イコン
イコン
ー1ー
「うちなぁ、キョウソになろうと思うねン」
私の親友、陣桜子はこう宣った。
「なに、なぜ、どうやって。」
私、藤本ユキは返す刀で簡潔に問うた。
幾度目かもわからぬ彼女の素っ頓狂な宣言を聞いたのは高校三年生に上がった春、場所はわが校の創設者の銅像、通称クラーク博士像前であった。実際はかのクラーク博士その人ではないのだが、負けず劣らずの口髭から親しみをこめてクラちゃん像と呼ばれていた。
「なんヤねん、来た、見た、勝ったみたいに」
勉強はできないくせにこういう例えはすぐ出てくるんだよねコイツ。関西人が聞いたら刃物を持って襲い掛かってきそうなエセ関西弁と一緒に、桜子は私をじろりと見た。制服のスカートからわが校指定のえび茶のジャージ(大変不人気だ)をにょっきり生やした女子高生の口から繰り出される言葉にしては妙な剣呑さがあった。本人の意図でなく、話者と内容との乖離にぎょっとするタイプの剣吞さだ。中二の校外学習で泊まった、素敵な古民家の茅葺き屋根から、びたんと落ちてきた蛇みたいに。あぁあの時も蛇を追っ払ってくれたのは桜子だったっけ。じゃなくて。
「キョウソって、なに。そもそもなんで?第一、どうやって?」解決されぬ疑問を再度ぶつける。
そりゃまぁ、キョウシになる、ってガラでもないんだけどさ。
—2—
五年前の春、中高一貫制の中学に進学した私は、初めての昼食の時間に弁当を忘れたことに気が付いた。おまけに財布も忘れたので購買で何か買おうにも金がない。自慢じゃないけど、私は基本なんでも人並み以上にこなす。けれど、失敗するときには重ねてしてしまう癖があるのだ。私は寒冷色は食欲を減衰するという豆知識にしたがって、屋上で寝転がり青空を見上げることで空腹を紛らわすことにした。そんな私の爽やかな視界を、スカートとそこからにょっきりのぞくわが校指定のえび茶色のジャージが突如として半分塞いだ。化粧の薄いジャージの主の女の子は私の耳元に何かを一つ落としてこういった。
「あげる」
黄色の蒸しパンだった。なんてことないコンビニの蒸しパンだけど、青に慣れた私の視界には菜の花みたいに鮮やかに映った。
「いいの?」
「いずれ返せ」
私は相手の返事もよく聞かずに胡坐をかいて蒸しパンにかぶりついた。彼女もフェンスの基礎部分に腰かけて、焼きそばパンを食べ始めた。初対面だったけど、一飯を施されたのにだんまりなのもあんまりきまりが悪いので、色々話した。
隣のクラスであること。犬派なこと。両親がいなくて祖父と二人暮らしであること。最近クレーンゲームに三千円も使っちゃったたこと、二人とも早生まれなこと。
まあ独特な雰囲気の子ではあったけど、普通だった。盛り上がりはしないけれど、会話が尽きることはなかった。翌日から、桜子は私のクラスを訪ねてくるようになった。
「ユキ!ちょっと付き合え。ゲーセン、行こ」
「えと、陣さん、…ちょっと待ってよ、あたし今日は放課後本屋に買い物…。」
「蒸しパン、忘れてなかろ」
「…随分早い回収だこと。」
この蒸しパンへの見返りから、桜子の行動に付き合わされる日々が始まった。
彼女は、常に突き動かされている子だった。文化祭にお笑い大会あれば「キングを獲る」と豪語し三撤してまでネタを考え、(エセ関西弁はこの時の後遺症だ)。路上に捨てられた猫あれば、夕暮れまで自転車で一緒に町内を駆け巡った。しかし、爆発的に費やされる労力の割には、結果は大抵散々だった。桜子が夢中になったこととその顛末で、寓話集が一冊作れそうなぐらい。
お笑い大会は特にひどかった。大いにスベる中、一人だけ爆笑する教頭先生の声が虚しく体育館に響いた。もちろん結果はドベ。ちなみに優勝は野球部と茶道部のダブル坊主。
