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理屈屋賢者と脳筋勇者  作者: 布団が本体


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第7話 商都(2)


 市場は朝から騒がしかった。


 人の密度が村の祭りの三倍はある。声と匂いが混ざって層になっている。焼き菓子、革の鞣し、香辛料、汗。全部が一度に来る。精霊灯が天幕の支柱ごとに括りつけてあり、日差しの届かない奥まで照らしている。管理の光だ。


 勇者が人混みに突っ込んでいく。体が大きいのに流れの隙間を縫うのがうまい。


「賢者、あれ何だ」

「干し肉だ」

「あれは」

「干し果物だ」

「あっちは」

「金がない」


 勇者が黙った。三秒だけ。


「腹が減った」


 知っている。今朝から四回目だ。


 その時、声が飛んできた。


「——兄さん!」


 聞き覚えがある。聖都の儀で一度だけ聞いた声だ。あの時より怒気が乗っている。


 振り向く前に、勇者の体が揺れた。


 銀髪の少女が勇者の胸に突っ込んでいた。そのまま拳で胸を叩いている。小さい拳だ。勇者の胸板に対しては完全に無力だが、本人は全力だった。


「勝手に出て行って! 何も言わないで! 寄り道ばかりして!」


 叩く。叩く。叩く。勇者は避けない。


「お前、なんでここに」

「探したに決まってるでしょう! どれだけ歩いたと思ってるんですか!」


 聖女か。


 銀髪が勇者と同じ色をしている。聖都の儀で見た時はもっと整っていた。今は旅装で、髪も乱れている。顔立ちは兄に似ているが、勇者の鈍さがない。表情の動きが速い。怒りと安堵と疲労が目の端と口元で同時に動いている。


「痛いぞ」

「痛いわけないでしょう。あなたが痛がるはずがないんですから」

「痛いって言ってるだろ」

「嘘つき」


 勇者が困った顔をしている。怒っていない。嫌がってもいない。殴られながら、少しだけ目が柔らかい。


 聖女が殴る手を止めた。息が荒い。それでもまだ勇者の胸元を掴んでいる。


「……心配、したんですから」


 声が一段落ちた。拳が開いて、胸元の布を握り直している。


 勇者が黙って妹の頭に手を置いた。


「——触らないでください」


 手を払われた。勇者は傷ついた顔もしない。払われ慣れている。


 聖女の目がこちらを向いた。


「久しぶりですね、賢者」


 冷たい。兄に向けていた怒りとは質が違う。査定の目だ。聖都の儀の時と同じ——こちらを信用していない目。


「ああ」


「やっぱりあなたが一緒にいるんですね。兄さんを連れ出した張本人が」


「連れ出してはいない。こいつが勝手についてきた」


「嘘でしょう。兄さんが自分から旅に出るわけがない」


 断定が速い。根拠は兄への理解か。半分は当たっている。こいつが「行かなきゃ」と言い出して、俺はついて行っただけだ。連れ出した覚えはない。だがそれを聖女に説明したところで、信じる顔はしていない。


