第2頁 霧の本棚
重厚な扉を抜けると、そこは別世界だった。
僕は息をのむと、周囲に広がる幻想的な世界に思わず息をつく。
「これが……図書館の中?」
「そうよ。今日はちょっと『天気』が悪いみたいだけど」
初めて足を踏み入れた図書館の中は一面、白に包まれていた。見渡す限りどこまでも、白い霧の海が広がっている。信じがたいことに、建物の中なのに壁というものが全く見えない。
本棚はその海の中に埋もれるようにして立っていた。棚はいずれも六角形をしていて、森の木々のように密に立ち並んでいる。霧に隠れてしまっていてよくわからないが、その大きさはさながら塔のようだった。それぞれが途方もない量の本を詰め込んだ塔が、無数に僕たちを見下ろしている。
まったく途方もない光景だった。言葉を失った僕は改めてラスクの方を見る。すると彼女はいたずらっぽく笑う。
「びっくりした?」
「もちろん。ここ、本当に図書館の中?」
「ええ。正真正銘ランブリッジ図書館の中よ」
「でも……それにしてはずいぶん広いし、この霧はなんなの?」
ラスクは首をかしげると、顎に手をあて、考えるようなしぐさをした。だがすぐに彼女はお手上げという仕草をする。
「なんでも、所蔵してる本の影響で空間が歪んでる影響だとかなんとか……。私も詳しいことまではしらないのよ。とにかく、この図書館の中は馬鹿みたいに広くて天気があるの。晴れたり今日みたいに霧が出たり、時には大風が吹いたり。雨以外ならほぼなんでもありね」
「へえ……そりゃ凄い……」
「ま、詳しいことはもうじき来るガリベンにでも聞いたら?」
「ガリベン?」
噂をすれば影と言ったところだろうか。僕がそういうと同時に、近くの本棚の陰からヒョイと人影が現れた。僕はそれがすぐに、ラスクの言うところのガリベンという人物だと理解する。小さな手に頭が見えなくなりそうなほどの本を抱えていたからだ。
「あら早かったわね。仕事はキリついたの?」
「……この天気。来館者も少ない」
「そりゃそうね」
「隣の子は?」
「ああ、紹介するのが遅れたわ。この子が新しく禁書管理部所属の司書になったラスクよ」
少女は本の陰からチラッとこちらを覗いてきた。翡翠色の澄んだ瞳と、いささか無表情な顔が見える。ラスクがガリベンなどというからてっきり、メガネを掛けた余り冴えない人物だと思っていたが、見かけに関してはそうではないようだ。ちょっと無表情に過ぎるが、ラスクよりもおとなしそうで可愛い女の子である。
「そう、同僚とは珍しい……。私はセラ、よろしく……」
「僕はラスク、これからよろしくね」
僕はそっと手を差し出した。だが、セラは顔をフルフルと振ると、手に抱えた本に視線をやる。
「手がいっぱい。……もう行く。本を読まないと」
「ちょ、ちょっと!」
呼びとめる僕の声を無視するように、セラは足早に立ち去って行った。彼女の小さな影はあっという間に霧の中に消えていく。僕は茫然として、セラの居なくなった方角を見つめた。
「行っちゃった……」
「はあ、最短記録更新ね。まあでも、あの子はいつもああだから気にしないでいいわよ」
「え、そうなの?」
「へえ、そう、ふうん……基本的にその三種類でしか会話しない」
「そりゃまた極端な……」
「慣れれば意外とそれでなんとかなるものよ。そんなことより早く行かないと」
ラスクは懐中時計を取り出すと、少し慌てたような顔をした。早足で歩き始めた彼女の後ろを、僕もまた早足で追いかけていく。
そうして歩くことしばし。そろそろ足が疲れてくるころ、風景に変化が現れた。何も見えなかった霧の向こうに何やら茶色くて大きな物が見え始めたのだ。視界全体をすっぽりと覆い尽くすような、巨大すぎる何かが。僕はそれに威圧感のようなものを感じて歩みを緩めようとしたが、ラスクはまっすぐにそちらへと向かっていく。
こわごわと近づいてみると、それは壁だった。図書館の壁だ。この不思議な空間の中と外を隔てる壁はまさに世界を仕切る壁のようで、途方もない大きさと存在感だ。壁の上の方はすっかりと霧に覆われてしまっていて、その先にあるはずの天井を見ることすらかなわない。
壁の下の部分にはカウンターがあった。受付とおぼしき女性が座るそのカウンター上には『貸出』と書かれた板が載せられている。どうやらここが、この図書館の貸出カウンターのようだ。
「ああ、そっちじゃない。私たちはこっち」
「へ、ここが事務所じゃないんですか?」
「そこは一般図書管理部の事務室。私たちのは下なの」
カウンターの奥にあった事務室と書かれたドア。僕がそれを開けて中に入ろうとすると、ラスクがやれやれといった感じでそれを止めてきた。彼女はそのまま近くの本棚へ手をやると、置かれていた本を次々と並べ替えていく。
するとどうしたことだろう、本棚の一部が落ちくぼみ、薄暗い通路が現れた――