悪い答案用紙を二科目受け取っていたせいなのか、それが知世と僕を隔てるもののように思われたからなのか、僕にはよくわからなかった。