第7話 繙(ひもと)きのヒプノル
翌朝、微かに聞こえる音色で目を覚ましたアルデアは、ベッドの上に身を起こした。
ポロン、ポロンと弦を爪弾くような、優しい音だ。
誰が弾いているんだろう――そう思って辺りを見渡したが、音はすぐ聞こえなくなってしまった。
白い壁。様々な医療器具が並んだ壁際。知らない風景が見える大きな窓。全くもって馴染まない光景だ。状況が昨日と全く変わっていないことを知った彼女は小さなため息をつく。
「おはようございます。」
不意に声をかけられて振り向く。そこにいたのは、頭から猫の耳の生えた人間であった。
「お!? お、おはようございます!? 」
ルーナよりやや若いくらいだろうか。マスクで顔の半分を覆ったその人は、アルデアの驚きを特に気に留める様子もない。
ただ淡々と、バスケットに入った体温計や注射器などをテーブルに並べていく。
短く整えられた赤茶色の髪に馴染むその耳はどう見ても本物の猫耳だ。
「バイタルチェックと採血です。腕を出していただいても? 」
「は、はい。」
その人はアルデアに水銀体温計をくわえさせると、聴診器と血圧計を操作して手際よくアルデアの血圧を測っていった。そして――
「少し痛みますがすぐに終わります。」
いつもなら注射器を見るだけで震えあがるアルデアだが、ぴょこぴょこ動く耳に見とれている間に採血も終わってしまっていた。アルデアは絆創膏を張るその人に恐る恐る尋ねる。
「あの、あなたは……? 」
「名乗りが遅れ申し訳ありません。私は看護師長のアズキ・ヤエガシです。あなたの生活支援とリハビリを担当します。」
アズキと名乗ったその人は初めてアルデアの方を見た。
けだるげな切れ長の三白眼に、眉尻が非常に短い独特な形の眉が特徴的な、どこか異国めいた雰囲気の風貌である。
「アズキ……さん。」
「師長、アズキ、ナース、お好きに呼んでいただいて構いません。」
「は、はい……。」
正直名前よりもその耳の方が気になる。しかし、彼女の独特な迫力にあれこれ話しかけるのはなんだか気が引けて、アルデアはそれ以上のことは聞けなかった。
自身の耳をチラチラ見るアルデアの視線に気付いているのかいないのか――アズキはバスケットの中からガラスの小瓶を取り出した。
「お薬です。飲んでください。」
透明な小瓶の中で、氷のような青い液体がほのかに光を放っている。その光はまるで生きているように、淡く揺らめいていた。アルデアの目にはとてもきれいに映った――けれど。
「こ、これ、飲んで大丈夫なやつですか……? 」
「あなたの体の状態に合わせてチューニングしてあるので問題ありません。この薬には、体の回復力を著しく高める効果があります。まあ、味は少々アレですが……。」
アズキはそう言って小瓶を手渡す。アルデアは不安げに小瓶を見つめていたが、アズキからの無言の促しを受けて思い切って口をつけた。
瞬間、口の中に猛烈な甘さが広がる。飲み下した液体が喉を通り過ぎると、体の芯が一瞬冷たくなって、そこから全身に向けて熱のようなものが広がる感覚があった。
未知の体験なのに不思議と心地よい。まるで体が喜んでいるような、不思議な感覚だった。
「……すごく、甘いですね。」
「今日は甘いのですか。良かったですね。これから毎朝これを飲んでいただきますので。そのつもりでいてください。」
無表情に言ったアズキは荷物を再びバスケットに集め、風のように病室を出て行ってしまった。
アズキが出て行くのと入れ替わりで、今度はウェーブのかかったマッシュボブの女が食事を運んでくる。
美味しそうないい香りがふわりと室内に漂う。
そういえば、最後に食事をしてからもう丸2日間経っていたことにアルデアは気付く。空腹を自覚した腹の虫がグウと鳴き声を上げた。
女は恥ずかしそうに腹をおさえるアルデアに微笑みかけると、ベッドサイドのテーブルに食事の乗ったトレイを置く。そして、艶のある黒髪を揺らして丁寧な一例をして病室を出て行った。
トレイの上にはパン粥や温野菜のサラダ、ミルクなどが乗っていて、小ぶりなマグに入ったスープが湯気を立てている。
猛烈な空腹感に苛まれたアルデアはスプーンを手に取り、挨拶も忘れて食事にがっついた。
食事が大方終わった頃、ドアがノックされて先ほどの女が再び現れた。女は何やら申し訳なさそうな顔でアルデアに小さなトレイを差し出す。
「いただいて、いいんですか? 」
