第7話 商都(2)
◇
市場は朝から騒がしかった。
人の密度が村の祭りの三倍はある。声と匂いが混ざって層になっている。焼き菓子、革の鞣し、香辛料、汗。全部が一度に来る。精霊灯が天幕の支柱ごとに括りつけてあり、日差しの届かない奥まで照らしている。管理の光だ。
勇者が人混みに突っ込んでいく。体が大きいのに流れの隙間を縫うのがうまい。
「賢者、あれ何だ」
「干し肉だ」
「あれは」
「干し果物だ」
「あっちは」
「金がない」
勇者が黙った。三秒だけ。
「腹が減った」
知っている。今朝から四回目だ。
その時、声が飛んできた。
「——兄さん!」
聞き覚えがある。聖都の儀で一度だけ聞いた声だ。あの時より怒気が乗っている。
振り向く前に、勇者の体が揺れた。
銀髪の少女が勇者の胸に突っ込んでいた。そのまま拳で胸を叩いている。小さい拳だ。勇者の胸板に対しては完全に無力だが、本人は全力だった。
「勝手に出て行って! 何も言わないで! 寄り道ばかりして!」
叩く。叩く。叩く。勇者は避けない。
「お前、なんでここに」
「探したに決まってるでしょう! どれだけ歩いたと思ってるんですか!」
聖女か。
銀髪が勇者と同じ色をしている。聖都の儀で見た時はもっと整っていた。今は旅装で、髪も乱れている。顔立ちは兄に似ているが、勇者の鈍さがない。表情の動きが速い。怒りと安堵と疲労が目の端と口元で同時に動いている。
「痛いぞ」
「痛いわけないでしょう。あなたが痛がるはずがないんですから」
「痛いって言ってるだろ」
「嘘つき」
勇者が困った顔をしている。怒っていない。嫌がってもいない。殴られながら、少しだけ目が柔らかい。
聖女が殴る手を止めた。息が荒い。それでもまだ勇者の胸元を掴んでいる。
「……心配、したんですから」
声が一段落ちた。拳が開いて、胸元の布を握り直している。
勇者が黙って妹の頭に手を置いた。
「——触らないでください」
手を払われた。勇者は傷ついた顔もしない。払われ慣れている。
聖女の目がこちらを向いた。
「久しぶりですね、賢者」
冷たい。兄に向けていた怒りとは質が違う。査定の目だ。聖都の儀の時と同じ——こちらを信用していない目。
「ああ」
「やっぱりあなたが一緒にいるんですね。兄さんを連れ出した張本人が」
「連れ出してはいない。こいつが勝手についてきた」
「嘘でしょう。兄さんが自分から旅に出るわけがない」
断定が速い。根拠は兄への理解か。半分は当たっている。こいつが「行かなきゃ」と言い出して、俺はついて行っただけだ。連れ出した覚えはない。だがそれを聖女に説明したところで、信じる顔はしていない。
「おい、賢者」
勇者がこちらを向いた。
「なんだ、勇者」
「妹が来た」
「見れば分かる」
「そうか」
「こいつは悪い奴じゃない」
「信用していません」
聖女が言い切った。丁寧語のまま、刃物のような声だ。
◇
市場の端に荷下ろし用の石台がある。人通りが少ない。
聖女が背負っていた荷物を下ろした。旅装だ。背嚢の他に、布で包んだ細長いものを一つ、紐で体に括りつけている。
背嚢を開けた。革袋を引っ張り出して、勇者に投げた。
「路銀です。母さまが持たせてくださいました」
勇者が受け取った。中を覗く。
「金だ」
「当たり前でしょう。一銭も持たずに出て行って、母さまがどれだけ心配したか分かりますか」
「泣くほどのことか」
「泣くんですよ!」
聖女の声が跳ねた。丁寧語が崩れかけている。市場の通行人が何人か振り返った。
「あなたはいつもそうです。自分がいなくなった後のこと、何も考えない」
勇者が黙った。否定しない。言い返す言葉がないのか、本当にそうだと思っているのか。こいつの沈黙は種類が少ないから判断がつかない。
「……で」
聖女が深く息を吐いた。怒りの一段が終わったらしい。声が落ち着いた。
「これも」
背負い紐を解いた。布に包まれた細長いもの。聖女が慎重にそれを膝の上に置いた。
置いた瞬間、左手の指輪が震えた。
精霊力だ。布の中から漏れている。微かではない。抑えられている。布に包まれた状態で、この距離で、指輪の精霊が反応するほどの。
「——ちょっと」
ディーネの声が耳元で弾けた。姿隠しのまま、俺の肩に張りついている。
「あんたそれ、何持ってんの」
聖女には聞こえていない。
「父さまの形見です」
