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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
始まりの国
8/19

責任という場所

 陽はまだ高く、街は目覚めきっていなかった。


 窓を開けると、潮の匂いが入り込んでくる。

 連日の酒場の熱も、踊りの余韻も、雑貨店での出来事も。

 まだ身体の奥に残っている。


 机の上に置いた、小さな包み。

 昨夜、何度も視線を落としたそれを、私はそっと開く。


 銀の指輪。


 派手さはない。

 それなのに、触れた瞬間、妙な確かさがある。


「……思記具、か」


 小さく呟いて、指にはめた。


 違和感はない。

 重さも、冷たさも、普通だ。


 ――本当に、これで。


 私は周囲を見渡し、適当なものを探す。

 机の端に置いてあった、街で買った小さな陶器の杯。


 何気なく選んだものだ。

 色も形も、今となっては曖昧だ。


 それを手に取り、意識を向ける。


 ――記憶したい、と思う。


 次の瞬間。


 景色が、変わった。


 杯を選んだ時の店内。

 棚の位置。

 差し込む光。

 自分の手の角度。


 曖昧だったはずの記憶が、

 輪郭を持って、脳内に再生される。


「……すごい」


 声が、思わず漏れた。


 細部まで、正確だ。

 「たぶんこうだった」ではない。

 「確かにこうだった」と言える感覚。


 私は、もう一度指輪を見つめた。


 魔法って、すごい。


 子どもみたいな感想が浮かんで、

 少しだけ、自分に苦笑する。


 仕事が終わった。

 危険もない。

 問題も、今は起きていない。


 ――少しくらい、試してもいい。


ほんの、少しだけ。

 誰にも迷惑をかけない範囲で。

 自分の周りの、どうでもいいことで。


 私は、そっと指輪を見つめた。


 ……だって。


 これ、すごいんだもの。


 北の国の魔法。

 〈思記具〉。


 記憶を、正確に残せる指輪。


「ちょっとだけよ」


 誰に言うでもなく、そう呟いて、

 私はにやりと笑った。


 ――好奇心に、勝てるほど大人じゃない。


 まず、身の回りの些細なことをいくつか記憶した。

 部屋の配置。

 朝の光の角度。

 外から聞こえる足音。


 どれも、確かに残る。


 安心感。

 そして、少しの高揚感に浸る。


 扉が叩かれるまでは。


「失礼します。王国から、至急の伝達です」


 封を切る。

 目を通す。


 短い文面。


 ――即時帰還。


 一拍、遅れて鼓動が強くなる。


「……は?」


 意味は、分かる。

 でも、理由が書いていない。


 視察は問題なく終わった。

 交渉もまとまっている。

 予定されていた日程より、早すぎる。


 嫌な予感が、背中をなぞった。


 *


 王都に着くと、私はそのまま宰務局へ向かった。

 寄り道は、許されていない。


 アデル・グランハルトの執務室。


 扉をノックするより先に、声がかかる。


「入れ」


 短く、重い声。


 扉を閉めると、空気が一段沈んだ。


 アデルは書類から目を上げ、

 一瞬だけ、私の顔を見てから言った。


「……訴えが出ている」


 その一言で、すべてが繋がった。


 作業場。

 木箱。

 怪我をした職人。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


「城下町の外れで起きた事故についてだ。

 関係者として、君の名が挙がっている」


 淡々とした口調。

 だが、視線は鋭い。


「君が“何かをした”と主張しているわけじゃない」

「だが――」


 アデルは、そこで言葉を切った。


「国の人間が、現場にいた」

「結果として、被害が出た」


 十分だ。

 それだけで、話は大きくなる。


 私は、唇を噛んだ。


「……私の責任です」


 即答だった。


 言い逃れは、できない。

 する気も、ない。


 アデルは、少しだけ目を細めた。


「……そうか」


 溜息ひとつ。


「ここから先は、判断を誤るな」


 *


 夜、リラはルシアの店を訪れた。


 閉店後の《Líren》は、昼間とは別の顔をしている。

 灯りは落とされ、香りだけが残っていた。