トレイに載っていたのは、ガラスの器に盛りつけられたリンゴであった。かわいらしいうさぎ型だ。いつもなら心が躍るはずなのに……リンゴの赤が目に入った瞬間、目の前に雷が落ちたかのようなフラッシュバックが彼女を襲う。
脳裏に浮かぶのは、洗礼式の日に目撃した血だまりである。真っ白なドレスを染め上げる赤。薄明かりに反射した赤黒い光沢のそれが、頭の中を全て塗りつぶしていくような強烈な感覚。
思わずトレイを跳ねのける。床に落ちた器が割れる音がした。空気が薄くなった気がした。吸っても吸っても足りない。酸欠に喘ぐような呼吸を繰り返すアルデアを見たエプロンの女が慌てて病室の扉を開ける。駆け込んできた誰かが自分の名前を呼んでいるのが遠く聞こえた。
―――
「体調はどう? さっきは色々思い出しちゃって辛かったよね。」
白衣を着たフロースが優しく微笑みかける。
「今日は私とちょっとお話ししてほしくて。あ、大丈夫よ。教官はいないから。安心して。」
騒動の後、アルデアが連れてこられたのは狭い部屋だった。壁にそって設えられた棚には本や薬瓶、様々なサイズの小箱が隙間なく詰め込まれ、窓に向き合うように配置された机とその隣のカウチソファで室内はほぼいっぱいになっている。
「ごめんね。狭くて。倉庫だったところを使わせてもらってるの。」
「は、はい……。」
「そんなに緊張しなくても大丈夫。」
カウチソファの上で固くなるアルデアに笑いかけ、フロースは続ける。
「心の傷って外から見えないから、治すのが難しいの。今からするのは、あなたが閉じ込めた記憶にそっと触れて、一緒に整理して、少しずつ痛みを取り除くための治療だと思ってくれたらいいわ。」
フロスが小さな声で「ヒプノル」と言うと、彼女の琥珀色の瞳はすっと透き通り、淡い光を放つ。
「わぁ……きれい…………。」
「ふふ、ありがとう。私のジェムはヒプノル。催眠を通じて人の心を見る魔法よ。」
フロースは傍らにあった香炉を引き寄せると、マッチを擦って中の香に火をつけた。
「今からあなたの過去を見ていくわね。色々なことを思い出すことになるから、もし途中で気分が悪くなったり、嫌だなって感じたりしたらそこでやめちゃってもいいわ。アルデアの気持ちを一番大切に扱うって約束する。」
香炉から細く煙が上がり、ふわりとカモミールが香る。
「アルデア、私の目を見て。」
言われるがままにアルデアはフロースの瞳を見る。瞬間、アルデアは部屋の中が琥珀色の光の中に沈むような感覚を覚えた。時間が止まったように静かな空間で、とても、あたたかい。
「今から10数えるわ。数え終わったらあなたの意識は9月27日に戻る。ゆっくり呼吸して、私と一緒に数を数えて。1、2、3、4……」
フロースの柔らかな声に続いて数を数える。
「5、6、7、8……」
数字のカウントが進むにつれアルデアの思考はボーッとかすんでいく。立ち込めたカモミールの香が頭の中にもやをかけたような心持ちだった。10数え終わる前には、彼女はもう夢うつつで目を閉じていた。
「今は9月27日の朝10時。あなたはどこにいる? 」
目を開けた彼女の前に広がっていたのは、見慣れた自室の風景であった。アルデアはまるでガラス越しに自分を見ているような不思議な感覚に陥った。
「家にいます。」
「何が見える? 」
「ベッドと、天井が見えます。」
「あなたは何をしてる? 」
「眠って、ます。」
「何か変わったことはあった? 」
「……起きなきゃいけない時間だったのに、眠ってます。」
「少し時間を進めるわ。12時。何が見える? 」
「目を覚ました私です。」
「何かあった?」
「洗礼式に遅れちゃったと思ってすごく慌ててます。おかあさんも、おばあちゃんも、家にいなくて……。手紙が……。」
「手紙? 」
「お母さんからの手紙。ああ、手紙があったんです。教会には行かず、出来るだけ、遠くに……。あれ? あとは何だっけ……。」
「思い出せるところだけでいいわ。」
「次は12時半。何が見える? 」
「走って教会に向かってます……。」
「何かあった? 」
「急いでるのに……足がなかなか動かなくて……。グラグラして……。」
「具合が悪かった? 」
「はい……。朝からずっとこんな感じでした。」
「13時。何が見える? 」
「真っ暗で何も見えません。」
「少し戻すわ。12時50分。」
「真っ暗です。」