猫の飼い主探しにしたって、行き当たりばったりに声をかけているばっかりじゃ見つかるはずもない。あらゆるタイプの門前払いを食らった挙句に、その様を小学生にSNSで拡散される始末。今思いだしてもとんでもないクソガキだ。しかし捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもの。桜子の猫を抱えた姿が妙にネット民の琴線に触れてしまったのだ。投稿はバズりにバズり、飼い主が見つかった。掲示板に立った「【朗報】ヤンキーJK、令和の世にぬこのために奔走する」なんてスレッドに桜子の姿を見たときには、不謹慎ながら吹き出してしまった。もちろん桜子はヤンキーではない。ただ写真に写る彼女の姿は、学園ドラマに一人はいる「動物好きの家庭環境に問題を抱えたヤンキー女子高生」そのものに見えた。写真を見た人々が背景を勝手に描きたくなる、無垢な雰囲気が桜子にはあった。
後日、件の小学生が両親に付き添われて、学校までわざわざ謝罪しに来た。写真に撮られたのは桜子だけだから私が謝られる必要はなかったけど、どうしてもというので渋々ついていった。「目には目を歯には歯を」といって桜子がガキをぶん殴らないとも限らなかったし。しかし私の想像の斜め上を行くのが桜子だ。応接室のソファにふてくされて座っているガキを一目見るなり、ニッと笑ってただひとこと。
「ありがとうな!」
バズったおかげで飼い主が見つかったといえばそうだが、それは結果論だ。担任とガキの両親はあんぐりと口を開け、何かプライドを傷つけられたおか、ガキはプルプルと震えて、泣き出しそうな顔をしていた。
桜子は困惑に満ちた顔で言った。
「えっ…ユキ…どないしよ…?」
桜子にしてみれば、彼の協力のおかげで猫の飼い主が見つかった。ありがとう!だのに、目の前の大人たちは呆れているやらガキは泣き出しそうやら。
—なんてこった。ユキ、どないしよ?
ということらしい。
—いや、こっちの台詞やわ。
私はなんだか無茶苦茶おかしくなって笑いながら応えた。
「知—らない!」
私は桜子の手を取って応接室から駆けだした。桜子の笑う声もすぐ後ろから聞こえてきた。あぁおかしかった。涙まで出ていた。
桜子はもともと「変わった子」ではあったけど、これを境に彼女の行動がやたらとクローズアップされ始めた。はじめは「例のバズった子」だったのが、その一か月後には「大権力者の隠し子で、例のバズ騒動の際に大企業の社長を土下座させた」となっていた時には同年代の妄想逞しさに絶句した。しかし妄想のバルクアップはこれにとどまらず「文化祭で披露したネタが養成所のスカウトの目に留まってる」に始まり、しまいには「UFOと交信しているのを見た」などという頓珍漢なものまで出現した。
UFOとの交信疑惑は私も余りの馬鹿馬鹿しさに気になって、彼女に噂の心当たりを聞いてみた。
「あぁ、うちな、今新しい星を探してんねん」
やっこさん、ぬけぬけと白状しおった。なんでも星を見つけて名前を付けたいのだが、金がなくて望遠鏡が買えない。仕方がないので真っ暗な河川敷で毎夜毎夜、空をにらみつけているのだ、と。
あるじゃん、心当たり。と心の中でツッコミつつも、この程度のエピソードが全校でもちきりになっていることに、私は背筋に寒いものを感じた。誰だってやっちゃうかもしれない行為の主体が陣桜子であるというだけで、皆は夢中になって、自由帳みたいに尾ひれを書き加えた。『変わった子』という勝手に貼った彼女のレッテルに今度は勝手に二重線を引いて、みんなして何かを書き加えようとしていた。
