大人の背中
朝は静かだ。
城がまだ完全に目を覚ます前の時間だけは、誰もが余計な言葉を置いていかない。
アデル・グランハルトは、書類に目を通しながら、指先で机を軽く叩いていた。
今日、処理すべき案件の束。その中に、意図的に後回しにしているものがある。
――リラ・ヴェルノア。
彼女に関する報告書は、すでに三通目だ。
どれも、決定的な非はない。
だが、どれも“余計な一文”が添えられている。
「国の人間が現場にいた」
「結果として、事態は収束した」
「偶然にしては出来すぎている」
曖昧で、しかし人を煽る言葉だ。
「……失礼します」
静かな声が、入り口から聞こえた。
ミレアだった。
書類を抱え、控えめな足音で近づいてくる。
その姿勢はあくまで事務的で、距離も保たれている。
アデルが手にした報告書を一瞥し、ミレアは言葉を発する。
「やはり、危ういですか」
「ああ。だか、想定の範囲内だ」
アデルは顔を上げずに答えた。
「正式な訴追ではありません。ですが、内々に“気にする者”は増えています」
ミレアは書類を一枚、机の端に置く。
「彼女は、目立ちすぎます。
能力も、立場も、年齢も」
アデルは、短く息を吐いた。
「……目立たせるつもりはなかった」
「ええ、分かっています」
ミレアは即座に肯定する。
「彼女が、前に出てしまうだけです」
そこで、言葉が止まった。
一拍。
ミレアは視線を落とし、声の温度を変えた。
「……アデル」
敬語が、消える。
「貴方、分かってる?」
アデルは、ようやく顔を上げた。
「彼女は、まだ“駒”として扱われる覚悟を持っていない」
それは、責める声ではなかった。
忠告でもない。
ただの、事実確認。
「だからこそ、俺が守っている」
「守ってるつもり、でしょう」
ミレアは静かに言う。
「でもね。
守るっていうのは、囲うことじゃない」
アデルは、答えない。
「貴方は、彼女の名前が上がるたびに、
“偶然”という言葉を用意して、
“判断の余地がない”という形に書き換えてきた」
事務的な報告の口調に、自然と戻る。
「書類を削り、順序を変え、
責任の所在を曖昧にする」
「……」
「それは、立派な政治です」
そこで、また一瞬だけ、言葉が柔らかくなる。
「でもね」
ミレアはアデルを見た。
「それはいつか必ず、彼女自身が背負うことになる」
沈黙。
アデルは、机に置いた書類を見つめたまま言った。
「……分かっている」
「本当に?」
問い返しは、優しかった。
「彼女は、まだ“疑われる側”になる覚悟を知らない。
でも、もう疑われ始めている」
ミレアは、書類を揃える。
「だからこそ、次は“守り方”を変える必要がある」
「どう変える?」
ミレアは、少しだけ間を置いた。
「彼女自身に、選ばせるの」
「……」
「責任も、立場も、危険も。
全部、説明した上で」
そこで、ふっと微笑む。
「彼女、案外強いわよ」
アデルは、ようやく小さく笑った。
「知っている。
だからこそ、怖い」
ミレアは何も言わず、踵を返す。
扉の前で、振り返った。
「宰務官」
「なんだ」
敬語に戻る。
「次の案件、私が処理します。
“彼女に直接触れない形”で」
「……助かる」
ミレアは一礼し、部屋を出た。
静けさが戻る。
アデルは、再び書類に目を落とした。
その中で、ひときわ軽い紙がある。
――留学案件。
まだ、正式ではない。
だが、芽はある。
「……遠くへ行く時期か」
呟きは、誰にも聞かれなかった。
彼女を守るために。
そして――彼女が、自分の足で立つために。
*
ミレアは廊下を歩きながら、一度だけ足を止めた。
窓の外。
中庭に差し込む朝の光が、少しずつ強くなっている。
城は、完全に目を覚ましつつあった。
彼女は、抱えていた書類を胸に引き寄せる。
――嫌な流れだ。
はっきりした理由はない。
証拠も、決定的な動きも、まだ見えない。
ただ。
最近、視線が増えている。
会議の席で。
廊下ですれ違う時。
何気ない報告書の末尾に。
“偶然”を疑う目。
ミレアは、歩き出しながら思考を整理する。
直接触れない。
正面から動かない。
だが、周囲を少しずつ固めていく。
そういう人間が、いる。
――厄介なやり方。
ただ、確信していることが一つだけあった。
この件は、事故では終わらない。
彼女は、無意識のうちに唇を引き結んでいた。
リラ・ヴェルノア。
思い浮かぶのは、報告書の中の名前ではない。
書類を抱えて走っていた背中。
説明に夢中になって、早口になる癖。
自分が矢面に立つ時ほど、他人のことを先に考えてしまうところ。
――まったく。
守られるのが、下手すぎる。
ミレアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
あの子は、強い。
だがそれは、戦う強さではない。
背負ってしまう強さだ。
だからこそ、危うい。
「……もう少しだけ」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
もう少しだけ、時間を稼ぐ。
もう少しだけ、視線を逸らす。
あの子が、自分で選べる場所に立つまで。
ミレアは歩調を整え、再び事務的な顔に戻る。
仕事は、山ほどある。
政治は、待ってくれない。
それでも。
胸の奥にある想いだけは、消さなかった。
――大丈夫。
まだ、間に合う。
そう信じているからこそ、
彼女は今日も、静かに盤面を見つめ続ける。
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