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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
始まりの国
7/19

南境交易都市《ラグナ》

 街に近づくにつれて、空気が変わっていくのを感じる。


 潮の匂いがする。

 けれど、港町特有の荒さはない。


 石畳はよく整えられ、建物の壁には南の国特有の色彩が残っている。

 白い漆喰に、淡い青や赤。

 古い装飾と新しい看板が、違和感なく並んでいた。


 ――南境交易都市ラグナ。


 ノクスヴァイ王国の南端に近い交易都市。

 南方諸邦ルミナスとの文化が、ゆっくりと混ざり合った場所だ。


 人々の歩調は、城下町よりも少し緩やかだった。

 急がない。

 声が大きい。

 笑う頻度が多い。


 街そのものが、呼吸しているみたいだと思った。


 私は外套の前を留め、周囲を見渡す。

 視線の先で、香辛料を扱う露店があり、魚を焼く匂いが立ち上っていた。

 遠くから、弦楽器の音が微かに聞こえる。


 ――ああ、南に来たんだ。


 そう実感する。


 ここに来たのは、視察のためだ。

 名目は単純。

 実態は、そうでもない。


 凶作の影響は、南にも及んでいる。

 特に交易量の調整で、いくつかの街が行き詰まりを見せていた。


 ラグナも、その一つだった。


 南の国との交渉が、うまく噛み合っていない。

 条件は悪くない。

 だが、互いに一歩を踏み出せずにいる。


 だから、呼ばれた。


 私は、王国宰務局の外交官補佐。

 ここでは肩書きよりも、「話を聞ける人間」であることが求められている。


 滞在は、およそ一か月。

 前半の二週間が仕事。

 残りは予備日――何も起きなければ、自由に使える時間だ。


 そんな説明を受けながら、私は役人たちと歩いた。


 会議は、拍子抜けするほど穏やかだった。


 声を荒げる者はいない。

 条件を突きつける者もいない。


 ただ、皆が困っている。

 それだけが、はっきりしている。


 私は一歩引いた立場で、話を聞いた。

 数字を整理し、言葉を整え、相手の不安を言語化する。


 解決策は、特別なものじゃない。

 小さな譲歩と、小さな保証。

 その順番を、間違えないこと。


 会議が終わる頃には、場の空気が少しだけ軽くなっていた。


「助かりました」


 そう言われても、私はただ頷くだけだった。


 ここでは、目立つ必要はない。

 うまく回れば、それでいい。


 午後、街の案内を受ける。


 港へ続く道。

 市場。

 古い礼拝堂を改装した倉庫。


 説明を聞きながらも、私は視線を走らせていた。


 南の文化は、感情が外に出る。

 踊り、歌い、笑う。


 ノクスヴァイとは、正反対だ。


 でも、不思議と嫌じゃない。

 むしろ、落ち着く。


 夕方、案内の最後に酒場へ通された。


 天井は高く、梁がむき出しになっている。

 壁には南の布が飾られ、灯りは柔らかい橙色。


 香辛料の効いた酒の匂い。

 低く流れる音楽。


 客たちは皆、距離が近い。

 肩が触れ合っても、誰も気にしない。


 私は、自然と息を吐いていた。


 ――ここ、好きかも。


 酒場を出ると、夜風が心地よかった。

 潮の匂いに、昼間とは違う甘さが混じる。


 石畳を歩きながら、ふと思う。


 予備日が、あったはずだ。


 もし、時間が許せば。


 ――また、来よう。


 ひとりで。

 誰の案内もなく。


 そんなことを考えながら、宿へ向かった。


 今はただ、ラグナの夜に身を委ねるだけでよかった。


 *


 それからの日々は、慌ただしくも規則正しく過ぎていった。


 交易量の調整。

 街道使用料の再交渉。

 南の文化圏特有の、曖昧な言葉の裏にある本音を拾い上げる作業。


 私は前に出すぎず、しかし引きすぎない。

 誰かの功績を奪うことも、無理にまとめ上げることもしない。


 必要な時に、必要な一言だけを伝える。


 二週間後。


 最後の調印が終わり、椅子から立ち上がる。

 肩から、何かがすっと抜け落ちた。


「……終わった」


 声に出したのは、それだけだった。


 宿へ戻る道すがら、街の空気が違って感じられた。

 同じ通り、同じ石畳。

 なのに、音が軽い。


 仕事が終わった。

 それだけで、世界はこんなにも違って見える。


 翌日からは、予備日だ。

 名目上は待機。

 実際は、自由時間に近い。


 二週間の仕事を終えた夜だった。


 肩に乗っていたものが、ふっと軽くなる。

 街の灯りが、いつもより柔らかく見えた。


 ――明日は、少しだけ羽目を外してもいい。


 そう自分に許可を出して、私は深い眠りに落ちた。


 翌日。

 

 疲れと開放感からか、目を覚ましたのは日も沈む時間帯だった。


 ベッドから起き上がり歯を磨いていると、自分が酷く空腹であることに気がついた。

 