 焼き菓子と、少し冷めた紅茶の匂い。


 ルシアは、何も聞かずに席を用意した。

 向かい合って座り、リラの前にカップを置く。


「……おかえり」


「ただいま」


 それだけ。


 しばらく、言葉はなかった。

 リラはカップに触れたまま、湯気の立たない表面を見つめていた。


「ねえ、ルシア」


「うん」


「……ちょっと、面倒なことになってる」


 言葉を選びながら、話す。

 南での出来事。

 木箱の事故。

 怪我をした職人。

 そして――訴え。


 能力の話は、しなかった。

 できなかった、というより、言葉にできなかった。


 ルシアは遮らない。

 相槌も最小限で、ただ聞いている。


「国に呼び戻されて、さ」


 リラは、少し自嘲気味に笑った。


「“慎重さが足りない”って。

 ……まあ、そうよね」


 ルシアは、ようやくカップを持ち上げた。


「リラ」


「なに?」


「何か、起きてるでしょ」


 断定ではない。

 でも、逃げ道もない言い方だった。


 リラは、目を伏せる。


「……うん」


「危ないこと?」


「……分からない」


 それが、正直な答えだった。


 ルシアは、少しだけ考えてから言った。


「なら、余計に大事な時だね」


 リラは顔を上げる。


「大事?」


「そう」


 ルシアは静かに続けた。


「怒られたんでしょ」


「……うん」


「それで終わりにしちゃ、だめ」


 ルシアの視線は、まっすぐだった。


「信頼ってね、失うのは一瞬だけど、

 取り戻すのは、行動しかない」


 リラは、唇を噛んだ。


「でも……どうすればいいのか」


「簡単だよ」


 ルシアは、淡々と言う。


「逃げないこと、

 誤魔化さないこと」


「……」


「自分がやったことから、目を逸らさないこと」


 一つずつ、積み上げるように。


「それしかない」


 しばらくして、リラは小さく息を吐いた。


「……怖い」


「うん」


 即答だった。


「怖いと思うなら、ちゃんと向き合ってる証拠」


 ルシアは、柔らかく微笑んだ。


「大丈夫。

 リラは、そういう時に一番強い」


「……買いかぶりすぎ」


「違うよ」


 ルシアは、はっきりと言った。


「私は、ずっと見てる」


 リラは、目を閉じた。


 胸の奥に、静かな熱が灯る。


 逃げない。

 誤魔化さない。

 自分のしたことを、背負う。


 それが、信頼を取り戻す唯一の道。


「……ありがとう、ルシア」


「どういたしまして」


 ルシアは立ち上がり、後片付けを始めた。


「明日なんでしょ?」


「うん」


「じゃあ、今日は早く寝ないとね」


「……うん」


 軽く言われたその一言が、

 不思議と、背中を押してくれた。


 リラは立ち上がり、扉へ向かう。


 振り返ると、いつも通りの顔がそこにあった。


「リラ」


「なに?」


 ルシアは、少しだけ間を置いてから言った。


「……私は、変わらないよ」


 それだけ。


 リラは、笑った。


「うん」


 返答はさっきより少しだけ、強かった。


 *


 場所は、城下町の広場だった。


 普段は市が立つ場所。

 今日は簡易的な柵が設けられ、その内側に机と椅子が並べられている。


 即席だが、形式は整っていた。


 ――これは、裁きだ。


 そう意識させるには、十分すぎるほどに。


 周囲には民衆が集まっていた。

 野次馬もいれば、噂を確かめに来た者もいる。

 好奇と不安が混じった視線が、空気を重くしている。


 ざわめき。

 囁き声。

 誰かの咳。


 その中心に、リラは立っていた。


 対面するのは、怪我を負った職人。

 足首の包帯はもう無い。


 机の後ろには、宰務局から派遣された役人たちが座る。

 書類を整え、形式的な確認を進めていく。


「本件は、城下町外れにおいて発生した事故について――」


 淡々とした声。

 感情はない。

 事実だけを拾い上げる調子。


 名前、日時、場所、被害内容。


 ひとつずつ、確認されていく。


 そのたびに、リラの胸は静かに締め付けられた。


 逃げ場はない。

 誤魔化す余地もない。


「……では」


 役人が視線を上げる。


「当事者であるリラ・ヴェルノア殿、何か申し開きはありますか」


