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理屈屋賢者と脳筋勇者  作者: 布団が本体


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第5話 名もなき村(5)


 夜が来た。


 林の中を歩いている。俺一人だ。勇者は先に行った。止めなかった。


 木々の隙間から、光が漏れている。精霊力が大気を満たしている。呼吸するだけで肌がざわつく。昨夜とは濃度が違う。桁が違う。日中に辿った三系統の経路が全て全開になっている。土壌も水源も同時に脈動している。精霊が本気で顕現しようとしている。


 林を抜けると、祭壇の広場に村人が集まっていた。二晩前に見た光景と同じ。今夜は数が違う。子供から老人まで、村の全員がいるように見えた。


 群衆の端に、少女を見ていない老婆が一人いた。祭壇の脇の魔石だけを、じっと見つめている。何年前の贄の縁者かは知らない。あの目だけは分かる。終わったことを、もう一度見せられている目だ。


 祭壇の前に、少女が立っている。白い布を纏って、両手を前で組んでいる。


 手が震えていた。


 二晩前と同じだ。同じ場所に立って、同じように震えている。覚悟しているのに、体が追いつかない。十二歳の体は、正直だ。


 村長が少女の前に立った。一言だけ、何か言った。距離があって聞こえない。少女が小さく頷き、村長が祭壇の横に退いた。


 送り出しか。労いか。詫びか。


 村長が唱え始めた。精霊を呼ぶ言葉だ。魔術より古い、契約に紐づいた呼びかけ。


 精霊力が集束し、祭壇の上で空気が歪む。


 夜の虫が一斉に黙った。林の匂いが変わる。土でも草でもない、分類できない甘さが鼻を突いた。


 形が生まれた。


 光の粒が集まって、輪郭を作る。人の形に近い。だが大きさが違う。祭壇の上に座れる程度の、小さな姿だった。子供のような、いや子供そのものの形をしている。精霊が顕現時に人型をとることは理論上ありうる。周囲の認知に合わせて姿を借りる。だとすれば、この村の人間にとって精霊とは子供の形をした何かだということになる。贄が子供だからか。あるいは逆か。考えている場合ではない。


