第2話 名もなき村(2)
◇
目が覚めたのは、足音のせいだった。
複数。四人か五人。藁の上に寝転がったまま、耳だけで数える。足並みが揃っている。慣れた連中だ。
勇者はまだ寝ている。五人の足音で起きない。想定の範囲内だ。こいつが目を覚ます条件に「外部からの脅威」は含まれていない。
納屋の扉が開いた。灯りはない。月明かりだけが、入口に立つ影を照らしている。
「旅のお方」
昨夜と同じ声。同じ男。今度は二人ではなく、五人連れていた。
「客人に、部屋を用意いたしました」
丁寧だ。言葉だけは。
「結構だ。ここで十分——」
「いえ」
男が一歩踏み込んだ。
「お休みになっていただきます」
男の背後に並ぶ四人が、入口を塞いでいる。
「賢者」
勇者が起きていた。いつの間に。
「聞こえてたのか」
「腹が減って目が覚めた」
足音ではなく胃だった。こいつの体の優先順位がよく分かる。
勇者がむくりと起き上がる。村人たちの体が強張るのが見えた。昨日の昼間、この男がどう動くかを見ていたのかもしれない。
「案内しろ」
俺が言った。勇者が不思議そうな顔をする。
「行くのか?」
「選択肢がない」
嘘だ。勇者が暴れれば五人くらいどうにでもなる。だが、暴れた後にこの村で情報を得る手段がなくなる。昨夜の光。あの匂い。知りたいことがある。
「ついてこい、勇者」
「飯は?」
「後だ」
◇
案内された場所は村の南端で、林の手前に半ば地面に埋もれた石造りの建物があった。昨夜、光が見えた方角だ。入口は石のアーチで、蔦が絡みついている。村の家屋より造りが古い。
石段を降りる。十段ほどで足元が土から石に変わった。空気が変わった。湿っているのではない。重い。精霊力の密度が地上とは桁が違う。壁は切り出した石を積んだもので、隙間から苔が這い出ている。指先で壁に触れると、冷たい石の奥にかすかな脈動があった。
広い部屋だった。天井が低い。立って腕を伸ばせば届く程度。四隅に魔石が設置されている。薄青い光を放っている。床は石畳で、中央がわずかに窪んでいる。その光が映り込んで、床面が水底のような色に染まっていた。
村人が最後の一人まで部屋を出ると、入口が閉じた。
同時に、結界が起動した。四隅の魔石から精霊力の膜が広がり、壁に沿って展開する。薄青い光の壁が、部屋全体を覆った。均一な圧が肌を包んで、息を吸うたびに胸の内側を押されるような重さがあった。
閉じ込められた。
「……」
触れてみる。指先に精霊力の抵抗がある。硬い。力で押しても弾かれる密度だ。
「おい、勇者」
「なんだ、賢者」
「部屋の四隅に設置された魔石から放出された精霊力で、この結界が形成されている。四隅のどこかの魔石を——」
「ふん」
言い終わる前に、勇者が結界の壁面に拳を叩き込んだ。
真正面。何の工夫もない。ただの右拳。
精霊力の膜が歪んだ。一瞬たわんで、弾き返す。
「硬いな」
「聞け。人の話を聞け」
拳を振っている。痛いのか。気にした様子はないが。
結界は健在だった。歪んだ膜が元に戻る。復元力がある。一点を殴っても、四隅の魔石が均等に力を補充する。構造で保っている。膜が閉じ直すと精霊力が空気を押し出して、鼓膜の奥にじわりと圧がかかる。
「……やるなら、せめて魔石を狙え。結界の面を殴っても再生する」
「どれ」
「四隅に光ってる石があるだろう。あれだ」
「全部か」
「一つでいい。一つ壊せば均衡が崩れる」
勇者が右奥の魔石を見たが、結界の膜の向こう側にある。
「あの向こうだが」
「分かった」
理解したのか、音として受信しただけなのか。こいつの「分かった」には常にその二つの可能性がある。
◇
勇者が魔石を殴りに行く前に、少し考えさせろと言った。勇者は壁に背を預けて腹が減ったと言った。今日に入って二度目の報告だ。聞こえてはいるが、対処する手段がない。
結界に手を当てて目を閉じ、精霊力の流れを感じ取る。
