責任という場所
裁きの時間です。
過ちを犯した時の行動は、その後の生活に大きく影響します。
だからこそ、彼女は。
陽はまだ高く、街は目覚めきっていなかった。
窓を開けると、潮の匂いが入り込んでくる。
連日の酒場の熱も、踊りの余韻も、雑貨店での出来事も。
まだ身体の奥に残っている。
机の上に置いた、小さな包み。
昨夜、何度も視線を落としたそれを、私はそっと開く。
銀の指輪。
派手さはない。
それなのに、触れた瞬間、妙な確かさがある。
「……思記具、か」
小さく呟いて、指にはめた。
違和感はない。
重さも、冷たさも、普通だ。
──本当に、これで。
私は周囲を見渡し、適当なものを探す。
机の端に置いてあった、街で買った小さな陶器の杯。
何気なく選んだものだ。
色も形も、今となっては曖昧だ。
それを手に取り、意識を向ける。
──記憶したい、と思う。
次の瞬間。
景色が、変わった。
杯を選んだ時の店内。
棚の位置。
差し込む光。
自分の手の角度。
曖昧だったはずの記憶が、
輪郭を持って、脳内に再生される。
「……すごい」
声が、思わず漏れた。
細部まで、正確だ。
「たぶんこうだった」ではない。
「確かにこうだった」と言える感覚。
私は、もう一度指輪を見つめた。
魔法って、すごい。
子どもみたいな感想が浮かんで、
少しだけ、自分に苦笑する。
仕事が終わった。
危険もない。
問題も、今は起きていない。
──少しくらい、試してもいい。
ほんの、少しだけ。
誰にも迷惑をかけない範囲で。
自分の周りの、どうでもいいことで。
私は、そっと指輪を見つめた。
……だって。
これ、すごいんだもの。
北の国の魔法。
〈思記具〉。
記憶を、正確に残せる指輪。
「ちょっとだけよ」
誰に言うでもなく、そう呟いて、
私はにやりと笑った。
──好奇心に、勝てるほど大人じゃない。
まず、身の回りの些細なことをいくつか記憶した。
部屋の配置。
朝の光の角度。
外から聞こえる足音。
どれも、確かに残る。
安心感。
そして、少しの高揚感に浸る。
それも、扉が叩かれるまでのことだった。
「失礼します。王国から、至急の伝達です」
封を切る。
目を通す。
短い文面。
──即時帰還。
一拍、遅れて鼓動が強くなる。
「……え?」
意味は、分かる。
でも、理由が書いていない。
視察は問題なく終わった。
交渉もまとまっている。
予定されていた日程より、早すぎる。
嫌な予感が、背中をなぞった。
*
王都に着くと、私はそのまま宰務局へ向かった。
寄り道は、許されていない。
アデル・グランハルトの執務室。
扉をノックするより先に、声がかかる。
「入れ」
短く、重い声。
扉を閉めると、空気が一段沈んだ。
アデルは書類から目を上げ、
一瞬だけ、私の顔を見てから言った。
「……訴えが出ている」
その一言で、すべてが繋がった。
作業場。
木箱。
怪我をした職人。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「城下町の外れで起きた事故についてだ。
関係者として、君の名が挙がっている」
淡々とした口調。
だが、視線は鋭い。
「君が“何かをした”と主張しているわけじゃない」
「だが──」
アデルは、そこで言葉を切った。
「国の人間が、現場にいた」
「結果として、被害が出た」
十分だ。
それだけで、話は大きくなる。
私は、唇を噛んだ。
「……私の責任です」
即答だった。
言い逃れは、できない。
する気も、ない。
アデルは、少しだけ目を細めた。
「……そうか」
溜息をひとつだけ。
「ここから先は、判断を誤るな」
*
夜、リラはルシアの店を訪れた。
閉店後の《Líren》は、昼間とは別の顔をしている。
灯りは落とされ、香りだけが残っていた。
焼き菓子と、少し冷めた紅茶の匂い。
ルシアは、何も聞かずに席を用意した。
向かい合って座り、リラの前にカップを置く。
「……おかえり」
