第十章 完結 風を読む 那須与一宗隆 手塩の弓
第十章 完結:那須の風、再び(エピローグ)
一、那須七騎の結束 ― 黄金の食卓の完成
壇ノ浦の潮騒が遠ざかり、那須の山々に懐かしい土の匂いが戻ってきた。
与一は、縄を解かれた九人の兄たちを連れ、故郷の土を踏む。かつて自分を追い出した兄たちは、今や「左衛門尉」という官位を持つ弟の背中を、畏敬と困惑の混じった目で見つめていた。
「……兄さんたち。ここはもう、戦場じゃねぇ。俺たちの山だっぺ」
与一は兄たちを「那須七騎」として各領地に配し、一族をバラバラの点から、強固な網へと編み直した。
彼は生涯、京や鎌倉の華やかさに背を向けた。左衛門尉という重い肩書きを脱ぎ捨て、泥にまみれて民と粥を啜り、風の中に「次に来る嵐」の気配を聴き分ける。
資隆がかつて夢見た、一族全員が腹を空かせずに笑い合う「黄金の食卓」。それは、与一が握る煤竹の弓によって、那須の地へ深く、深く根を下ろしたのである。
二、天正の嵐と、資晴の述懐 ― 四百年の風
時は流れ、天正十八年(1590年)。
季節は巡っても、那須に吹く風の鋭さは変わらない。だが、時代の風はあまりに荒々しかった。
小田原の空を埋め尽くす豊臣秀吉の軍勢。その圧倒的な「力」の前に、参陣が遅れた那須家は絶体絶命の危機に立たされていた。当主・那須資晴は、没収を告げられるのを待つ静寂の中で、代々伝わる「煤竹の弓」を撫でる。
四百年前、与一が握っていたその弓は、今も微かに煙の匂いがした。
(標的は、名誉じゃねぇ。生き残ること、ただそれだけだっぺ……)
資晴の瞳に、先祖から受け継がれた「職人の光」が宿る。
彼は、京の作法や武士の体面をすべて脱ぎ捨てた。あえて「間抜けな田舎武士」を演じ、泥臭い方言を武器に、豊臣政権という巨大な怪物に食らいついていく。その姿は、かつて安達盛長を「無欲」で黙らせた与一の生き写しであった。
三、結び:しぶてぇんだっぺ
資晴の、なりふり構わぬ弁明と、石田三成らへの執拗な根回し。それは「武士の美学」からは程遠いものだったかもしれない。だが、その「二枚腰」の粘りこそが、那須という大樹を折らせなかった。
秀吉の許しを得て、領地を奇跡的に安堵された夕暮れ。資晴は小田原の海越しに、遥か那須の山並みを想った。
「天下が変わろうが、風が吹こうが、関係ねぇ。那須の人間は、しぶてぇんだっぺ」
資晴は弓を強く握りしめ、かつて与一がそうしたように、小さく笑った。
「……さあ、飯にするべ」
その一言は、八百年の時を超えて、一族を繋いできた魔法の言葉。
一筋の矢が放たれる。
それは屋島の海を越え、戦国の嵐を抜け、まだ見ぬ未来の空へと、高く、高く飛んでいく。
風を切り裂くその音は、いつまでも那須の山々に響き渡っていた。