私はできるだけその異常事態の火消しに努めようとしたけれど、所詮私は一人、全校生徒の印象を書き換えようだなんてそれこそ宇宙人じゃなきゃとても無理な話だ
―3―
その桜子が、今度は「キョウソになる」などといっている。キョウソ。教祖。な~んて胡散臭い響き。私の問いに桜子が答える。
「なにって、教祖と言ったら教祖や。仏サマとか、イエスとか、ムハンマドとか」
今まで聞いた中で間違いなく、「ムシキングになる」を軽々飛び越え、最もバカげた宣言だった。
「次は『なぜ』か。衆生済度」
「は?」
桜子はふん、と人差し指を上に向け宣った。
「みんな救うってことや」
「意味は分かるって。まさかそれが理由?」
「うちは常に「キング」を目指して生きてきた。できたかどうかは別にして、とりあえず目指しはした」
「それが教祖となんの関係…。」
「聞けや。でもそのうちこう思うようになってん。お笑いのキングになったところでそれは文化祭でだけ、ムシキングになったところで、ガキ共の間での「キング」にすぎんやろ?じゃあ『最もキングなことは何か』うちはこう考えた。「最も多くの人々を救うこと。すなわち」
「すなわち?」
「アンパンマンや」
「はえ?」
「はえ、ってなンや。ぶりっこか。おなかをすかせて泣いているカバオ君に、自分の顔を与えて隣に座る。カバオ君が笑顔になる。うちは『これだ!』と思った。なんてこった、本当のキングにうちらは既に出会っとった。トーダイモトクラシーってやつやな」
なんかカバオ専属ヒーローになってるなとも思ったが、今までの桜子の行動に、一本筋のような何かが通り始めていたから、黙って聞いていた。
「でも、うちに食べさせてあげる顔はないやろ。せやから、せめてごはんを一緒に食べるくらいのことはできるかと思った。だけど難しい。うち、一人しかおらンし。じゃあどないする?見つけてあげればええんよ、一緒にご飯食べるやつを」
「ただのキングとして人の上に立っただけじゃ、それはうちの思い出にしかならん。せやけど、同じ考えのやつらを集めて、どんなに寂しくてもそこに行けば必ず誰かと一緒に飯を食える場所を作れば色んな人の心に残る。じゃあそれをやったのは誰か?仏サマや。キリストや。ムハンマドや。せやから—」
「衆生済度。うちはキョウソになろうと思う
これが『なぜ』や。『どうやって』は…」
最初の宣言であげた指を下ろさぬまま、桜子はここまでほぼ一息で語り終えた。その彼女の口から次に出た言葉は、私の予想だにしないものだった。
「どないしよ?ユキ」
―教祖になる。目的は「衆生済度」。手段は…どないしよ?
—いや、こっちの台詞やわ。
私は天を仰いだ。私の困惑とは裏腹に、校庭の桜から散った花びらが、ひらひらと散っていて―実をつけて、若葉を生やして、冬をじっと過ごして再び花をつけることを疑わぬかのように、ひらひらと散っていて、ほんの少し腹が立った。雷に打たれることも、人間の都合で伐られてしまう可能性も度外視しているようで、ほんの少し、うらやましくなった。でも。
桜子の奇行、もとい「キングへの道のり」に付き合わされ始めてからというもの、私の役割はただ一緒にいることだった。突っ走る彼女に手を引かれながらついていくだけで、逆に桜子の手を引いたのは例の応接室から連れ出すために一度っきり。
腹を空かせた捨て猫のために極めて不器用に奔走する桜子の後姿が瞼の裏に明滅した。私が桜子に振り回され続けてきた理由がそこにはあった。彼女はいつも全力疾走して、派手にすっころんでは何かしらの跡を私に残していく。跡の形はその時々で違った。捨て猫に引っかかれた傷、ネタ作りに付き合わされたが故の小テストの赤点、笑い泣きの涙。その一つ一つが、私の中で陣桜子の輪郭を形作っている。その輪郭が物語っているのは、単純な一つの事実だった。