「ただいま」
それだけ。
しばらく、言葉はなかった。
リラはカップに触れたまま、湯気の立たない表面を見つめていた。
「ねえ、ルシア」
「うん」
「……ちょっと、面倒なことになってる」
言葉を選びながら、話す。
南での出来事。
木箱の事故。
怪我をした職人。
そして──訴え。
能力の話は、しなかった。
できなかった、というより、言葉にできなかった。
ルシアは遮らない。
相槌も最小限で、ただ聞いている。
「国に呼び戻されて、さ」
リラは、少し自嘲気味に笑った。
「“慎重さが足りない”って。
……まあ、そうよね」
ルシアは、ようやくカップを持ち上げた。
「リラ」
「なに?」
「何か、起きてるでしょ」
断定ではない。
でも、逃げ道もない言い方だった。
リラは、目を伏せる。
「……うん」
「危ないこと?」
「……分からない」
それが、正直な答えだった。
ルシアは、少しだけ考えてから言った。
「なら、余計に大事な時だね」
リラは顔を上げる。
「大事?」
「そう」
ルシアは静かに続けた。
「怒られたんでしょ」
「……うん」
「それで終わりにしちゃ、だめ」
ルシアの視線は、まっすぐだった。
「信頼ってね、失うのは一瞬だけど、
取り戻すのは、行動しかない」
リラは、唇を噛んだ。
「でも……どうすればいいのか」
「簡単だよ」
ルシアは、淡々と言う。
「逃げないこと、
誤魔化さないこと」
「……」
「自分がやったことから、目を逸らさないこと」
一つずつ、積み上げるように。
「それしかない」
しばらくして、リラは小さく息を吐いた。
「……怖い」
「うん」
即答だった。
「怖いと思うなら、ちゃんと向き合ってる証拠」
ルシアは、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫。
リラは、そういう時に一番強い」
「……買いかぶりすぎ」
「違うよ」
ルシアは、はっきりと言った。
「私は、ずっと見てる」
リラは、目を閉じた。
胸の奥に、静かな熱が灯る。
逃げない。
誤魔化さない。
自分のしたことを、背負う。
それが、信頼を取り戻す唯一の道。
「……ありがとう、ルシア」
「どういたしまして」
ルシアは立ち上がり、後片付けを始めた。
「明日なんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、今日は早く寝ないとね」
「……うん」
軽く言われたその一言が、
不思議と、背中を押してくれた。
リラは立ち上がり、扉へ向かう。
振り返ると、いつも通りの顔がそこにあった。
「リラ」
「なに?」
ルシアは、少しだけ間を置いてから言った。
「……私は、変わらないよ」
それだけ。
リラは、笑った。
「うん」
返答はさっきより少しだけ、強かった。
*
場所は、城下町の広場だった。
普段は市が立つ場所。
今日は簡易的な柵が設けられ、その内側に机と椅子が並べられている。
即席だが、形式は整っていた。
──これは、裁きだ。
そう意識させるには、十分すぎるほどに。
周囲には民衆が集まっていた。
野次馬もいれば、噂を確かめに来た者もいる。
好奇と不安が混じった視線が、空気を重くしている。
ざわめき。
囁き声。
誰かの咳の音。
その中心に、リラは立っていた。
対面するのは、怪我を負った職人。
足首の包帯はもう無い。
机の後ろには、宰務局から派遣された役人たちが座る。
書類を整え、形式的な確認を進めていく。
「本件は、城下町外れにおいて発生した事故について──」
淡々とした声。
感情はない。
事実だけを読み上げていく。
名前、日時、場所、被害内容。
ひとつずつ、確認されていく。
そのたびに、リラの胸は静かに締め付けられた。
逃げ場はない。
誤魔化す余地もない。
「……では」
役人が視線を上げる。
「当事者であるリラ・ヴェルノア殿、何か申し開きはありますか」
広場が、しんと静まる。