 目があった。精霊の目と、俺の目が。


 笑っていた。悪意のない、ただの笑みだ。


 綺麗だと思った。分析の外の感想だった。


 これが、百年間この村を守り、百年間贄を食ってきた存在か。



 精霊が少女を見た。


「ああ、今年はこの子」


 声があった。高い。子供の声だ。


「いい匂いがする。おいしそう」


 少女の体が震えた。それでも、立っている。目を閉じて、手を組んで。


 精霊が祭壇から降りた。足はない。地面に触れないまま、少女の方へ滑っていく。距離が詰まるたびに少女の肩が強張るのが見えた。


 そこで——勇者が歩き出した。


 村人とは離れていた。最初から、祭壇の正面にいた。いつからいたのか分からない。俺より先にここにいたのだから、村人より早く来ていたことになる。


 勇者が少女と精霊の間に立った。


 殴らなかった。


 剣も持っていない。構えもしない。ただ、立っている。精霊と少女の間に、体一つ分の壁を作って。


 村人がざわめいた。村長が叫んだ。何か言っている。聞こえない。精霊力の密度が高すぎて、音が歪んでいる。


 精霊が勇者を見た。


「邪魔」


「ああ」


「どいて」


「嫌だ」


 精霊が首を傾げた。怒っていない。本当に不思議そうに、勇者を見ている。


「なんで?」


 勇者が答えた。


「こいつのパンがうまかったから」


 精霊がぽかんとした。村長もぽかんとしている。少女も、勇者の背中を見て、口を開けている。


 俺だけが——いや、俺も同じ顔をしていたかもしれない。


「パン?」


「パンだ。こいつが焼いたパンがうまかった。食ったことないだろ。お前に食わせてやりたいくらいだ」


 精霊がまじまじと勇者を見ている。


「お前は面白い人間だね」


「そうか?」


「うん。でも、邪魔。この子はわたしのごはん」


「嫌だ」


「嫌って言われても」


 精霊が困った顔をした。子供が予想外の展開に戸惑うような、そういう顔だ。


「約束なんだけどな。この村の人たちと」


 精霊が村長を見た。村長は蒼白だった。


「どける?」


 村長が口を開きかけた。勇者が先に言った。


「どかない」


 精霊がしばらく勇者を見ていた。長い沈黙だった。精霊力が揺れている。怒りではない。ただ、判断している。自然の摂理が、目の前の障害物を測っている。


「ふうん」


 精霊が息を吐いた。吐いた、ように見えた。


「じゃあ、いいよ」


「約束、なしね。この村のごはん、もういらない」


 村長が崩れ落ちた。


「ま、待ってくれ——」


「待たない。面倒だし。ごはんの前に壁があるの、初めて。なんか嫌になっちゃった」


 精霊の光が薄れ始めた。輪郭が揺らいでいる。


 このまま消える。加護ごと。百年の契約が消えて、村が死ぬ。


 頭の中で、日中の分析が回った。対価の組み替え。契約は合意だ。精霊が別の対価で応じるなら、経路は維持できる。精霊と交渉する手段がない。そう結論づけた。向き合う場がないと。


 ある。今、ここに。


 こいつが作ったのだ。勇者が百年の儀式を壊したことで、精霊が初めて台本の外で喋っている。百年間なかった場が、今この瞬間だけ存在している。


「待ってくれ」


 声が出ていた。


 精霊が振り返った。消えかけた輪郭が、少しだけ戻る。


「なに。まだいたの」


「新しい契約を提案する」


 精霊が目を瞬いた。まばたきの真似だ。光の粒が一瞬散って、戻る。


「え〜。めんどくさい」


「頼む」


 勇者が言った。


「話だけでも聞いてくれ」


 精霊が勇者を見た。それから俺を見た。面倒そうだったが、消えなかった。


「……ふうん。で、なに?」


 精霊力の輪郭が安定する。聞く気になっている。


 構造を思い出す。三系統の経路。土壌、水源、瘴気の排除。結節点は贄。これを別の結節点に置き換える。精霊が「受け取った」と認める何かに。


 さっきこの精霊は、百年分の契約を「嫌になっちゃった」の一言で捨てた。捨てられるということは、要るから取っていたのではない。そういうものだから取っていただけだ。対価の性質は問わない。こちらが差し出すものを、精霊が受け入れさえすれば成立する。


