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理屈屋賢者と脳筋勇者  作者: 布団が本体


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第1話 名もなき村(1)


「おい、賢者」

「なんだ、勇者」

「腹が減った」


 知っている。こいつの腹は朝から三回鳴った。一回目は日の出前、二回目は峠を越えた辺り、三回目はついさっき。間隔はおよそ二時間。ここまで正確な間隔で腹が鳴る例を、俺は文献で見たことがない。学術的な記録価値があるかもしれないし、ないかもしれない、おそらくない。


「昨日の干し肉がまだある」

「あんなもん肉じゃない。木の皮だ」


 木の皮を食ったことがあるのか。ある。こいつなら絶対にある。

 街道沿いの草が風に揺れている。東に向かって歩き続けて五日目。最後にまともな飯を食ったのは——


「賢者」

「なんだ」

「飯」


 「飯」の一音だけが残った。主語がない、述語もない。こいつの言語はまず文が崩れ、次に単語だけになり、最後に黙る。今は真ん中あたりだ。黙るまでざっと二時間。もっとも、満腹時だってたいした持ち合わせではないから、落差は思うほどない。


「……三週間前に寄った村が近い」


 ここから南に少し外れた場所に、小さな村がある。以前たまたま通りかかって一晩世話になった。特筆することのない村だった。畑があり、子供が走り回っていた。飯は質素だったが温かかった。


「行くか」

「行く」


 返事が速い。こいつは腹が減ると判断が速くなる。もう歩き出している。



 村の入り口に立った時、足が止まった。

 勇者のではない。俺の足だ。


 麦畑が広がっている。風車が一基、丘の上で回っている。前回と同じ景色だ。穂が風に揺れて、風車が軋む。それだけ聞けば、のどかな村に見える。


 だが、以前にはなかった空気がある。

 正確に言えば、三週間前にあったものがない。音だ。子供の声、鶏の鳴き声、畑仕事の掛け声。軒先に干してあった布も、道に出ていた農具もない。生活の痕跡が、音ごと引っ込んでいる。


 家屋は無事だ。石積みの壁に傷はない。火の跡もない。ただ、静かすぎる。


「賢者、飯」

「……ああ」


 勇者は気づいていない。隣を見ると、こいつの鼻がひくりと動いた。

 村の通りを歩く。俺たちの足音が石壁に跳ねて、妙に大きく聞こえる。前回は何人かが声をかけてきた。旅人が珍しかったのだろう、宿は要るかとか、水なら井戸を使えとか、そういう他愛もないやりとりがあった。


 今は誰も出てこない。

 窓の隙間から視線だけがある。こちらを見ている。見ているが、出てこない。一軒通り過ぎるたびに、背後で鎧戸が静かに閉まる音がした。


「……」


 三週間で何があった。



 前回飯を食わせてもらった家は、村の中程にあった。太った女主人が一人で切り盛りしている食堂のような場所で、旅人にも分け隔てなく出してくれた。芋の煮物と硬いパン。あの時は扉が開け放たれていて、通りまで芋の煮える匂いが漏れていた。味は普通だったが、勇者は三杯おかわりした。


 扉を叩く。

 返事がない。

 もう一度叩く。


「……今日はやっていません」


 声は聞こえた。扉の向こう、低い位置。しゃがんでいるのか。


「前にも寄らせてもらった旅の者だが」

「やっていません」


 繰り返すだけだ。理由は言わない。


「なあ」


 勇者が横から口を出す。


「腹が減ってるんだ。飯を食わせてくれ」


 直球すぎる。もう少し何かあるだろう。状況を聞くとか、相手の都合を考えるとか、そういうものを挟んでから本題に入る。交渉というのはそういうものだ。——が、こいつに手順を求めたことは過去に何度もあり、成功率はゼロだ。魚に陸を歩かせる方がまだ見込みがある。