「おい、賢者」


 勇者がこちらを向いた。


「なんだ、勇者」

「妹が来た」

「見れば分かる」

「そうか」

「こいつは悪い奴じゃない」

「信用していません」


 聖女が言い切った。丁寧語のまま、刃物のような声だ。



 市場の端に荷下ろし用の石台がある。人通りが少ない。


 聖女が背負っていた荷物を下ろした。旅装だ。背嚢の他に、布で包んだ細長いものを一つ、紐で体に括りつけている。


 背嚢を開けた。革袋を引っ張り出して、勇者に投げた。


「路銀です。母さまが持たせてくださいました」


 勇者が受け取った。中を覗く。


「金だ」

「当たり前でしょう。一銭も持たずに出て行って、母さまがどれだけ心配したか分かりますか」

「泣くほどのことか」

「泣くんですよ!」


 聖女の声が跳ねた。丁寧語が崩れかけている。市場の通行人が何人か振り返った。


「あなたはいつもそうです。自分がいなくなった後のこと、何も考えない」


 勇者が黙った。否定しない。言い返す言葉がないのか、本当にそうだと思っているのか。こいつの沈黙は種類が少ないから判断がつかない。


「……で」


 聖女が深く息を吐いた。怒りの一段が終わったらしい。声が落ち着いた。


「これも」


 背負い紐を解いた。布に包まれた細長いもの。聖女が慎重にそれを膝の上に置いた。


 置いた瞬間、左手の指輪が震えた。


 精霊力だ。布の中から漏れている。微かではない。抑えられている。布に包まれた状態で、この距離で、指輪の精霊が反応するほどの。


「——ちょっと」


 ディーネの声が耳元で弾けた。姿隠しのまま、俺の肩に張りついている。


「あんたそれ、何持ってんの」


 聖女には聞こえていない。


「父さまの形見です」


 聖女が布の端を少し開いた。


 光が漏れた。


 白い光だ。精霊灯の管理された光とは違う。もっと古い。もっと深い。大気中の精霊力が光に引き寄せられて、布の隙間に集まっている。


 剣だ。柄の部分が見えた。装飾のない実用的な柄。だがそこに宿っている精霊力は実用の域を超えている。


「大精霊じゃん」


 ディーネが囁いた。声が震えている。昨夜の「気持ち悪い」とは違う震えだ。


「あれ大精霊クラスだよ。あたしと同格か、それ以上——」

「黙ってろ」


 小声で抑えた。聖女がこちらを見ている。


「何か言いましたか」

「独り言だ」


 聖女の目が細くなった。信用していない目だ。だが追及はしなかった。


「聖剣、と呼ばれていました。父さまがそう」

「知っている。聖都の儀で名前だけ聞いた」

「では話が早いですね」


 聖女が布を閉じ直した。光が消える。精霊力が散った。


「届けに来ただけです。勇者の剣ですから」


 勇者が剣を見た。表情が変わらない。


「いらない」

「……は?」

「俺、剣使えないし」

「使えないって——父さまの形見ですよ?」

「形見でも使えないもんは使えない」


 聖女の丁寧語がぐらついた。


「あなたはいつも——いつもそうやって」


 声が途切れた。言いかけて、飲み込んだ。精霊力を持たない兄が勇者に認定され、精霊力を持つ自分が聖女として残された。聖剣の精霊は兄を選んだ。その兄が「いらない」と言っている。


 聖女の手が布の上にある。渡すつもりで来た。渡しに来た、と本人が言っている。


 手が動かない。布の上の指が、わずかに白い。



 飯屋は大通りの脇にあった。路銀のおかげで入れる。


 三人掛けの席。勇者が真ん中に座った。右に聖女、左に俺。聖女が一瞬立ち止まったのは、俺の隣に座りたくなかったからだ。勇者が真ん中を取ったことで間に壁ができた。こいつに自覚はない。


 料理が来た。焼いた肉、パン、豆の煮込み、果実水。勇者が一皿目を三十秒で空にした。聖女が黙って自分の肉を半分、勇者の皿に移した。体が覚えている動作だ。


「あんた」


 ディーネが耳元で囁いた。テーブルの上に座っている。


「あの子、あんたのこと嫌いだね」

「知ってる」

「声出さないでよ」


 聖女が果実水を飲みながら、こちらを見ていた。


「賢者。一つ聞いてもいいですか」

「なんだ」

「兄さんは——どこへ向かっているんですか」

「こいつに聞け」

「兄さんに聞いても『呼ばれてる気がする』としか言わないんです。あなたなら分かるでしょう。あなたは分析する人間ですから」


 正論だ。正論で武装するタイプか。


「東だ。それ以上はまだ分からない」

「分からないのに連れ回しているんですか」

「連れ回してはいない」

「結果的にそうなっているでしょう」

「お前も腹減ってただろ」


 勇者がパンを千切りながら言った。聖女の手が止まった。


 一瞬だった。怒りが剥がれて、下にあるものが覗いた。頬が少し削れている。一人でここまで歩いてきた顔だ。


「……減っていません」

「嘘つくな。お前、肉を俺にやっただろ」

「余っただけです」

「余ってない。食え」


 勇者が自分の皿から肉を取って、聖女の皿に戻した。聖女が戻そうとした。勇者が手で押さえた。


「食え」


 聖女が唇を噛んだ。肉を一切れ口に入れた。乱暴に噛んだ。


「……おいしくないです」


「泣きそうな顔で言うな」


「泣いてません!」


 声が裏返った。テーブルを叩いた。果実水が揺れた。


 勇者の横にいるこの子は、止めに来たのか、一緒に来たかったのか。どちらでもある。どちらも本音だろう。精霊力のある自分ではなく、精霊力のない兄が選ばれた。追いかけてきた理由は、兄を心配しているからだ。それだけではない。それだけではないことを、本人はたぶん分かっている。分かっていて、言わない。



 宿への帰り道、路地に入ったところで聖女が荷物を背負い直した。


 光が漏れた。布の隙間から白い光が差して、路地の壁を一筋照らした。聖女が慌てて押さえる。紐を締め直す手が速い。何度もやっている動作だ。


 指輪が震えた。ディーネが息を呑む気配がある。勇者は前を歩いている。気づいていない。


「聖女」


「……なんですか」


「その荷、重くないか」


「重くありません」


 聖女の手が、布の上にある。渡しに来た、と聖女は言った。渡せていない。


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