南境交易都市《ラグナ》
街に近づくにつれて、空気が変わっていくのを感じる。
潮の匂いがする。
けれど、港町特有の荒さはない。
石畳はよく整えられ、建物の壁には南の国特有の色彩が残っている。
白い漆喰に、淡い青や赤。
古い装飾と新しい看板が、違和感なく並んでいた。
――南境交易都市ラグナ。
ノクスヴァイ王国の南端に近い交易都市。
南方諸邦ルミナスとの文化が、ゆっくりと混ざり合った場所だ。
人々の歩調は、城下町よりも少し緩やかだった。
急がない。
声が大きい。
笑う頻度が多い。
街そのものが、呼吸しているみたいだと思った。
私は外套の前を留め、周囲を見渡す。
視線の先で、香辛料を扱う露店があり、魚を焼く匂いが立ち上っていた。
遠くから、弦楽器の音が微かに聞こえる。
――ああ、南に来たんだ。
そう実感する。
ここに来たのは、視察のためだ。
名目は単純。
実態は、そうでもない。
凶作の影響は、南にも及んでいる。
特に交易量の調整で、いくつかの街が行き詰まりを見せていた。
ラグナも、その一つだった。
南の国との交渉が、うまく噛み合っていない。
条件は悪くない。
だが、互いに一歩を踏み出せずにいる。
だから、呼ばれた。
私は、王国宰務局の外交官補佐。
ここでは肩書きよりも、「話を聞ける人間」であることが求められている。
滞在は、およそ一か月。
前半の二週間が仕事。
残りは予備日――何も起きなければ、自由に使える時間だ。
そんな説明を受けながら、私は役人たちと歩いた。
会議は、拍子抜けするほど穏やかだった。
声を荒げる者はいない。
条件を突きつける者もいない。
ただ、皆が困っている。
それだけが、はっきりしている。
私は一歩引いた立場で、話を聞いた。
数字を整理し、言葉を整え、相手の不安を言語化する。
解決策は、特別なものじゃない。
小さな譲歩と、小さな保証。
その順番を、間違えないこと。
会議が終わる頃には、場の空気が少しだけ軽くなっていた。
「助かりました」
そう言われても、私はただ頷くだけだった。
ここでは、目立つ必要はない。
うまく回れば、それでいい。
午後、街の案内を受ける。
港へ続く道。
市場。
古い礼拝堂を改装した倉庫。
説明を聞きながらも、私は視線を走らせていた。
南の文化は、感情が外に出る。
踊り、歌い、笑う。
ノクスヴァイとは、正反対だ。
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ、落ち着く。
夕方、案内の最後に酒場へ通された。
天井は高く、梁がむき出しになっている。
壁には南の布が飾られ、灯りは柔らかい橙色。
香辛料の効いた酒の匂い。
低く流れる音楽。
客たちは皆、距離が近い。
肩が触れ合っても、誰も気にしない。
私は、自然と息を吐いていた。
――ここ、好きかも。
酒場を出ると、夜風が心地よかった。
潮の匂いに、昼間とは違う甘さが混じる。
石畳を歩きながら、ふと思う。
予備日が、あったはずだ。
もし、時間が許せば。
――また、来よう。
ひとりで。
誰の案内もなく。
そんなことを考えながら、宿へ向かった。
今はただ、ラグナの夜に身を委ねるだけでよかった。
*
それからの日々は、慌ただしくも規則正しく過ぎていった。
交易量の調整。
街道使用料の再交渉。
南の文化圏特有の、曖昧な言葉の裏にある本音を拾い上げる作業。
私は前に出すぎず、しかし引きすぎない。
誰かの功績を奪うことも、無理にまとめ上げることもしない。
必要な時に、必要な一言だけを伝える。
二週間後。
最後の調印が終わり、椅子から立ち上がる。
肩から、何かがすっと抜け落ちた。
「……終わった」
声に出したのは、それだけだった。
宿へ戻る道すがら、街の空気が違って感じられた。
同じ通り、同じ石畳。
なのに、音が軽い。
仕事が終わった。
それだけで、世界はこんなにも違って見える。
翌日からは、予備日だ。
名目上は待機。
実際は、自由時間に近い。
二週間の仕事を終えた夜だった。
肩に乗っていたものが、ふっと軽くなる。
街の灯りが、いつもより柔らかく見えた。
――明日は、少しだけ羽目を外してもいい。
そう自分に許可を出して、私は深い眠りに落ちた。
翌日。
疲れと開放感からか、目を覚ましたのは日も沈む時間帯だった。
ベッドから起き上がり歯を磨いていると、自分が酷く空腹であることに気がついた。
