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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
始まりの国
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傷と違和感

 昼間から、酒場は薄暗かった。


 凶作の年だ。

 日が高いうちから飲んでいる者がいても、誰も咎めない。

 それだけ、余裕がない。


 木の長椅子に、男は片足を伸ばして座っていた。

 足首には、ぐるぐると巻かれた布。

 まだ腫れが引いていない。


 ――ちくしょう。


 酒を煽る。

 安い麦酒だ。

 昔より、水っぽくなった気がする。

 実際、値段は上がっているのに、味は落ちている。


 働けない。

 それが、何より腹立たしかった。


 三日。

 医者はそう言った。


 「無理すりゃ、もっと長引くぞ」


 分かってる。

 分かってるが、三日稼げないってのは、この年じゃ致命的だ。


 朝、女房と口論になった。


 「気をつけろって、何度も言ったでしょ」


 分かってる。

 それも分かってる。


 でも、あの場所だ。

 いつも通りの作業場で、いつも通りの荷で、いつも通りの時間だった。


 ――なんで、あんなことになった。


 酒を置くと、また一口。


 喉が焼ける。

 頭がぼんやりする。


 そこへ、扉が開いた。


「おう、生きてたか」


 仲間だ。

 同じ作業場の連中が、二人。


「死にかけだったって聞いたぞ」


「うるせぇ」


 男は鼻で笑った。


「足、どうだ?」


「折れてねぇ。捻っただけだ」


「運が良かったな」


 ……運、ね。


 男は、思わず足首を見た。


 あの時。

 木箱が、倒れた。


 いや、倒れた、なんてもんじゃない。

 あれは、雪崩だった。


 積み方が悪かったわけじゃない。

 いつも通りだった。

 なのに、崩れた。


「それにしてもよ」


 仲間の一人が、酒を飲みながら言う。


「あの場に、あの女がいたの、変じゃねぇか?」


 男は、黙っていた。


 ……あの女。


 作業場に、似つかわしくない女。

 白い髪。

 細い身体。


 でも、はっきり覚えている。


 ――助けられた。


 それは、間違いない。


 けど。


「なんで、あそこにいたんだ?」


 別の仲間が言った。


「役人だろ。城の人間だって聞いたぞ」


「しかも、補佐官だ」


「そんな奴が、何であんな作業場に?」


 男は、酒を置いた。


 ……確かに、おかしい。


 あの女は、最初からそこにいたわけじゃない。

 気づいたら、目の前にいた。


 いや、違う。


 ――動いた。


 目があった瞬間、確かに、動いた。


 速かった。

 おかしいくらい。


 あれがなきゃ、今ごろ俺は――


「……助けてくれたんだぞ」


 男は、ぽつりと言った。


 仲間が黙る。


「感謝してる。そこは、間違いねぇ」


 だからこそ、言葉が続かない。


 疑うのは、嫌だった。


 だが。


「でもよ」


 仲間が、声を落とす。


「なんだか妙な話じゃないか?」


 男は、視線を逸らした。


 ……妙だった。


 速い、とかじゃない。

 そういう問題じゃない。


 気づいたら、終わってた。


 ぶつかるはずだった箱が、ずれて。

 自分が倒れて。

 痛みが来て。


 その順番が、頭の中で、うまく繋がらない。


 ――まるで、途中を飛ばしたみてぇだ。


「噂、聞いたか」


 別の客が、隣の卓で言った。


「城下町の外れで、変な話が出てる」


「変な話?」


「事故が発生する前に、国の役員がいたって」


 酒場の空気が、少し変わる。


「事故の“前”に?」


「そうだ」


「……それって」


 男は、喉が鳴るのを感じた。


 女房の顔が、一瞬よぎる。

 朝の、険しい顔。


 守らなきゃならないものが、ある。


 だから、口を開いた。


「……言いがかりだ」


 声は、思ったより低かった。


「助けられた。俺は、それだけだ」


 仲間が、肩をすくめる。


「まあな」


「役人に因縁つけても、いいことねぇ」


 話題は、別のことへ流れていく。


 酒の値段。

 麦の出来。

 西から来た商人の噂。


 でも、男の頭は、戻らなかった。


 あの場面に。


 あの白い髪に。


 ――もし。


 もし、あの女がいなかったら。


 考えたくない。

 考えたくないが。


 それでも、考えてしまう。


 助かった。

 感謝している。


 だが同時に、拭えない違和感がある。


 あれは、本当に偶然だったのか。


 酒場の外では、昼の光が傾き始めていた。


 城では今頃、あの女はいない。

 出張中だと、誰かが言っていた。


 だからこそ、噂は止まらない。


 本人のいないところで、

 話は形を変えて、広がっていく。


 男は、空になった杯を見つめた。


 ――面倒なことにならなきゃいいが。


 そう思いながらも、

 胸の奥に残る感情の正体を、言葉にできずにいた。


 恐れか。

 疑念か。

 それとも――。


 酒場の扉が、また開く。


 外の喧騒が、一瞬だけ流れ込んで、すぐに閉じた。


 噂は、静かに、しかし確実に、街に染み込んでいった。

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