第4話 名もなき村(4)
◇
朝になっても答えは出なかった。
精霊との契約を分析している。昨夜からずっと。魔石を通して感じた精霊力の構造を、頭の中で何度も組み直している。
精霊と村の間を流れる力の経路は三系統ある。土壌、水源、瘴気の排除。昨日の村長の話を魔術理論に置き換えるとそうなる。三系統が束になって一つの契約を構成し、その結節点が贄だ。
結節点を迂回する方法を探した。三系統の経路を個別に維持できれば、贄なしで加護だけ残せる。だが精霊力の供給源は精霊そのものだ。踏み倒しでしかない。
背中が強張っていた。一晩、ほとんど動いていない。
対価を別のものに替えるなら筋は通る。契約は物理法則ではなく合意だ。ただ、それは精霊と交渉するということだ。百年間、この村の誰もそれをしていない。
隣で勇者が寝返りを打った。
道は一つだけ見えている。対価の組み替え。精霊と向き合う手段がない。五十年前に一度、贄を出さなかったことがある。交渉なしで対価だけ止めた。村の三分の一が死んだ。
考えても出ない答えを回し続けているだけだ。こうしていれば、あの子のことを考えずに済む。十二の子供の、白くなった指先のことを。
——それくらいは分かっている。
◇
勇者がいなくなっていた。
納屋に戻った時、藁の上はもう冷えていた。朝早くに出たらしい。起こさなかったのは珍しい。
探す必要はなかった。行き先は一つしかない。
少女の家に向かった。
近づくと、声が聞こえた。勇者の声。
「——だから、礼を言いに来たんだ」
家の前で、勇者がしゃがんでいた。少女が戸口に立っている。昨日と同じ構図。ただし少女の表情が違う。警戒ではない。困惑だ。
「礼?」
「パンの。うまかった」
「……それだけ?」
少女が首を傾げている。明日死ぬ子供に、旅人がパンの礼を言いに来た。
「それだけだ」
勇者が笑っている。嘘がない笑い方だ。
俺は少し離れた場所で見ていた。聞こえる距離。声をかけない距離。
「あれ、自分で焼いたのか」
「うん。おばあちゃんに教えてもらった」
「おばあちゃんは」
「死んじゃった。去年」
勇者が黙った。一拍。
「じゃあ、お前が一番うまいパンを焼けるってことだな」
「え?」
「おばあちゃんに教えてもらって、お前が焼いてるんだろ。じゃあ、この村で一番うまいパンは、お前のだ」
少女がぽかんとしている。そういう話ではないと言いたげだが、勇者は気づいていない。
「もったいないな」
勇者がぽつりと言った。
「明日死んだら、もう誰も焼けないだろ」
——空気が変わった。
こいつの頭の中では、まだパンの話だ。核心を突いた自覚がない。
だが、少女の顔が凍りついていた。
「……」
覚悟はしていたはずだ。村のために死ぬと。それは本心で、受け入れたことだ。勇者の言葉が、その外側に触れた。
何に触れたのかまでは分からない。分かるのは、少女の顔が凍りついたという事実だけだ。
「……やめてください」
少女の声が硬かった。
「え?」
「そういうこと、言わないでください」
勇者が目を丸くしている。
「わたしは明日、死ぬの。それはもう決まってるの。だから——そういうこと言われると、困る」
少女が唇を噛んだ。涙が止まらない。十二歳の子供が、握りしめていた覚悟を指の間からこぼして、ただの子供の顔で泣きじゃくっている。
「助けてほしいなんて、思ってないから」
勇者が立ち上がって、少女を見下ろしている。
「助けるとか言ってない」
「でも、そういう顔してる」
勇者の手が、一瞬だけ握られた。すぐに開いた。
「……パンの礼を言いに来ただけだ」
勇者が背を向けた。少女の家を離れる。
俺はまだ見ていた。少女が戸口に立っている。小さい手が、戸の枠を握りしめている。
扉が閉まった。
◇
「旅人」
村長が待ち構えていた。村の中央。周りに村人が何人かいる。昨夜、地下に連れて行った連中だ。
「あの子に何を言った」
「パンがうまかった、と言った」
勇者が答えた。村長の顔が引き攣る。
「ふざけているのか」
「ふざけていない」
嘘を言わない目だ。村長もそれは分かったのか、声の調子を変えた。
「旅のお方。この村のことに口を出さないでいただきたい」
「出していない」
「あの子を動揺させた。儀式の前に余計なことを——」
「パンがうまかった。それだけだ」
村長が唇を噛んだ。
「あなた方には分からない。我々がどれだけの思いで——」
「分かっている」
「百年の契約。五十年前の飢饉。精霊の加護なしにはこの村が成立しない。全部聞いた」
「分かっているなら、なぜ」
「なぜ黙って出て行かないのか、と聞きたいんだろう」
村長が黙った。
「分からん」
正直に言った。一晩かけて回した分析の結論がこれだ。精霊を倒せば加護が消える。契約を書き換える材料がない。代替の供物は見つからない。消去法で全部消えて、残ったのが「分からん」だ。
「子供を一人殺せば百人が生きる。合理的だ。否定する根拠を、俺は持っていない」
勇者が俺を見た。初めて、何かを言いたそうな目をしていた。だが口は開かなかった。
否定する根拠。数なら一対百だ。倫理なら子供を殺すなと言える。だが倫理で百人を飢え死にさせていいのかと返されれば——
「ただ」
俺は村長を見た。
「あの子の手は震えていた」
村長の目が揺れた。一瞬だけ。すぐに戻った。
「……覚悟の上です。あの子は立派です」
「ああ。立派だな。十二の子供が、大人の代わりに立派だ」
村長が拳を握った。
「あなたに——何が分かる」
「分からん。さっきそう言った」
沈黙。
「儀式は今夜です。それまでに、村を出てください」
村長が背を向けた。村人たちがついていく。
残されたのは俺と勇者だけだ。
◇
日が暮れていく。
「おい、賢者」
「なんだ、勇者」
「俺は今夜、あそこに行く」
祭壇のことだ。
「行ってどうする」
「分からん」
分からないのに行く。こいつはいつもそうだ。
「お前に聞きたいことがある」
勇者がこちらを向いた。
「あの子の手が震えてたって、お前は言ったよな」
「ああ」
「それ見えてて、動けないのか」
言葉が出なかった。
見えている。震えていた。覚悟の上だと言いながら、握った手の指先が白かった。それは観察だ。事実だ。
事実を見て、動けない。それが俺だ。
「……動いて、どうなる」
「知らない」
「村が滅ぶかもしれない」
「かもしれない」
「それでも行くのか」
「行く」
こいつは止まらない。
理屈ではない。正義でもない。パンがうまかった。あの子の手が震えていた。それだけで、こいつは動く。それが正しいかどうかは、考えていない。考える回路がない。
俺にはある。回路がありすぎる。だから動けない。
「……好きにしろ」
「お前は」
「俺は俺で考える」
勇者が頷いた。それだけで十分だと思っているのか、それ以上は何も言わなかった。
夜が来る。