「12時45分。」
「礼拝堂の前にいました。」
「何をしてる? 」
「ドアを開けました。」
「何が見える? 」
「真っ暗で……何も。」
その時、聞こえてきた声によってアルデアの意識は『ガラスの向こう側』へと引き込まれた。
『何をしてる。』
冷たく無機質な声音。そこにいたのはあの、黒い、影であった。
「だ、誰ですか!? 」
カウチソファに横たわっていたアルデアは勢いよく身を起こした。
明らかに様子の変わったアルデアを見たフロースは眉をひそめ、彼女の名前を呼ぶがアルデアの意識は向こうから帰ってはこなかった。
「知らない! ジェムなんて本当に知らないんです! 」
「痛い! 」
「……あれ、みんな。どうして……。何が、起きたの……? 」
「お母さん! おばあちゃん! どうして!? なんで!? やだ! 」
「やめて……やめて! 痛い! 痛いよーーー! 」
「アルデア! 落ち着いて! 」
突如として割り込んできたフロースの声に、アルデアの意識は一気に現実へ引き戻された。
「大丈夫? 」
アルデアの眼前にあるのは先ほどの狭い部屋と、心配そうに顔を覗き込むフロースの顔である。
「あれ……私……。」
アルデアは自分の胸に手を当てた。強く、早く、鼓動が打っている。
「少し入り込みすぎたみたいね。今日はここまでにしましょう。」
「ごめんなさい……。」
「謝ることないのよ。あなたの心の傷に触れる治療だから、ゆっくり時間をかけていきましょう。」
アルデアの手を握るフロースのぬくもりが、ここが確かに現実だと教えてくれている気がした。
ーーー
フロースとの治療を終えたアルデアは、再び病室に戻って窓の外を見ていた。
気晴らしになれば、とフロースが置いて行ってくれた花瓶の向こうに見えるのは、自宅があった田舎町とは違う建物だらけの街並みだ。少し曇った空を横切るムクドリの数を、ただ、ぼんやり数える。
特別何かしたわけではないのに、頭の中がいやに疲れているような気がした。
ふぅ、と一つ息を漏らした時。窓から吹き込んだ風にあおられ、活けられたリンドウが揺れる。
「アルデア、入るぞ。」
そんな時、聞こえてきたのはあの不思議な声だった。不意に聞こえたその声にアルデアは思わず背筋を伸ばす。
「今、いいだろうか。」
現れたのはミルヴァスである。相変わらず黒い服に身を包んでいる彼は、何を考えているのか分からない無表情でベッドサイドの椅子に腰かける。
「はい……えっと、こんにちは。」
「こんにちは。」
意外にも律義に挨拶を返したミルヴァスは、懐から紙袋に包まれた何かを取り出す。
「君の持ち物を返しに来た。」
黒い手袋に覆われた手が差し出してきた、その紙袋を開けたアルデアの目に光が灯る。
アルデアはそっと紙袋の中を覗き、目を見開いた。手にしたのは、あの日の朝に母が残した手紙だった。
「これ……」
声にならない問いに、ミルヴァスは静かに応じた。
「教会で君を保護した時、服の中から落ちた。修復に時間がかかって、遅くなってしまった。」
袋に入っていたのは、洗礼式の朝にルーナが残していった手紙と木製のケースであった。
手紙は黄色く変色してところどころ字が滲んでしまっていた。しかし、まだかろうじて母の筆跡を読み取ることが出来て、アルデアはそれがとても嬉しかった。
「個人持ち物を勝手に開くのは気が引けたが、事件の詳細を調べるためにその手紙とケースの中身は検めさせてもらった。了承してほしい。」
ミルヴァスは無表情に、事務的にそう告げる。
「ありがとう、ございます……。」
アルデアは木製のケースの蓋を開く。中には、ルーナが仕事に使っていたかぎ針やシャトル、綴じ針などがそのまま入っており、手荒れしがちなルーナが使っていたハンドクリームの香りが微かに残っていた。
「あの、お母さんは今……。」
「先日も伝えた通り、君の母親は今、集中治療室で治療を受けている。意識はまだ……戻っていない。」
伏し目がちにそう言ったミルヴァスの言葉に、アルデアは「そうですか……。」とうつむくしか出来なかった。ミルヴァスはそんなアルデアの様子に気が付くと、その目をまっすぐに見つめて言う。
「いつ、と約束はできないが……君が希望するのであれば、いずれ面会の機会を作れるよう、努力する。」
初めて間近で見る紫金の瞳はやはり星空のようで、アルデアは僅かに心臓が跳ねるのを感じた。