「……すみません」


 扉は開かない。声が震えている。

 前回にはなかった声色だ。この女は俺たちを怖がっているのか。いや、俺たちだけではない。何かを怖がっていて、扉を開けるという行為そのものが——


 勇者が扉に手をかけた。


「やめろ」

「でも、怖がってるぞ」

「だから無理に開けるな」


 勇者の手が止まる。不満そうというより、困った顔だ。腕を下ろした。

 こいつは俺が止めれば止まる。理由は聞かない。


「他を当たる」

「……飯」

「分かってる」



 三軒目で諦めかけた時、声をかけてきたのは子供だった。


「あの」


 道の脇、家の影になっている場所に少女が立っていた。背は低い。十二、三といったところか。手に持った籠から、小麦の焼けた匂いがする。中にパンが入っている。


「お腹、空いてるんですか」

「減ってる!!」


 勇者が即答した。声が明るい。距離を詰めるのが速い。しゃがんで少女と目線を合わせている。


「すまないな。飯を出してくれる場所を探しているんだが、どこも断られた」

「……」


 少女はちらりと周囲を見た。誰かに見られていないか確認する目だ。それから籠のパンを二つ取り出して、勇者に差し出した。


「これ、今朝焼いたの。良かったら」


 勇者が受け取って、一口かじった。


「——うまい」


 本当にうまいのかは分からない。こいつは空腹であれば干し肉でも「うまい」と言う。味覚の評価基準としては信頼性が低い。だが今のは少し違った。干し肉の「うまい」が生存確認の報告だとすれば、今のは何だ。声が柔らかい。目元が緩んでいる。パンの味だけでなく、差し出されたという行為そのものに反応している。そういう区別に俺の語彙ごいは対応していない。


「ありがとな!」


 勇者が笑った。少女が少しだけ笑い返した。ほんの一瞬、すぐに表情を戻して、また周囲を見る。


「俺の分もいいか」


 少女は頷いて、もう一つ差し出す。受け取った。まだ温かい。朝焼いたにしては温度が高い。指先に、熱とは別の何かが触れた気がした。


「なぜ俺たちに? 他の連中はみんな扉を閉めたが」


 少女は少し黙った。


「……お腹が空いてるのに、食べられないのは嫌だから」


 それだけ言って、籠を抱え直して小走りに去っていった。


 この村の人間は全員、何かに怯えている。あの少女もそうだった。周囲を確認する目、足早に去る背中。小さい背中だった。籠を抱え直す指先に、力が入りすぎているのが見えた。

 だが、怯えていながら、パンを寄越した。

 何かがある。村の全員がそれを恐れている。全員が扉を閉じ、外部との接触を絶っている。その条件下であの子だけが動いた。怯えている。それは他の村人と同じだ。同じものを抱えたまま、動いた。この村で、あの子だけだ。


 勇者はパンを頬張りながら、少女が去った方向を見ていた。


「いい奴だな」

「ああ」


 そうだ。いい奴だ。だからこそ、何かが引っかかる。あの子だけが動いたという事実の裏側に、何がある。

 パンの温もりが、まだ手のひらに残っていた。



 日が落ちた。


 村外れの納屋を借りて——正確には勝手に入って、夜を過ごすことにした。藁の上は硬いが、野宿よりはましだ。勇者はパンを食い終わった後、藁に突っ伏した。俺が出入口を確認している間に、もう寝息が聞こえていた。


 眠れない。藁に寝転がって天井の梁を数えたが、三本目で飽きた。


 外に出た。月が出ている。村は暗い。

 昼間は窓の隙間から視線があったが、今はどの家にも灯りがなく、通りには俺の影だけが長く伸びている。


 風が変わった。

 南から、甘い匂いが流れてくる。花に似ているが、もっと重い。息を吸い込むと喉の奥にまとわりついて、しばらく抜けなかった。


 村の南の外れに、林がある。その奥に、薄い光が見えた。

 人の光ではない。

 魔術に携わる者なら分かる。蝋燭や焚き火とは揺らぎの質が違う。微弱だが、あれは精霊力の光だ。


 何かがある。


 ——そこで、背後に気配があった。振り返る。村人が二人、こちらを見ていた。手に灯りはない。暗闇の中、目だけが光って見えた。


「旅のお方」


 低い男の声だ。


「夜は出歩かない方がいい」


 忠告か。脅しか。声が低すぎて、区別がつかない。二人とも、こちらの目を見ていなかった。俺の背後——林の方を見ている。


「理由を聞いても?」

「夜は出歩かない方がいい」


 二人はそのまま暗闇に消えた。足音はほとんどしなかった。


 風が止んだ。甘い匂いも消えた。

 林の奥の光は、まだ微かに揺れていた。


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