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理屈屋賢者と脳筋勇者  作者: 布団が本体


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第4話 名もなき村(4)


 朝になっても答えは出なかった。


 精霊との契約を分析している。昨夜からずっと。魔石を通して感じた精霊力の構造を、頭の中で何度も組み直している。

 精霊と村の間を流れる力の経路は三系統ある。土壌、水源、瘴気の排除。昨日の村長の話を魔術理論に置き換えるとそうなる。三系統が束になって一つの契約を構成し、その結節点が贄だ。


 結節点を迂回する方法を探した。三系統の経路を個別に維持できれば、贄なしで加護だけ残せる。だが精霊力の供給源は精霊そのものだ。踏み倒しでしかない。


 背中が強張っていた。一晩、ほとんど動いていない。


 対価を別のものに替えるなら筋は通る。契約は物理法則ではなく合意だ。ただ、それは精霊と交渉するということだ。百年間、この村の誰もそれをしていない。


 隣で勇者が寝返りを打った。


 道は一つだけ見えている。対価の組み替え。精霊と向き合う手段がない。五十年前に一度、贄を出さなかったことがある。交渉なしで対価だけ止めた。村の三分の一が死んだ。


 考えても出ない答えを回し続けているだけだ。こうしていれば、あの子のことを考えずに済む。十二の子供の、白くなった指先のことを。


 ——それくらいは分かっている。



 勇者がいなくなっていた。


 納屋に戻った時、藁の上はもう冷えていた。朝早くに出たらしい。起こさなかったのは珍しい。


 探す必要はなかった。行き先は一つしかない。


 少女の家に向かった。


 近づくと、声が聞こえた。勇者の声。


「——だから、礼を言いに来たんだ」


 家の前で、勇者がしゃがんでいた。少女が戸口に立っている。昨日と同じ構図。ただし少女の表情が違う。警戒ではない。困惑だ。


「礼?」

「パンの。うまかった」

「……それだけ?」


 少女が首を傾げている。明日死ぬ子供に、旅人がパンの礼を言いに来た。


「それだけだ」


 勇者が笑っている。嘘がない笑い方だ。


 俺は少し離れた場所で見ていた。聞こえる距離。声をかけない距離。


「あれ、自分で焼いたのか」

「うん。おばあちゃんに教えてもらった」

「おばあちゃんは」

「死んじゃった。去年」


 勇者が黙った。一拍。


「じゃあ、お前が一番うまいパンを焼けるってことだな」


「え?」


「おばあちゃんに教えてもらって、お前が焼いてるんだろ。じゃあ、この村で一番うまいパンは、お前のだ」


 少女がぽかんとしている。そういう話ではないと言いたげだが、勇者は気づいていない。


「もったいないな」


 勇者がぽつりと言った。


「明日死んだら、もう誰も焼けないだろ」


 ——空気が変わった。


 こいつの頭の中では、まだパンの話だ。核心を突いた自覚がない。


 だが、少女の顔が凍りついていた。


「……」


 覚悟はしていたはずだ。村のために死ぬと。それは本心で、受け入れたことだ。勇者の言葉が、その外側に触れた。


 何に触れたのかまでは分からない。分かるのは、少女の顔が凍りついたという事実だけだ。


「……やめてください」


 少女の声が硬かった。


「え?」


「そういうこと、言わないでください」


 勇者が目を丸くしている。


「わたしは明日、死ぬの。それはもう決まってるの。だから——そういうこと言われると、困る」


 少女が唇を噛んだ。涙が止まらない。十二歳の子供が、握りしめていた覚悟を指の間からこぼして、ただの子供の顔で泣きじゃくっている。


「助けてほしいなんて、思ってないから」


 勇者が立ち上がって、少女を見下ろしている。


「助けるとか言ってない」

「でも、そういう顔してる」


 勇者の手が、一瞬だけ握られた。すぐに開いた。


「……パンの礼を言いに来ただけだ」


 勇者が背を向けた。少女の家を離れる。


 俺はまだ見ていた。少女が戸口に立っている。小さい手が、戸の枠を握りしめている。


 扉が閉まった。



「旅人」


 村長が待ち構えていた。村の中央。周りに村人が何人かいる。昨夜、地下に連れて行った連中だ。


「あの子に何を言った」


「パンがうまかった、と言った」


 勇者が答えた。村長の顔が引き攣る。


「ふざけているのか」

「ふざけていない」


 嘘を言わない目だ。村長もそれは分かったのか、声の調子を変えた。


「旅のお方。この村のことに口を出さないでいただきたい」


「出していない」


「あの子を動揺させた。儀式の前に余計なことを——」


「パンがうまかった。それだけだ」


 村長が唇を噛んだ。


「あなた方には分からない。我々がどれだけの思いで——」


「分かっている」


「百年の契約。五十年前の飢饉。精霊の加護なしにはこの村が成立しない。全部聞いた」


「分かっているなら、なぜ」


「なぜ黙って出て行かないのか、と聞きたいんだろう」


 村長が黙った。


「分からん」


 正直に言った。一晩かけて回した分析の結論がこれだ。精霊を倒せば加護が消える。契約を書き換える材料がない。代替の供物は見つからない。消去法で全部消えて、残ったのが「分からん」だ。


「子供を一人殺せば百人が生きる。合理的だ。否定する根拠を、俺は持っていない」


 勇者が俺を見た。初めて、何かを言いたそうな目をしていた。だが口は開かなかった。


 否定する根拠。数なら一対百だ。倫理なら子供を殺すなと言える。だが倫理で百人を飢え死にさせていいのかと返されれば——


「ただ」


 俺は村長を見た。


「あの子の手は震えていた」


 村長の目が揺れた。一瞬だけ。すぐに戻った。


「……覚悟の上です。あの子は立派です」


「ああ。立派だな。十二の子供が、大人の代わりに立派だ」


 村長が拳を握った。


「あなたに——何が分かる」


「分からん。さっきそう言った」


 沈黙。


「儀式は今夜です。それまでに、村を出てください」


 村長が背を向けた。村人たちがついていく。


 残されたのは俺と勇者だけだ。



 日が暮れていく。


「おい、賢者」

「なんだ、勇者」

「俺は今夜、あそこに行く」


 祭壇のことだ。


「行ってどうする」

「分からん」


 分からないのに行く。こいつはいつもそうだ。


「お前に聞きたいことがある」


 勇者がこちらを向いた。


「あの子の手が震えてたって、お前は言ったよな」


「ああ」


「それ見えてて、動けないのか」


 言葉が出なかった。


 見えている。震えていた。覚悟の上だと言いながら、握った手の指先が白かった。それは観察だ。事実だ。


 事実を見て、動けない。それが俺だ。


「……動いて、どうなる」


「知らない」


「村が滅ぶかもしれない」


「かもしれない」


「それでも行くのか」


「行く」


 こいつは止まらない。


 理屈ではない。正義でもない。パンがうまかった。あの子の手が震えていた。それだけで、こいつは動く。それが正しいかどうかは、考えていない。考える回路がない。


 俺にはある。回路がありすぎる。だから動けない。


「……好きにしろ」


「お前は」


「俺は俺で考える」


 勇者が頷いた。それだけで十分だと思っているのか、それ以上は何も言わなかった。


 夜が来る。


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