 外套を羽織り、街へ繰り出してみる。

 足は自然と、あの酒場へ向かっていた。


 中は相変わらず賑やかだった。

 南の旋律に、北の拍子が混ざる。

 誰かが笑い、誰かが杯を鳴らす。


 私は端の席に腰を下ろし、店主の勧めるカクテルを注文した。

 色の淡い酒だ。

 甘くて、少し酸味がある。

 喉を通るたび、身体の奥がゆるんでいく。


 音楽が変わったのは、その時だった。


 軽やかな弦の音。

 それに合わせて、自然と立ち上がる人影が増える。


 見ているだけで、足が勝手に動きそうになる。


「踊らないんですか?」


 穏やかな声だった。


 顔を上げると、人当たりの良い笑顔を浮かべた男が立っていた。

 背は高いが、威圧感はない。

 整った服装だが、どこか旅人の空気がある。


「君みたいな可愛い人が、座ってるだけなんて勿体ない」


 迷いのない、まっすぐな言葉。


 一瞬、言葉に詰まった。


「……突然すぎない?」


「事実なので」


 困ったように笑うその表情が、ずるい。


 少しだけ躊躇してから、私は立ち上がった。


「一曲だけよ」


「十分です」


 手を取られる。

 指が、驚くほど綺麗だった。


 踊りは、思っていたよりずっと楽しかった。

 決まった型はない。

 ただ、音に身を委ねるだけ。


 最初はぎこちなかった足取りも、

 気づけば自然と合っていた。


 曲が終わる頃には、息が少し弾んでいた。


 音楽が一段落し、酒場に少しだけ静けさが戻った頃。

 二人はカウンター近くの席に並んで座っていた。


「上手でした」


「……慣れてないだけよ」


 リラは笑って答える。

 頬にまだ熱が残っているのを、自分でも感じていた。


「慣れてなくて、あれなら十分です」


 また、さらっと言う。


「名前、聞いてもいいですか」


「リラよ」


「シグです。シグ・レイグラード」


 響きが、ノクスヴァイとは違う。


「北の方?」


「ええ。少し遠い国から」


「ここには、旅で?」


「仕事も、半分」


 曖昧に笑う。


 短い沈黙。

 その間にも、二人の距離は自然と近づいていた。


 話は、自然と弾んだ。

 国の違い。

 考え方。

 価値観。


 不思議と、言葉に詰まらない。


 ふと、彼が思考を巡らす時に、指輪をなぞる癖に気づいた。


「……シグ」


 名前を呼ぶと、彼が顔を上げた。


「貴方の指、綺麗だから目に入る」


 一瞬だけ、驚いた顔。

 すぐに、柔らかく笑った。


「光栄です、リラ。職業柄、手は大事にしていますし……それに、そう言ってもらえるのは、素直に嬉しい」


 飾らない言葉だった。

 だからこそ、空気が揺れた。


 シグは視線を外し、少し考えてから言う。


「……ところで」


「うん?」


「明日の予定は?」


 リラは一瞬だけ考え、首を横に振った。


「特には。

 予備日だから、自由よ。どうして?」


 その答えを聞いて、シグは小さく頷いた。


「それなら――

 よろしければ、明日もご一緒しませんか。

 この街で、リラに紹介したい場所があるんです」


 押しつけがましさはない。

 断られても受け止める、そんな余白を残した誘い方だった。


「……面白い場所?」


「ええ。きっと、リラは気に入ってくれると思いま  す」


 少しだけ自信のある声。


 リラは、迷わなかった。


「いいわ。行きましょう」


 *


 翌日、昼過ぎ。


 約束の場所で合流すると、シグは昨日と変わらない穏やかな表情で手を振った。


 簡単な昼食を取ることにした。

 屋台の軽い料理だが、香辛料の使い方が南らしい。


「こういう味、嫌いじゃないでしょう」


「ええ。仕事中は避けるけど、今日は別」


 気取らない食事。

 歩きながら、他愛ない話。


 街の喧騒が少しずつ遠ざかり、道が細くなっていく。


「ここです」


 シグが立ち止まったのは、街の奥まった一角だった。


 目立たない雑貨屋。

 看板も控えめで、通り過ぎてしまいそうな店。


 中に入った瞬間、空気が違う。


 ――静か。


 整然と並ぶ品々。

 どれも、派手さはない。


 静かで、澄んでいて、妙に落ち着く。

 視線が、自然と奥の棚へ引き寄せられる。


 そこに並ぶ、小さな品々。


 派手さはない。

 だが、作りが異様に良い。


 中でも——。


 リラの目は、ひとつの指輪から離れなくなっていた。


 細く、控えめな銀。

 装飾はほとんどない。


 なのに。


 胸の奥が、ざわつく。


「……これ」


「分かりますか」


 シグが、穏やかに言う。


「北の国の、魔導具。

 その中でも、こういった物は思記具しきぐと呼ぶんです」


「魔法を使えない人間が、

 自分の記憶を正確に留めるための道具です」


 記憶を、留める。


 曖昧になりがちな記憶を、

 そのまま、確かに。


 ――欲しい。