「陣桜子は変わっているけれどとても優しい普通の女の子で、藤本ユキの親友である。」
周りが何をしたって、この事実は誰にも、宇宙人にも神様にも決して書き換えさせる気はない。その親友が、再び私に迷いを見せている。私が手を引いてやらなくては。
「『教祖』、正直めちゃくちゃ胡散臭い。今の日本人は教祖なんて『ガスを撒いて回る狂人』、それ以上の印象はないの。」
「そうなんか」
桜子は少ししょぼんとした。
「でもね、考え方はめっちゃすき。アンパンマンのたとえはそこまで頭に入ってこなかったけど、桜子の根っこにあるものがとてもいいものだってことはわかる。」
「だから、手助けはしたい。あたしのやりたいことはまだ決まってないけど、せめてそれが決まるまでは。」
「マジで!?」桜子の顔がパッと明るくなる。
「だけど!」私はすかさず釘を刺した。
「桜子の夢を形にするには『教祖になる』以外にいろんな形がある。例えば支援団体を作るとか、NPO法人に就職するとか。クソつまらなそうに見える公務員の仕事だって、あんたの夢の一部かも。だから、」
「だから?」桜子がけげんな顔をする。
「だから、勉強しなきゃ。色んな可能性を見なくちゃ。私と同じ大学に行こうってこと。それが、あたしが桜子を応援する条件。」
桜子はわかりやすくたじろいで、
「げ」とだけ発した。
そらそうだ。私と桜子の志望校じゃ偏差値に天と地ほどの差がある。この時の私には、これで教祖をあきらめてもらえないだろうか、という浅はかな狙いもあった。こんな夢が実現したら、今度こそ桜子は遠くに行ってしまう気がしたから。しかし、桜子の口から出てきた答えはいつも通り私の予想を裏切った。
「分かった」
「まあそれなら仕方ないな、勉強がんば…あれあんた今なんて言った?」
「ユキもノリツッコミするようになった…」
「何で感慨深げなの、じゃなくて!やっぱり本気なんだね。」
目の前の親友が、目的に向かって一歩も踏み出さないということは決してなかったことは、私が一番知っているはずだったのに。
「当然。決まりやな。今日から勉強や」
ま、もう高三やしな、と存外常識的な一言をぼそりと付け加えると、私の目をまっすぐ見て言った。
「プリクラ、撮りに行かへん?」
「いいけど、何でよ藪から棒に。」
「ま、ええからええから」
私は引きずられるようにして、ゲーセンのプリクラブースに入った。
「ユキ、イコンって知っとる?あの教会とかに飾ってある変な絵」
桜子は私の方も見ないで、ブースのタッチパネルを操作しながら語った。
「聖書の重要な出来事を絵にしたやつなんやって。ま、ウィキ調べやけど」
「何言ってるの?」
私が桜子に聞くと、カメラをしっかりと見据えたまま、彼女は答えた。
「だからこれが、ウチらの最初のイコン。うちとユキが衆生済度を成し遂げるまでのな。」
「なんかいろいろ宗派混じってない…?」
『顔に手を添えて、小顔効果!3・2・1…』
プリクラからカウントダウンが流れ始めた。少し慌てて私も、言われるがまま顔に手を添えてカメラを見る。
出来上がったプリクラは、どれも桜子が神妙な面持ちで、私もアナウンスのままにあわてて表情を作ったせいか、なんだかお堅い感じに仕上がっていた。私と桜子は顔を見合わせ、ひとしきり笑った。
家に帰ってから、ふと桜子の言葉を思い出してイコンを調べてみた。無機質な顔をした聖母マリアが、これまた無機質な顔をしたキリストを抱いている。マリアは見上げるキリストには目もくれず、冷たく悲しそうな顔をして画面の前の私を見つめていた。桜子のLINEのトプ画が、さっきのプリクラに代わっていた。桜子の固い表情がなんだかイコン画に重なる気がした。