 広場が、しんと静まる。


 民衆の視線が、一斉に集まった。


 リラは一歩前に出る。

 息を吸う。


 右の掌が、わずかに熱を持った気がした。


 木箱の角で切った傷は、もう治っている。

 それでも、まるで針で触れられたみたいに、少しだけ痛む。


 ——思い出すためじゃない。

 忘れないためだ。


 私は、その痛みごと抱えて、頭を下げた。


「――私の判断で、あの場に立ち入りました」


 声が震える。


「結果として、貴方に怪我を負わせてしまいました」

「どんな理由があろうと、それは事実です」


 顔を上げる。


 職人を、まっすぐに見る。


「本当に、申し訳ありません」


 言い訳はしない。

 能力の話もしない。


 助けた、という言葉すら、使わない。


「誤魔化すつもりはありません」

「罰があるなら、受けます」


 ざわめきが広がった。


「……国の人間が」

「頭を下げたぞ」

「言い訳しないのか」


 職人は、しばらく黙っていた。


 周囲の声を聞き、

 役人の視線を感じ、

 それでも、最後はリラを見る。


「……正直に言う」


 低い声。


「助けられたと思ってる」

「それは、嘘じゃねぇ」


 広場が、さらに静まる。


「でも、怪我をしたのも事実だ」

「仕事も止まった」

「家族にも、迷惑をかけた」


 拳を握りしめてから、ゆっくりと開く。


「だから、ずっと迷ってた」


 そして、息を吐いた。


「……だがな」


 リラを見る。


「ここまで言われて、突き返すほど、俺は立派じゃねぇ」


 周囲がざわつく。


「許す」

「今回のことは、これで終わりにする」


 一瞬、空気が止まった。


 役人が慌てて確認を入れる。


「それは、正式な意思として――」


「ああ」

「書類でも何でも、必要なら書くさ」


 職人は、はっきりと頷いた。


その仕草を確認してから、記録官が一歩前へ出る。


「では――本件について」


 乾いた声が、広場に響いた。


「被申立人リラ・ヴェルノアによる謝罪、および  損害補償の意思を確認。

 被申立人は、事故の原因が自身の判断にあっ たことを認め、

 その責任を回避する意図がないことを明言しました」


 羽根ペンが紙を走る音。

 淡々と、容赦なく。


「また、被申立人は職人本人に対し、

 直接的な圧力・誘導・利益供与を行っていないことを、ここに記録します」


 職人の名が読み上げられる。


「申立人は、和解を受諾。

 これ以上の訴追を求めない意思を示しました」


 ざわめきが、広場を走った。


 民衆は、誰もが言葉を飲み込んでいる。


 ただ、事実が、ひとつずつ積み上げられていく。


「よって本件は――」


 記録官が一度、言葉を切る。


「王国法第七条に基づき、

 過失事故として処理。

 補償契約をもって、ここに終結とします」


 判決、というよりも。

 処理、という言葉が、ひどくこの場に似合っていた。


 最後に、封蝋が押される。


 赤い蝋が、ゆっくりと紙の上で広がり、

 冷えて、固まる。


 それで終わりだった。


 広場に集まっていた人々は、

 ひとり、またひとりと、静かに散っていく。


 リラは再度、深く頭を下げた。


 職人は、それを受け止め、

 何も言わずに踵を返した。


 背中が、遠ざかっていく。


 それを見送ってから、ようやくリラは顔を上げた。


 その視線の先――

 広場の端、日陰の中に。


 男がいた。


 上質な外套。

 整えられた姿勢。

 場の中心に立つことはなく、

 誰とも言葉を交わさない。


 だが、すべてを見ていた。


 裁きも、謝罪も、

 民衆の反応も。


 男は、静かに口角を上げる。


 ほんの一瞬。

 誰にも気づかれないほどの変化。


「……なるほど」


 小さく、鼻を鳴らす癖。


 次の瞬間には、もう表情は消えていた。


 彼は、何も書き残さない。

 何も指示しない。


 だが。


 この場で得た情報は、

 確実に、彼の中に積み上がっている。


 ――人は、謝罪で終わる。

 だが、噂は終わらない。


 エリオ・カーディスは、

 騒ぎの終わりを見届けると、静かに背を向けた。

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