邂逅
邂逅〈かいこう〉
思いがけない出会いを意味します。
本来、前向きな言葉のはずでした。
マグナレオール軍の後方。
前線から少し離れたこの場所にも、被害は少なからず及んでいた。
かすかに聞こえる悲鳴。眼下には負傷者が積み上がる。
男は椅子に座り、足を組んでいた。
苛立っているのが、遠目にも分かる。
足元の白は、男の小さな動きにすら影響を受けて、煙と共に流れていく。
伝令が男の元へと走る。
息が切れている。長い距離を駆けたのが分かる。
「殿下!ご報告します。
衝突が、始まりました。最前線はすでに──」
男が片手を少しだけ挙げた。
その動作だけで、伝令の喉がひゅっと鳴る。
「──よく考えろ。紡ぐ言葉は、貴様の価値となる」
低く、冷たい声だった。
「私の認識が貴様より遅れている、と?」
「──め、めっそうもございません、私は、ただ……」
それ以上、言葉を発することができなかった。
男の手に、黒い光が生まれていた。
空気が歪んでいる。光っているのに、どこまでも黒く。
直視してしまったら、死が確定してしまうような闇。
「……選べ。報告か、遺言か」
伝令は、唇を震わせながら頭を下げた。
「も、申し訳ございません!
今、最前線は同盟国側が優勢。前線は魔導部隊前まで押し込まれております。
マグナレオールは混乱状態にあり、統率がとれておりません。どうか、ご指示を」
男は足元の白を乱暴に踏みつけた。
そして、ほとんど聞こえないほどの小さな声。
「なぜ私がこんなところで指揮を取らねばならないのか……」
遠くで何かが爆ぜ、何かが悲鳴をあげている。
「……おい」
伝令の背筋が、凍る。
「なぜ私が貴様らの指揮をわざわざ取らねばならないのか、と聞いている」
返す言葉など、見つからない。
──紡ぐ言葉が、貴様の価値になる。
死の扉は、開いている。
「は、はい! 申し訳ございません! はい、殿下こそがマグナレオールを救うお方であるからでございます」
しばらく、沈黙が落ちた。
「……」
伝令は、口をぱくぱくと動かす。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま。身動きすることは、許されない。
「消えろ」
伝令はよろよろと立ち上がり、そのまま逃げるように去っていった。
男はもう、彼には興味を失っていた。
隣に立つ部下へ、ゆっくりと視線を向ける。
「ストラーシュ、お前が統率を取れ。
あれを使わせろ。前線から逃げるものはお前が殺せ」
「拝命致しました、ジェスヴァイン殿下」
部下は一礼し、混乱の渦に飲まれていった。
*
元の前線は、既に崩壊した。
同盟軍の兵が波のように押し寄せてくる。
悲鳴。
絶叫。
風を裂く音。
何かが砕ける音。
恐怖が、丘を支配していた。
今やほとんどの兵が背を向けていた。
逃げながら、振り向きざまに魔法を放つ。
それでも追いつかれ、倒され、踏み越えられていく。
最前線に居たはずの兵が死に、また前線が下がる。
二列目に位置する魔道部隊は、既に死を手招き始めていた。
その時だった。
鋭い風切り音が、空気を裂いた。
同時に、同盟国側の最前列の一角が弾けた。
戦場に、鮮血の雨が降り注ぐ。
何人かが、その風圧で吹き飛ばされる。
一瞬、空気が止まった。
何が起きたのか分からず、周囲のマグナレオール兵たちが顔を上げる。
全員が、同じ方向を見た。
一人の男が立っている。
ストラーシュ様。殿下の腹心。
ゆっくりと腕を下ろす。
その手元には、まだ黒い光が残っている。
「……何をやっている」
その声は、はっきりと全員の耳へ届く。
前線を舐めるように彼の視線が動いた。
鋭い眼光。
兵たちは、さっきまでとは別の恐怖に捕らわれた。
敵ではない。
味方のはずだ。
だが──
この人の前で、逃げてはいけない。
ストラーシュが一歩、前に出る。
「殿下はお怒りだ」
「貴様らの不甲斐なさに、だ」
誰も声を出せない。
「それでも、見捨てはしないと仰った」
一瞬、兵たちの視線が揺れる。
「役立たずの貴様らを、まだ使う価値があると」
心臓が止まるような、冷たい声。
「黒の魔法を使え」
短い命令。
「道を開け」
そして、ほんのわずか間を置いて。