それからの桜子の躍進はすさまじく、翌年の三月の上旬には当然のように、私と同じ大学に合格した。一緒に合格発表を見に行って、飛び跳ねて喜ぶ私をよそに、桜子は自分の受験番号をじっと見て動かなかった。自分の方がぎりぎりだったはずなのに喜ぼうともしない桜子になんだか腹が立って、
「アンタも!もっと!よろこべ!」
と三発尻に蹴りを入れた。桜子はおわっ、と声を上げて、
「ごめんて、まさか受かるとは思ってへんかったんよ」と昨年より随分と上達した関西弁のイントネーションで言い訳した。かくして、私は約束通り桜子の軌道修正、もとい彼女の夢の手助けをすることになった、はずだった。
—4―
桜子は入学後、私の成績をぐんぐん引き離していった。私は彼女に、少し僻みを感じていたのかもしれない。思わず口を滑らせた。
「私の応援なんていらないんじゃない?」
私は桜子がほんの一瞬、つららでぶん殴られたような表情をした気がした。しかしその直後には、にまーっと目を細めて、
「そうかもしれへんなーユキ、うち天才かもしれへん」とだけ言った。
桜子との連絡が取りづらくなったのは、思えばこのころからだった。前は即レスだったのが、半日、二日三日、一週間と、返信までのインターバルが伸びていった。それでもやり取りのノリは全く変わらなかったし、そのころには彼女の奇行は全くなくなったため、私は彼女が最後に「教祖」という夢を掲げていた姿を、頭の片隅に放置していたまま、大学生の身分を謳歌していた。
桜子は三年生で大学を辞めた。その事実を知ったのはその年の一二月のこと。私はインターンとサークルに明け暮れ、桜子とのやり取りもひと月に一、二回がせいぜいになっていた。しかし三カ月も連絡のない彼女を不思議に思い、学生課で仲良しの職員さんに聞いてみると、彼女は八月に退学した、とこっそり教えてくれた。でもそれ以上は、さすがに個人情報だから私の口からは言えない、とのことだった。もちろんLINEは未読。家に行こうとも思ったが、彼女の家を私は知らなかった。行ってみたいと私が駄々をこねても、
「ジジイと二人暮らしの家なんて上げられるか!」といつも突っぱねられていた。
詰んだ。私はよたよたと近くのベンチに座り込み、自分のしたこと、いや、しなかったことを分析した。そして、生じた痛みは忙しさで紛らわすことにした。よく聞くでしょ、忙しさは心を亡くすと書く、なんて金八先生もどきみたいな言葉。そして亡くした心に任せて、私は桜子のことをあきらめることにした。結論から言って、この二つはするべきじゃなかった。私は普段なんでも人並み以上にこなせるけれど、失敗するときには重ねてしてしまう癖があるのだ。私は心に刺さった針の痛みを無数のガクチカとサークルの思い出の山で覆い隠して、ひとまず楽しい大学生活を終えた。
―5―
卒業後はとある週刊誌の記者になった。探し始めることもしなかった桜子への後悔の為でも、ない。心を亡くしたままにしておきたかったからかもしれない。
社会人二年目に「教祖」となった桜子の姿を見たあの時でも、私はそう断言できた、と思う。いわゆる教祖様というよりも、宗教的な運動団体のリーダー、くらいの表現がしっくりくるかもしれない。彼女の団体はほとんど慈善団体みたいなもので、炊き出しとか児童団体への支援とか、そう言った活動をある宗教上の教えに則って行っているだけだった。世間の反応も歓迎四割、胡散臭さ三割、無関心三割といったところだった。私は彼女の決心が失われていなかったことにほっとして、そして少しだけ心の痛みを思い出し、考えるのをやめた。彼女のイベントに顔を出す勇気は、とてもなかった。