 理屈より先に、そう思っていた。


「高いですよ」


「……分かってる」


 値札を見て、思わず息を呑んだ。


 ……高い。


 宝石がついているわけじゃない。

 装飾もない。

 ただの銀の指輪にしか見えない。


 それなのに、この値段。


 南の街で、家賃なら何年分。

 仕入れなら、店が一つ回る額だ。


 ――普及させる気が、最初からない。


 そう直感した。


 もしこれが、誰でも手にできるものだったら。

 記憶を正確に留められる道具が、

 魔法を使えない人間にも行き渡ったら。


 それは、武器になる。


 争いの場でも、交渉の席でも。

 言葉の重みも、責任の所在も――変わる。


 北の国は、それを分かっている。


 だからこそ、安くしない。

 簡単に持たせない。

 欲しいと願い、価値を理解した者だけが、手にする。


 ……そういう類の道具だ。


 それでも。


 それでもなお、視線が離れなかった。


「それでも?」


「…うん」


 私は、少しの時間迷ってから頷いた。


「これは、僕が」


「駄目よ」


 即座に否定する。


「高いし、理由がないわ」


「理由ならあります」


 静かで、はっきりした声。


「君に会えたことに、感謝している」


 言い切る。

 譲らない。


 結局、私は受け取った。


 ――ずるい。


 別れ際。


「明日、この街を発ちます」


「……そう」


「また会えますよ」


 疑いのない声音。


 私は、小さく笑った。


「……気が向いたら」


 彼は、それで十分だと言うように頷いた。


 *


 それは、彼女が南に滞在していた一か月のあいだの出来事だった。


 城下町から少し離れた場所にある、古い応接室。


 窓は閉め切られ、昼だというのに灯りが落とされていた。


「……それで?」


 低い声が、室内に落ちる。


 向かいに座る男は、落ち着かない様子で椅子に浅く腰掛けていた。

 足首には、まだ包帯が巻かれている。


「そこに、国の人間がいたそうですね」


 男は急かさない。

 ただ、相手の反応を待つ。


「……助けてもらった」


 ようやく、そう答えが返る。


「感謝している」


「それは結構」


 男は頷いた。


「しかし、少し妙な話だと思いませんか?」


 声は低い。

 だが、言葉は丁寧だ。


「事故の前に、そこにいたこと」

「事故の最中に、動いたこと」

「結果として、命は助かったこと」


 ひとつひとつを、並べるだけ。


「疑う必要はありません。

 ただ――」


 男は、一歩だけ距離を詰めた。


「事実を、事実として残すことは大切です」


 室内の空気が、わずかに張りつめる。


 上質な服。

 整えられた身なり。

 そこから発せられる、柔らかな口調。


 だが、その視線は鋭い。


「運が悪かった。

 それだけだ」


「本当に?」


 男は、責めるでもなく、疑うでもなく問い返した。

 指先で机を軽く叩き、思案する素振りを見せて、言葉を紡ぐ。


「もし、あれが偶然でなかったとしたら。

 もし、誰かの判断で起きたことだったとしたら」


「それは、個人の問題ではない。

 国の問題です」 


「それは……」


「分からない」


 男の言葉を遮らず、しかし導くように続ける。


「分からない、というのは――不安になりますよね」


 柔らかい声。

 理解を示す言葉。


「それを確かめるのは、あなたじゃない」

「正しい場所で、正しい手順で、判断されるべきです」


 沈黙。


 しばらくして、男は立ち上がった。


「考えておいて頂けますか」


そう言って、書類を一枚、静かに机の上へ置いた。


「あなたが、感じた違和感を」

「そのまま、伝えるだけでいい」


 男は、書類を見つめた。


 震える手。

 迷い。


 感謝している。

 助けられた。


 それでも――。


 あの瞬間の違和感が、消えない。


「……少し、考える」


 絞り出すような声。


 男は、穏やかに微笑んだ。


「もちろんです」


 立ち上がり、扉へ向かう。


「急ぐ話ではありません」

「ですが……噂というものは、放っておくと、勝手に形を持つ」


 扉の前で、振り返る。


「真実かどうかは別として、話は歩き出します。

 貴方が悪いと言っているわけではありません。

 ただ――」


 一瞬、口元が歪んだ。


「正しいかどうかは、別の話だ」

 

 扉が閉まる。


 応接室に残された男は、書類を前に、動けずにいた。


 助けられた。

 感謝している。


 ――それでも。


 暗がりの中で、男は外套を整えた。


 その横顔に、灯りが差す。


 鼻を鳴らす、癖。


「フン……」


 男の名は、

 エリオ・カーディス。


 彼の視線は、すでに“次”を向いていた。

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