「──戦え」
再び、黒い光がストラーシュの手に集まる。
それが、放たれた。
風切り音。
直後、同盟国の兵がまた弾けた。
また、雨が降る。
その光景を見て。
一人のマグナレオール兵が、思い出したように手を掲げる。
空気を掻き集めるようにして、図式をなぞる。
黒い塊が、手元に生まれる。
放つ。
また、誰かが吹き飛ぶ。
もう一人。
また一人。
気づけば前線のあちこちで、同じ光が生まれていた。
黒い光が、次々と空を裂いていく。
同盟国の兵が、倒れていく。
積み上がっていく。
さっきまで押し込まれていたはずの前線が、息を吹き返した。
少しずつ、押し返し始める。
マグナレオールの蹂躙が始まった。
*
何人殺したのか、もう覚えていない。
いや、そもそも──本当に殺したのかも分からない。
何度も剣を振った。
途中、剣が折れた。
落ちていた槍を前に出して、突いた。
誰かに、ぶつかった。
目の前にいた誰かが倒れていった。
それだけ。
味方だったのか、敵だったのかも、分からなかった。
それでも俺はまだ、生きている。
最前線の、ほんの少しだけ後ろに配置された。
数人分、前に人がいた。
しばらく、睨み合っていたと思う。
正確には。
誰も、動けなかった。
でも何かがきっかけとなったのか。
気付けば、前の兵たちが走っていた。
周りが、大声で叫んでいた。
聞き取れない。怖くて、自分も声を上げながら走った。
そして、衝突した。
さっきまで、前へ、前へと進んでいたはずだ。
でもいつからか、後ろに向かって逃げている。
──あの黒の、何か。
前にいる人間が、次々と消えていった。
弾けて、血飛沫が降ってきた。
すぐ目の前で、何かが味方に当たる。
次の瞬間、その人はもう人の形をしていなかった。
血が飛ぶ。
肉が飛ぶ。
鎧が砕ける。
それが目の前で繰り返され始めた。
逃げたい。
逃げたい。
逃げたい。
そう思っているのに、足が動かない。
最初に動いたのは、周りの人間だった。
背を向けて、走り出す。
それにつられて、自分も動いた。
──息が切れている。
呼吸が苦しい。足が上手く前に出ない。
装備が重い。それに、硬い。
それでも下がる。走る。
ただ、後ろへ。
人が多過ぎて、真っ直ぐに下がれない。
ぶつかって、転んで、また押される。
つまずきながら、必死に走った。
限界を超えている。呼吸がおかしい。
手に持っていた槍なんて、とっくに投げ捨てた。
──1秒でも早く、後ろへ。
こちらに向かって駆けてくる味方の、隙間を縫うようにして走る。
何かが横を掠めて、弾けた。
黒い光。
遅れて、風を切る音がする。
直後、背中で何かが破裂する音。
嫌な音がした。
振り向かない。多分、誰かが死んだ。
止まったら、死ぬ。
前に味方がいて、走ってくる。横に避けた。
頭が、弾け飛んだ。
何が起きたのか分からない。
その人の首から上が、なくなっていた。
叫び声が出ない。
喉が固まっている。
息が苦しくて、大きく口を開けた。
肺に入って、満たされる。
血の香りで。
もし、さっきの人を避けていなかったら。
死んだのは、自分だった。
走った。今まで以上に早く、足を動かした。
横から衝撃を受ける。味方とぶつかった。
「うっ……」
息が漏れる。声なんてもう、意味を持たなかった。
黒が、すぐ目の前を横切る。
空気が裂ける音。
その時だった。
感じたことのない衝撃が走った。
横腹に何かがぶつかって。
熱湯を、大量にかけられたようだった。
──えぐられた。
走っている勢いをそのままに、身体が勝手に前へ吹き飛んだ。
地面を転がる。
一回。
二回。
三回。
何かにぶつかった。
少し盛り上がった土の塊。
苦しい。呼吸がしたい。
でも、身体が反応しない。
息を吸いたい。吸えない。
ひゅー、と変な音が喉から出るだけだった。
少しだけ、息が吸えるようになった。
思い切り吸おうとして。
後悔した。
身体を裂かれるような激痛。
「……うぁ…………」
口から何かが溢れた。
どこが痛いのかも分からない。
ただ、痛い。
動こうとしたが、身体が動かない。
手が、土を掴む。
指先に力が入らない。
死ぬのか。
そう、思った。
ふいに。
……何だ?