ほぼ時期を同じくして、ある私は人気お笑い芸人の取材を行うことになった。コンビ名は「中生代」。コンビ名のニュアンスにどこかで聞いたような気がしたまま取材に臨むと、文化祭のお笑い大会で優勝した、あのダブル坊主が座っていた。
「いや、僕ら大学卒業してからコンビ組んで、本当に鳴かず飛ばずだったんですけどね。でも、あるネタが劇場でドッカン受けたんですわ。」インタビューのさなか、野球部坊主の「白亜紀」がしみじみといった。継いで茶道部坊主の「ジュラ紀」が唇に手を当て、「オフレコで頼みますね。」と神妙に言う。
彼らがまさに進退窮まっていた時期、最後の手段としてあるネタをパクったそうである。ネタはライブで受けに受け、何とか家賃を払えた…。そのパクったネタが、文化祭で披露された桜子のものだった。
桜子のネタがスカウトの目に留まったっていうあの話、まるきり嘘でもなかったのか一人爆笑していた教頭、ただものではないな。一人唖然とする私に、白亜紀は質問した。
「ところで藤本さん、ジンさんとは連絡取ってるんですか?仲良かったでしょう、確か。」
「それが、今は…。」
「そうなんですか。いや知り合いの社長さんがあの団体の支援者でね、最近あの子見んようになったな、て言うてたんですよ。最近活動で表に出てくるんはようわからんオッサンばっかりでって。」嫌な予感がした。
まもなくして桜子の団体に公安の立ち入り調査が入った。代表との名義は名もしれぬ男の名にすり替わっており、桜子の行方もまた、杳として知れなかった。
その日の夜、ベッドの中で覗いたLINEにピンク色の通知がひょっこりと顔を出した。
『今日が誕生日の友だちを確認する』
そこには桜子のアカウントがあった。そうか、今日は三月二十日、桜子の誕生日だ。
—桜子、まだトプ画変えてないのかよ。写真の中の神妙な顔と目が合った。その時、通知が来たことを示す緑色のバッジが急に表示された。桜子からだ。
『どないしよ?ユキ』
―6―
電話をかける。出ない。文面で尋ねる。焦りと緊張で手が震えてうまく入力できない。誤入力したままだが、そのまま送る。
『さくらこいまどこ「いる』
『クラちゃん』
私は走った。三月下旬とは思えないほどのすさまじい冷気が私の肌を刺しに刺しまくる。痛い。雑につっかけてきたサンダルに足を取られて転ぶ。痛い。擦りむいた膝からは血が出ているに違いない。でも、ここで走るのをやめたら、もう一度間違ってしまったら、今度こそ私は、本当に痛みを失ってしまうに違いない。だから学校への坂道を走った。母校のフェンスを、がしゃがしゃ音を立てるのも構わずよじ登った。
クラちゃん像は、あの頃と変わらず立派な口ひげを蓄えたままでたたずんでいた。隣に立っている桜子も、やっぱりあのころと変わらなかった。少しだけ眉間にしわが寄って、少しだけ背が伸びて、うつむくことに慣れたようだった。だけどそれは、私も同じ。
桜子の前で立ち止まると、鼻先に冷たいものが降りた。道理で寒いわけだ。
「お久、ユキ。ぼろぼろじゃん。どうした。」
存外しっかりした声。少し低くなったかな。
「あんたこそだいぶ大変みたいじゃん、エセ関西弁はどこいったのさ、教祖様。」
しばらく黙ってから、私が続ける。
「ごめん。桜子を応援するって言ったのに。一人で走っていく桜子が羨ましかった。何度も、桜子に私は必要ないからって言い訳して、ずっと目をそらしてた。ほんと—」
私の言葉をさえぎって、桜子が続ける。
「いわゆる『教祖様』になって三年後、じいちゃんが死んだ。理由としてはありふれてるよ、心臓発作。でも、近くには誰もいなかった。じいちゃんは活動の方針そのものよくは思ってなかったみたいだけど、応援してくれてた。私は活動で家を空けがちで、じいちゃんはその時、一人でご飯を食べてたんだ。」