構造が見える。四隅の魔石を頂点とした正四面体。精霊力が頂点間を一定の速度で循環しており、乱れがまったくない。野生の精霊力にこの秩序は出ない。誰かが設計した術式だ。循環の方向を追う。右回り。上の頂点から底面へ降り、三つの頂点を巡って戻る。入口はない。出口のない循環だ。破るか、魔石を壊すか。
だが、妙だ。指先に当たる精霊力が、温かい。
掌を押し当てたまま、力の向きを探る。内側だ。精霊力が内に向かって流れている。牢なら逆になる。中のものを封じるなら外へ向けて張るのが道理だ。この結界は中にあるものを包み込んでいる。
封じ込めではない。では、何だ。
掌に残る温もりが、加護の手触りに似ている。
——清めの間だ。
精霊に捧げるものを、精霊力で包んで「整える」。そういう用途の部屋。結界は器だ。
何を清めるのかは——考えたくない仮説が一つある。
左手の指輪が冷たい。
「……黙ってろ」
「誰に言ってんだ」
「独り言だ」
「おい、勇者」
「なんだ」
「ここは牢じゃない」
「牢だろ。閉じ込められてる」
「構造の話をしている」
「構造はどうでもいい。出られないのは同じだ」
理屈を積み上げている俺に対して、こういう一言で全部ひっくり返してくる。
「出る方法は分かった。右奥の魔石が一番古い。劣化してる。そこが弱点だ」
「最初からそう言え」
「お前が先に殴ったんだろうが」
勇者が立ち上がった。
「もう殴っていいか」
「待て。魔石は結界の向こう側にある。結界を貫通しないと届かない」
「貫通する」
「根拠は」
「さっきより強く殴る」
根拠を求めた俺が悪かった。こいつに力加減の理論を聞いても返ってくるのは「殴る」の一語だ。
「……好きにしろ」
勇者が右奥の角に向かった。
構えが変わった。腰を落として、右腕を引く。
「壊す」
声の温度が違う。さっきのは試し打ちだったらしい。
拳が結界を捉えた。精霊力の膜が歪む。今度は復元しなかった。膜が裂けた。そのまま拳が魔石に到達し、魔石が砕けた。
均衡が崩壊した。残り三つの魔石が明滅し、結界が消える。精霊力の残滓が霧のように散った。部屋の空気が一息に軽くなって、石段の上から夜の冷気が降りてきた。
「……」
散っていく精霊力に手をかざした。加護と同じ質だ。この力は精霊そのものから来ている。村が精霊と何らかの契約を結んでいる。
「出るぞ」
勇者はもう入口に向かっている。
「飯だ」
結界を素手で砕いた直後に飯の話ができるのは、こいつくらいのものだ。
「……ああ」
◇
地上に出た。夜風が精霊力の残り香を散らす。
月が高い。真夜中に近い村は静まり返っている。
音がする。南の林の奥から。人の声ではない。精霊力が空気を震わせている音だ。
林の中に光がある。昨夜と同じだが、今夜は強い。
足が動いた。
「賢者」
「静かにしろ」
林を抜けた先に、開けた場所があった。木々が円を描くように途切れ、月明かりが遮るものなく降りている。
地面に紋様が刻まれている。古い。石畳の隙間から草が生えている。中央に祭壇のような石が置かれている。
村人が並んでいた。二十人ほど。誰も声を出していない。祭壇を囲むように、半円に立っている。
その中に——
あの子がいた。
パンをくれた少女が、祭壇の前に立っている。白い布を纏って、両手を前で組んでいる。周囲の村人と同じように、無言で。
ただ、他の村人とは違う——祭壇に一番近い場所に立っていた。
少女の顔は見えない。背中しか見えない。小さい背中だ。白い布が夜風に揺れている。
勇者の足が止まった。
俺の横で、何も言わずに立っている。腹が減ったとも言わない。
祭壇の向こうで、精霊力の塊が形を成しかけている。
——見なかったことにはできない。
だが、今夜はまだ、理解の外にいる。
風が吹いた。光が揺らいだ。少女の白い布が翻った。
それだけだった。