外套を羽織り、街へ繰り出してみる。
足は自然と、あの酒場へ向かっていた。
中は相変わらず賑やかだった。
南の旋律に、北の拍子が混ざる。
誰かが笑い、誰かが杯を鳴らす。
私は端の席に腰を下ろし、店主の勧めるカクテルを注文した。
色の淡い酒だ。
甘くて、少し酸味がある。
喉を通るたび、身体の奥がゆるんでいく。
音楽が変わったのは、その時だった。
軽やかな弦の音。
それに合わせて、自然と立ち上がる人影が増える。
見ているだけで、足が勝手に動きそうになる。
「踊らないんですか?」
穏やかな声だった。
顔を上げると、人当たりの良い笑顔を浮かべた男が立っていた。
背は高いが、威圧感はない。
整った服装だが、どこか旅人の空気がある。
「君みたいな可愛い人が、座ってるだけなんて勿体ない」
迷いのない、まっすぐな言葉。
一瞬、言葉に詰まった。
「……突然すぎない?」
「事実なので」
困ったように笑うその表情が、ずるい。
少しだけ躊躇してから、私は立ち上がった。
「一曲だけよ」
「十分です」
手を取られる。
指が、驚くほど綺麗だった。
踊りは、思っていたよりずっと楽しかった。
決まった型はない。
ただ、音に身を委ねるだけ。
最初はぎこちなかった足取りも、
気づけば自然と合っていた。
曲が終わる頃には、息が少し弾んでいた。
音楽が一段落し、酒場に少しだけ静けさが戻った頃。
二人はカウンター近くの席に並んで座っていた。
「上手でした」
「……慣れてないだけよ」
リラは笑って答える。
頬にまだ熱が残っているのを、自分でも感じていた。
「慣れてなくて、あれなら十分です」
また、さらっと言う。
「名前、聞いてもいいですか」
「リラよ」
「シグです。シグ・レイグラード」
響きが、ノクスヴァイとは違う。
「北の方?」
「ええ。少し遠い国から」
「ここには、旅で?」
「仕事も、半分」
曖昧に笑う。
短い沈黙。
その間にも、二人の距離は自然と近づいていた。
話は、自然と弾んだ。
国の違い。
考え方。
価値観。
不思議と、言葉に詰まらない。
ふと、彼が思考を巡らす時に、指輪をなぞる癖に気づいた。
「……シグ」
名前を呼ぶと、彼が顔を上げた。
「貴方の指、綺麗だから目に入る」
一瞬だけ、驚いた顔。
すぐに、柔らかく笑った。
「光栄です、リラ。職業柄、手は大事にしていますし……それに、そう言ってもらえるのは、素直に嬉しい」
飾らない言葉だった。
だからこそ、空気が揺れた。
シグは視線を外し、少し考えてから言う。
「……ところで」
「うん?」
「明日の予定は?」
リラは一瞬だけ考え、首を横に振った。
「特には。
予備日だから、自由よ。どうして?」
その答えを聞いて、シグは小さく頷いた。
「それなら――
よろしければ、明日もご一緒しませんか。
この街で、リラに紹介したい場所があるんです」
押しつけがましさはない。
断られても受け止める、そんな余白を残した誘い方だった。
「……面白い場所?」
「ええ。きっと、リラは気に入ってくれると思いま す」
少しだけ自信のある声。
リラは、迷わなかった。
「いいわ。行きましょう」
*
翌日、昼過ぎ。
約束の場所で合流すると、シグは昨日と変わらない穏やかな表情で手を振った。
簡単な昼食を取ることにした。
屋台の軽い料理だが、香辛料の使い方が南らしい。
「こういう味、嫌いじゃないでしょう」
「ええ。仕事中は避けるけど、今日は別」
気取らない食事。
歩きながら、他愛ない話。
街の喧騒が少しずつ遠ざかり、道が細くなっていく。
「ここです」
シグが立ち止まったのは、街の奥まった一角だった。
目立たない雑貨屋。
看板も控えめで、通り過ぎてしまいそうな店。
中に入った瞬間、空気が違う。
――静か。
整然と並ぶ品々。
どれも、派手さはない。
静かで、澄んでいて、妙に落ち着く。
視線が、自然と奥の棚へ引き寄せられる。
そこに並ぶ、小さな品々。
派手さはない。
だが、作りが異様に良い。
中でも——。
リラの目は、ひとつの指輪から離れなくなっていた。
細く、控えめな銀。
装飾はほとんどない。
なのに。
胸の奥が、ざわつく。
「……これ」
「分かりますか」
シグが、穏やかに言う。
「北の国の、魔導具。
その中でも、こういった物は思記具と呼ぶんです」
「魔法を使えない人間が、
自分の記憶を正確に留めるための道具です」
記憶を、留める。
曖昧になりがちな記憶を、