民衆の視線が、一斉に集まった。
リラは一歩前に出る。
息を吸う。
右の掌が、わずかに熱を持った気がした。
木箱の角で切った傷は、もう治っている。
それでも、まるで針で触れられたみたいに、少しだけ痛む。
──思い出すためじゃない。
忘れないためだ。
私は、その痛みごと抱えて、頭を下げた。
「……私の判断で、あの場に立ち入りました」
声が震える。
「結果として、貴方に怪我を負わせてしまいました」
「どんな理由があろうと、それは事実です」
顔を上げる。
職人を、まっすぐに見る。
「本当に、申し訳ありません」
言い訳はしない。
能力の話もしない。
助けた、という言葉すら、使わない。
「誤魔化すつもりはありません。
罰があるなら、受けます」
ざわめきが広がった。
「……国の人間が」
「頭を下げたぞ」
「言い訳しないのか」
職人は、しばらく黙っていた。
周囲の声を聞き、
役人の視線を感じ、
それでも、最後はリラを見る。
「……正直に言う」
低い声。
「助けられたと思ってる」
「……それは、嘘じゃねぇ」
広場が、さらに静まる。
「でも、怪我をしたのも事実だ。
仕事も止まった。家族にも、迷惑をかけた」
拳を握りしめてから、ゆっくりと開く。
「だから、ずっと迷ってた」
そして、息を吐いた。
「……だがな」
リラを見る。
「ここまで言われて突き返すほど、俺は立派じゃねぇ」
周囲がざわつく。
「許す。
今回のことは、これで終わりにする」
一瞬、空気が止まった。
役人が慌てて確認を入れる。
「それは、正式な意思として──」
「ああ」
「書類でも何でも、必要なら書くさ」
職人は、はっきりと頷いた。
その仕草を確認してから、記録官が一歩前へ出る。
「では──本件について」
乾いた声が、広場に響いた。
「被申立人リラ・ヴェルノアによる謝罪、および損害補償の意思を確認。
被申立人は、事故の原因が自身の判断にあったことを認め、
その責任を回避する意図がないことを明言しました」
羽根ペンが紙を走る音。
淡々と、容赦なく。
「また、被申立人は職人本人に対し、
直接的な圧力・誘導・利益供与を行っていないことを、ここに記録します」
職人の名が読み上げられる。
「申立人は、和解を受諾。
これ以上の損害補償責任を求めない意思を示しました」
ざわめきが、広場を走った。
民衆は、誰もが言葉を飲み込んでいる。
ただ事実が、ひとつずつ積み上げられていく。
「よって本件は──」
記録官が一度、言葉を切る。
「王国法第七条に基づき、
過失事故として処理」
「補償契約をもって、ここに終結とします」
判決というよりも。
”処理”という言葉が、ひどくこの場に似合っていた。
最後に、封蝋が押される。
赤い蝋がゆっくりと紙の上で広がり、
冷えて、固まる。
それで終わりだった。
広場に集まっていた人々は、
ひとり、またひとりと、静かに散っていく。
リラは再度、深く頭を下げた。
職人は、それを受け止め、
何も言わずに踵を返した。
背中が、遠ざかっていく。
それを見送ってから、ようやくリラは顔を上げた。
リラのその視線の先──
広場の端、日陰の中に。
男がいた。
上質な身なり。
整えられた姿勢。
場の中心に立つことはなく、
誰とも言葉を交わさない。
だが、すべてを見ていた。
裁きも、謝罪も、
民衆の反応も。
男は、静かに口角を上げる。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないほどの変化。
「……なるほど」
小さく、鼻を鳴らす癖。
次の瞬間には、もう表情は消えていた。
彼は、何も書き残さない。
何も指示しない。
だが。
この場で得た情報は、
確実に、彼の中に積み上がっている。
──人は、謝罪で終わる。
だが、噂は終わらない。
エリオ・カーディスは、
騒ぎの終わりを見届けると、静かに背を向けた。
次回、閑話。
リラの上司、宰務官アデル目線です。