あの春に理想を語る桜子の周りに散っていた花弁が、目の前に舞う雪に重なった。
「一番身近にいる人から、目をそらしてた。灯台下暗しってやつ。」
「それから私は何もできなくなった。本当に何も。後はユキの想像通り。団体は乗っ取られて、私は用済み。おかげで罪に問われることはなかったけどさ。あたしが団体を作らなきゃ、迷惑した人もいなかったかもしれない。だから、ね、どうしよう?ユキ。」
桜子はゆらりと上方を仰ぐ。目線の先には屋上があったが、雪が目に入ったのかすぐに目を伏せた。
「桜子、何するつもりだったの」
怒りがふつふつわいてきた。体中の水分がぶくぶく泡立って、目から吹きこぼれてきたみたいだった。
「あんたは会った時からずっとそうだった!いつも私を引きずり回して、困ったらユキ、どうしようって!桜子のそういうところ、本当に嫌だ!」
「挙句の果てに捨てられるだけの自分さえ受け入れて!なんでもっと怒らないの!」
「あんたは!陣桜子は普通の女の子なのに!」
桜子の薄く雪の積もった肩に縋り付いて、膝から崩れ落ちる。桜子はしゃがんで、私に語り掛けた。
「こんな結果になったけど、私のやったことは間違いじゃない。私の見えるところでは、みんながご飯を嬉しそうに食べていた。私は確かに普通の女だったけど、沢山の人が私に感謝してくれた。気づかせてくれたのはあんただ、ユキ。」
「私はそれまで学校じゃ一人だった。だけど、あんたと屋上でパンを食べたあの時、私は初めて学校で一人じゃなくなった。いずれ返せって言ったけど、もう十分返してもらってたんだ。来た、見た、勝った、てやつ。」
その時、一つの単純な事実に私は気づいた。
「釣り合わない。」
「え?」
「じゃあ、あの翌日私を連れ出した理由は?あの貸し、返してもらってない。」
私の強引な論理に桜子は意外に容易く屈した。彼女は少し苦笑して私に尋ねた。
「ユキ、何したらいい?」決まっていた。
「ごはん食べて、ゲーセン行くの。一緒に。」
声も出さず、桜子は目を丸くした。
「キングなんでしょ、アンパンマンなんでしょ、衆生済度するんでしょ。人にかけた迷惑を悔いているなら、もっと多くの人を助けなきゃ。だからまず、あんた自身を独りにしないで。私も桜子を独りにしないから。お願い、一緒にいて。そうしないことには、私も前に進めない。」
「ずいぶん遅い回収だ」
桜子は細い声でそういうと、震える腕で私を抱きしめて、しばらく深呼吸をしていた。呼吸は次第に浅く速くなって、嗚咽になった。ほんの少し後に、嗚咽は二人分になった。声は雪雲が吸い取って、私たちを見ているのは多分、クラちゃん像は変わらず、町を見下ろし続けていた。
その後、ファミレスの暖かい店内で夕食を取っていると、桜子は出し抜けに言った。
「やりたいことができたよ。」
「色々見てきて、後悔もして改めて思った。多くの人がご飯を一緒に食べられる場所を作、りたい。身近なことから目をそらさない、そんな人々を多く育てたい。」
固唾をのんで桜子の次の言葉を待つ。
「だから私は—――――。」
にやりと笑って語る彼女の決意に私は口に含んだコーラを噴き出した。
「ガラじゃないなぁ…。」
本当にガラじゃない。でも桜子らしい。
おなか一杯食べてから、プリクラを撮った。
『顔に手を添えて小顔のポーズ!3・2・1…』あの時とほとんど変わらない文言。だけど今度はカウントダウンに焦ることはない。
翌朝、桜子からのLINEの通知音で目が覚める。桜子のトプ画は、昨日撮ったプリクラに更新されている。私たちの二枚目のイコンだ。私と桜子が一緒にいることを、決して忘れずにいるための。