そのまま、確かに。
――欲しい。
理屈より先に、そう思っていた。
「高いですよ」
「……分かってる」
値札を見て、思わず息を呑んだ。
……高い。
宝石がついているわけじゃない。
装飾もない。
ただの銀の指輪にしか見えない。
それなのに、この値段。
南の街で、家賃なら何年分。
仕入れなら、店が一つ回る額だ。
――普及させる気が、最初からない。
そう直感した。
もしこれが、誰でも手にできるものだったら。
記憶を正確に留められる道具が、
魔法を使えない人間にも行き渡ったら。
それは、武器になる。
争いの場でも、交渉の席でも。
言葉の重みも、責任の所在も――変わる。
北の国は、それを分かっている。
だからこそ、安くしない。
簡単に持たせない。
欲しいと願い、価値を理解した者だけが、手にする。
……そういう類の道具だ。
それでも。
それでもなお、視線が離れなかった。
「それでも?」
「…うん」
私は、少しの時間迷ってから頷いた。
「これは、僕が」
「駄目よ」
即座に否定する。
「高いし、理由がないわ」
「理由ならあります」
静かで、はっきりした声。
「君に会えたことに、感謝している」
言い切る。
譲らない。
結局、私は受け取った。
――ずるい。
別れ際。
「明日、この街を発ちます」
「……そう」
「また会えますよ」
疑いのない声音。
私は、小さく笑った。
「……気が向いたら」
彼は、それで十分だと言うように頷いた。
*
それは、彼女が南に滞在していた一か月のあいだの出来事だった。
城下町から少し離れた場所にある、古い応接室。
窓は閉め切られ、昼だというのに灯りが落とされていた。
「……それで?」
低い声が、室内に落ちる。
向かいに座る男は、落ち着かない様子で椅子に浅く腰掛けていた。
足首には、まだ包帯が巻かれている。
「そこに、国の人間がいたそうですね」
男は急かさない。
ただ、相手の反応を待つ。
「……助けてもらった」
ようやく、そう答えが返る。
「感謝している」
「それは結構」
男は頷いた。
「しかし、少し妙な話だと思いませんか?」
声は低い。
だが、言葉は丁寧だ。
「事故の前に、そこにいたこと」
「事故の最中に、動いたこと」
「結果として、命は助かったこと」
ひとつひとつを、並べるだけ。
「疑う必要はありません。
ただ――」
男は、一歩だけ距離を詰めた。
「事実を、事実として残すことは大切です」
室内の空気が、わずかに張りつめる。
上質な服。
整えられた身なり。
そこから発せられる、柔らかな口調。
だが、その視線は鋭い。
「運が悪かった。
それだけだ」
「本当に?」
男は、責めるでもなく、疑うでもなく問い返した。
指先で机を軽く叩き、思案する素振りを見せて、言葉を紡ぐ。
「もし、あれが偶然でなかったとしたら。
もし、誰かの判断で起きたことだったとしたら」
「それは、個人の問題ではない。
国の問題です」
「それは……」
「分からない」
男の言葉を遮らず、しかし導くように続ける。
「分からない、というのは――不安になりますよね」
柔らかい声。
理解を示す言葉。
「それを確かめるのは、あなたじゃない」
「正しい場所で、正しい手順で、判断されるべきです」
沈黙。
しばらくして、男は立ち上がった。
「考えておいて頂けますか」
そう言って、書類を一枚、静かに机の上へ置いた。
「あなたが、感じた違和感を」
「そのまま、伝えるだけでいい」
男は、書類を見つめた。
震える手。
迷い。
感謝している。
助けられた。
それでも――。
あの瞬間の違和感が、消えない。
「……少し、考える」
絞り出すような声。
男は、穏やかに微笑んだ。
「もちろんです」
立ち上がり、扉へ向かう。
「急ぐ話ではありません」
「ですが……噂というものは、放っておくと、勝手に形を持つ」
扉の前で、振り返る。
「真実かどうかは別として、話は歩き出します。
貴方が悪いと言っているわけではありません。
ただ――」
一瞬、口元が歪んだ。
「正しいかどうかは、別の話だ」
扉が閉まる。
応接室に残された男は、書類を前に、動けずにいた。
助けられた。
感謝している。
――それでも。
暗がりの中で、男は外套を整えた。
その横顔に、灯りが差す。
鼻を鳴らす、癖。
「フン……」
男の名は、
エリオ・カーディス。
彼の視線は、すでに“次”を向いていた。
評価、コメント、お待ちしてます。