「年に一度、村で祭りを開く。お前を称える祭りだ」


「お祭り?」


 精霊が首を傾げた。知らないものを聞いた顔だ。


「供物は魔石と、村の子供たちが作った料理だ」


 精霊が黙った。表情が読めない。人間の交渉相手なら、沈黙の質で推し量れる。この存在には、その尺度が通じない。


「……」


「パンは?」


 精霊が言った。


 聞いていたのか。勇者が少女のパンの話をしていた時、この精霊はちゃんと聞いていた。


「パンもある」


 勇者が即答した。


「あの子が焼く」


 精霊の目が少女を見た。少女は勇者の後ろで、何が起きているのか分からないという顔をしていた。


「ねえ」


 精霊が少女に話しかけた。少女の体がびくりと跳ねた。


「おいしいの? パン」


 少女が口を開きかけて、閉じた。自分を食うはずだったものが、自分にパンの味を聞いている。


「……うん」


 小さな声だった。


「焼きたてが、おいしい」


 精霊がしばらく少女を見ていた。


「……」


 長い沈黙だった。精霊の光が揺れている。何を基準に、何を天秤にかけているのか。待つしかない。


「まあ、いっか」


 軽かった。百年分の契約を捨てた口が、同じ軽さで新しい契約を飲んだ。


「え?」


 村長の声が裏返った。


「人間食べるより、お祭りの方が楽しそう。やってみる」


 精霊が笑った。無邪気な笑み。贄を見た時と同じ顔で、祭りの話をしている。この存在にとっては同じ棚に並んでいるのだ。人の命も、祭りも。楽しそうな方を取る。


「ただし」


 精霊がこちらを見た。笑みが消えている。


「つまんなかったら、やめるからね」


 それだけ言って、精霊が祭壇に戻った。光が薄れていく。完全には消えなかった。魔石に微かな光が残っている。加護の経路が——細いが、繋がっている。


「じゃあね。お祭り、楽しみにしてる」


 消える直前、精霊がこちらを見た。俺だけを。


「きみ、頭いいね」


 笑っていた。


「でも——次はないよ」


 光が消えた。



 静寂。


 村人が立ち尽くしている。何が起きたのか分かっていない者もいる。分かった者の顔は読めない。安堵か困惑か。百年続いた契約が、別の形に変わった。


 村長が膝をついたまま、祭壇を見ていた。


「……本当に、加護は」


「経路は繋がっている。細いが。新しい契約が動けば、安定するはずだ」


「はず、ですか」


「精霊は『つまんなかったらやめる』と言った。来年の祭りが気に入らなければ、そこで終わる」


 村長の顔が強張った。


「百年の安定を、不確かなものに変えてしまったと?」


「前の安定は、毎年子供を殺して成り立っていた」


 村長が口を開きかけて、閉じた。しばらくしてから、小さく頷いた。


「……分かって、おります」


 声が掠れていた。


「分かっていて、百年、続けたのです」


 それ以上は言わなかった。俺も聞かなかった。


 勇者は少女の方を向いていた。


 少女が白い布を握りしめたまま、立っている。涙が頬を伝っていた。声は出ていない。


「なんで」


 少女の声は震えていた。泣き声ではなかった。


「わたし、助けてほしいなんて言ってない」


「言ってない。知ってる」


「じゃあ、なんで」


 勇者が少女を見た。


「パンがうまかったから」


 少女の顔が歪んだ。覚悟の顔は、もうどこにもない。


「……なにそれ」


「来年、祭りでも焼いてくれ」


 少女が唇を噛んだ。涙が止まらない。十二歳の子供が、覚悟も諦めも全部剥がれて、ただの子供に戻っている。


「……ばか」


 少女が呟いた。


「うん」


 勇者が言った。否定しなかった。


 手は、もう震えていない。



 朝が来た。


 村を出た。見送りはなかった——と思った時、後ろから足音がした。


 少女が走ってきた。手に布で包んだ何かを持っている。


「これ」


 差し出した。パンだった。二つ。まだ温かい。


「……朝焼いたの」


 勇者が受け取った。一口かじる。


「——うまい」


 前にも聞いた。最初にパンをもらった時と同じ声だ。あの時、この区別に俺の語彙は対応していないと思った。今もまだ対応していない。


 少女が笑った。泣いた後の、少し腫れた目で。


「来年、もっとうまく焼く」


「楽しみにしてる」


 勇者が笑い返した。少女が頭を下げて、村の方へ走っていった。


 街道に出る。東へ向かう。以前と同じ道。同じ方角。同じ旅。


 しばらく歩いた。太陽が高くなり、峠の手前で風が変わった。


「おい、賢者」


「なんだ、勇者」


「腹が減った」


 さっきパンを食っただろう。一時間も経っていない。だがこの言葉は、あの村に入ってから消えていた。朝の一度きりのほかは、こいつは一度も飯の話をしなかった。それが戻っている。同じ言葉だ。同じ重さではない。


「……ああ」


 次の街、商都までまだ遠い。


 勇者が前を歩いている。振り返らない。村の方を、一度も見なかった。


 精霊は「つまんなかったらやめる」と言った。祭りが気に入らなければ、加護は消える。あの村の未来は、精霊の気まぐれの上に載っている。俺たちが差し出したのは、解決ではない。猶予だ。


 だが、少女は生きている。来年、パンを焼く。


 東へ向かう。


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