ほんの少しだけ、世界が静かになった。
周りで誰かが戦っている音はする。
叫び声も、聞こえる。
でも、自分の周りだけ、少し遠い。
息を吸うたびに、視界が揺れる。
さっきまで感じていた痛みも、不思議と無くなっていた。
盛り上がった土。
そこにもたれかかるような姿勢になっていた。
ぼんやりとした視覚で、前を見た。
マグナレオール軍がいる方を。
攻撃が、近づいてきている。
黒い光が、何度も飛ぶ。
目の前で、味方が倒れる。
すぐそこまで来ていた。
でも、そんなことはもう、どうでも良かった。
あの日の朝、家を出ていく時。
嫁は、なんと言っていたか。
泣いていた気がする。確か、腕を掴まれて、痛かった。
俺は心配させたくなかったから、無理に笑顔を作った。
「大丈夫。必ず帰ってくる」
そんなことを、言ったと思う。
次に思い出したのは、娘の顔。
まだ小さい。
よく笑う子だった。笑顔が天使のように可愛くて。
俺がこの子を守るんだって、そう思った。
あの日。
出発する時。
嫁が、手を伸ばしていた。
自分に向かって。
本当は。
手を伸ばしたかった。
抱きしめたかった。
でも、できなかった。
そんなことをしたら、
もう一度、歩き出せなくなると思った。
逃げることもできなかった。
ここに来るしか、なかった。
二人を守りたかったから。
いつか帰れる。
戦いが終わったら。
また会える。
そう思っていた。
目の前の味方が、吹き飛んだ。
身体が宙に浮いて、後ろへ転がった。
もう、前には。
味方の死体と、敵しかいなかった。
目が合った。
マグナレオールの兵。
すぐそこにいる。
自分と、同じ目をしていた。
その手に、黒が生まれた。
何かが、集まっていく。
手元に、凝縮されていく。
──ああ。終わる。
目をゆっくりと閉じた。
涙は、出ない。
何も感じなかった。
ただ、空っぽだった。
突如。
後ろから、声がした。続いて、轟音。
雄叫び。
重い音が響いて、足元の大地が揺れた。
意識が若干浮上して、目を開けた。
視界が暗くなっている。
……壁?
違う。
盾だった。
巨大な、盾。
何人もで持っている。
息遣いが荒い。
怒鳴り声がした。
「こいつ、生きてるぞ!!」
誰かが叫んだ。
「運べ!! 後ろへ!!」
横から、影が差した。
誰かが、しゃがむ。
腕を掴まれた。
身体が、持ち上がる。
痛い。
声が出ない。
「よく耐えた」
低い声が、耳元で言った。
「死ぬな」
そのまま、引きずられていく。
盾の裏側を、後ろへ。
後ろへ。
黒い光が、何度も盾に当たる音が響いた。
鈍い音、衝撃。
でも、貫かれない。
誰かがうめいている。
誰かが倒れた。
それでも、進んでいる。
少しずつ、少しずつ。
後ろへ。
視界が、暗くなっていく。
音が、遠くなる。
息を吸うたびに、胸が痛い。
でも。
まだ、生きていた。
47話 消失の行進 より。