聖女が布の端を少し開いた。
光が漏れた。
白い光だ。精霊灯の管理された光とは違う。もっと古い。もっと深い。大気中の精霊力が光に引き寄せられて、布の隙間に集まっている。
剣だ。柄の部分が見えた。装飾のない実用的な柄。だがそこに宿っている精霊力は実用の域を超えている。
「大精霊じゃん」
ディーネが囁いた。声が震えている。昨夜の「気持ち悪い」とは違う震えだ。
「あれ大精霊クラスだよ。あたしと同格か、それ以上——」
「黙ってろ」
小声で抑えた。聖女がこちらを見ている。
「何か言いましたか」
「独り言だ」
聖女の目が細くなった。信用していない目だ。だが追及はしなかった。
「聖剣、と呼ばれていました。父さまがそう」
「知っている。聖都の儀で名前だけ聞いた」
「では話が早いですね」
聖女が布を閉じ直した。光が消える。精霊力が散った。
「届けに来ただけです。勇者の剣ですから」
勇者が剣を見た。表情が変わらない。
「いらない」
「……は?」
「俺、剣使えないし」
「使えないって——父さまの形見ですよ?」
「形見でも使えないもんは使えない」
聖女の丁寧語がぐらついた。
「あなたはいつも——いつもそうやって」
声が途切れた。言いかけて、飲み込んだ。精霊力を持たない兄が勇者に認定され、精霊力を持つ自分が聖女として残された。聖剣の精霊は兄を選んだ。その兄が「いらない」と言っている。
聖女の手が布の上にある。渡すつもりで来た。渡しに来た、と本人が言っている。
手が動かない。布の上の指が、わずかに白い。
◇
飯屋は大通りの脇にあった。路銀のおかげで入れる。
三人掛けの席。勇者が真ん中に座った。右に聖女、左に俺。聖女が一瞬立ち止まったのは、俺の隣に座りたくなかったからだ。勇者が真ん中を取ったことで間に壁ができた。こいつに自覚はない。
料理が来た。焼いた肉、パン、豆の煮込み、果実水。勇者が一皿目を三十秒で空にした。聖女が黙って自分の肉を半分、勇者の皿に移した。体が覚えている動作だ。
「あんた」
ディーネが耳元で囁いた。テーブルの上に座っている。
「あの子、あんたのこと嫌いだね」
「知ってる」
「声出さないでよ」
聖女が果実水を飲みながら、こちらを見ていた。
「賢者。一つ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「兄さんは——どこへ向かっているんですか」
「こいつに聞け」
「兄さんに聞いても『呼ばれてる気がする』としか言わないんです。あなたなら分かるでしょう。あなたは分析する人間ですから」
正論だ。正論で武装するタイプか。
「東だ。それ以上はまだ分からない」
「分からないのに連れ回しているんですか」
「連れ回してはいない」
「結果的にそうなっているでしょう」
「お前も腹減ってただろ」
勇者がパンを千切りながら言った。聖女の手が止まった。
一瞬だった。怒りが剥がれて、下にあるものが覗いた。頬が少し削れている。一人でここまで歩いてきた顔だ。
「……減っていません」
「嘘つくな。お前、肉を俺にやっただろ」
「余っただけです」
「余ってない。食え」
勇者が自分の皿から肉を取って、聖女の皿に戻した。聖女が戻そうとした。勇者が手で押さえた。
「食え」
聖女が唇を噛んだ。肉を一切れ口に入れた。乱暴に噛んだ。
「……おいしくないです」
「泣きそうな顔で言うな」
「泣いてません!」
声が裏返った。テーブルを叩いた。果実水が揺れた。
勇者の横にいるこの子は、止めに来たのか、一緒に来たかったのか。どちらでもある。どちらも本音だろう。精霊力のある自分ではなく、精霊力のない兄が選ばれた。追いかけてきた理由は、兄を心配しているからだ。それだけではない。それだけではないことを、本人はたぶん分かっている。分かっていて、言わない。
◇
宿への帰り道、路地に入ったところで聖女が荷物を背負い直した。
光が漏れた。布の隙間から白い光が差して、路地の壁を一筋照らした。聖女が慌てて押さえる。紐を締め直す手が速い。何度もやっている動作だ。
指輪が震えた。ディーネが息を呑む気配がある。勇者は前を歩いている。気づいていない。
「聖女」
「……なんですか」
「その荷、重くないか」
「重くありません」
聖女の手が、布の上にある。渡しに来た、と聖女は言った。渡せていない。




