表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
名を失った均衡世界
50/52

約束の羅針盤

ここまで読んでくれた皆さんへ。

この回は、ひとつの“約束”として置いておきます。

 そこは簡易的に板を組んで作られた、小さな仕切りの部屋だった。


 控室(ひかえしつ)と呼ぶには、あまりにも簡素で。

 けれど、今この場所には。


 確かに特別な空気が満ちていた。


「……できたわ」


 最後に肩口の布を整えて、エマが小さく言った。


 その声に、周りにいた女性たちが一斉に息を吐く。


 ヴィーラが一歩下がり、静かに全体を見渡す。


「……これで、大丈夫です」


 短く、満足そうに頷いた。


 リラは、まだ動けないまま立っていた。


 自分の身の回りに、何が起きているのか。

 まだうまく理解できていないような顔をしている。


 タラトレント製のドレスは、あの日の出来事を抱えたままのようにひどく傷ついていた。

 裂けて、焦げつき、血に染まり──もう二度と、着られないと思っていた。


 それを、みんなが持ち寄った布で(おぎな)った。


 色も、質も、形も違う。

 繋ぎ目は、隠しきれていない。

 (すそ)若干(じゃっかん)だが重く、少し歩きにくい。


 足元のヴェールも、本来なら長く()れるはずのものだったが、

 今はロングスカートほどの長さしかない。


 つぎはぎだらけのドレスだった。


 それでも初めてこのドレスを見た時、リラは声も出せずに立ち尽くした。

 目を()らすことができなかった。


 ただ肩を震わせて泣いた。


 誰も、その理由を聞かなかった。

 

「……どう?動ける?」


 エマが、優しく尋ねる。


 リラは小さく(うなず)く。


「うん。大丈夫」


 その目元はまだ少し赤かった。


 周りにいた女性たちが、ぱっと表情を明るくする。


「よかったぁ……」

「似合ってる、本当に」

「絶対泣くわよ、みんな」


 そんな声が重なる。


 誰かが裾を軽く持ち上げ、誰かが背中の結び目をもう一度だけ確かめる。


 それが終わると、エマが扉代わりの板の方へ目を向けた。


「私、会場の様子を見てきます」


「私も行くわ」

「みんな、ちゃんと座っているか確認してくる」


 次々に、女性たちが部屋を出ていく。


 慌ただしい足音が遠ざかり、やがて静かになった。


 残ったのは、ヴィーラとリラだけだった。


 *


 静かになった部屋に、ドレスが揺れる音だけが残る。


 ヴィーラは扉の方へ向けていた視線をゆっくりと戻した。


 そして、リラの姿を見た。


 何も言わない。


「ねえ、ヴィーラ……変じゃない?」


「いいえ」


 即答。


「とても、綺麗です」


 その言葉は飾り気がなくて。

 だからこそ、まっすぐ胸に落ちた。


 リラは、ほんの少しだけ目を伏せる。


「これ……みんなで作ってくれたんだよね」


「ええ」


 ヴィーラは頷く。


「布はあちこちから集めました。保存用に取っておいたものもあります」


「本当は、もっと綺麗に仕上げたかった。

 ──申し訳ございません。私の、力不足です」


 リラはすぐに返答はしなかった。


 代わりに、指先でそっとスカートの継ぎ目に触れる。


 色の違う布が、幾重(いくえ)にも重なっている。


「……ヴィーラ。

 ……あなたは、優しい人ね。それに、強い」


 ヴィーラが顔を上げる。


「分からなくても」


 リラは、静かに言葉を選びながら続ける。


「不安でも、怖くても」


「それでも……行動を起こすことができる」


 一拍。


「そして、あなたは必ず──先頭に立つ」


 ヴィーラは、顔を上げなかった。

 二人の間に少しの沈黙が落ちる。


 小さな声で、リラは続ける。


「結婚式をやろうって言ってくれたの……嬉しかった」


 風が吹いて、ドレスの裾が動いた。


「どうして?」


 リラは、まっすぐに尋ねる。


「なぜ……あの時、そう言ってくれたの?」


 ヴィーラは、しばらく黙っていた。


 何かを思い出すように、視線を落としたままでいる。


「……分かりません」


 やがて、そう言った。


「やるべきだ、と……思ったのです」


 ヴィーラは続ける。


「理屈ではなく」


「ただ、そうしなければならない気がしました」


 リラは、ふっと息を吐いた。


「そっか」


 それだけ言う。


 沈黙が少しだけ長く続く。


 部屋の外から、誰かの笑い声がかすかに聞こえる。


 ふいに。


 リラが呟くように言った。


「均衡会議でも……そうだったんでしょうね」


 その一言に。


 ヴィーラの胸の奥が、大きく揺れた。


 触れないでいた場所だった。


 ずっと。


 ずっと、触れないでいた場所。


 リラは、ゆっくりと息を吸った。


「ヴィーラ」


 名前を呼ぶ。


 ヴィーラが顔を上げる。


「約束する」


「あなたがくれた、今日という日の奇跡に」


 一歩、近づく。


「必ず、(むく)いることを」


 言い切ると同時に、リラはそっと腕を伸ばした。


 ヴィーラを、抱きしめる。


 離さないかのように、強く。


 ヴィーラの身体は、ほんの少しだけ強張(こわば)っていた。


 次の瞬間。


 肩が、静かに震え始めた。


 声は出さない。


 ただ、呼吸が乱れていく。


 リラは、何も言わない。


 そっと抱きしめたまま、その震えが落ち着くのを待った。


 *


 リラは、少しだけ目を細めた。


 どこかで引っかかっていたものが、ふっと浮かび上がる。


「……ねえ、ヴィーラ」


「はい」


 ヴィーラはもう、落ち着いていた。

 今は向かい合って座っている。


「前から気になってたんだけど」


 少しだけ、言葉を選ぶ。


「あなたって……ヴィーラ・アルゲンフィスト、なのよね」


「……マグナレオールじゃなくて」


 ヴィーラは、静かに頷いた。


「はい」


 短く答える。


 そのまま、ゆっくりと語り出す。


「父は、アルカン・マグナレオールです」


「ですが、母はアルゲンフィスト家の人間です。

 そのため正確には、私は完全なるマグナレオールの直系ではありません」


 少しだけ、視線を遠くに向ける。


「アルゲンフィスト家は、昔から王家と共に()り続けてきた血筋」


「王が倒れそうな時──前に出るための家系。

 責任を受け止めるために存在してきた、盾の血筋なのです」


 残酷なほどに、淡々としている。


 けれどその言葉の奥にある重さは、はっきりと伝わってきた。


 リラの喉が鳴る。


「だから、私は王位継承第五位であり──実際に王位を継ぐのは」


 次の言葉が、一瞬遅れた気がした。


「第四位までのマグナレオール家の方々です」


 リラは、何も言えなかった。


 その名前の意味を、ようやく理解した気がした。


 ヴィーラは、ゆっくりとリラの方へ向き直る。


「不思議です」


 ぽつりと言う。


「私は……守るために生まれたはずなのに」


「気づけば、守られてばかりです」


 ほんの一瞬だけ、声が揺れた。


 その時だった。


 外から、明るい声が響いた。


「リラ! 準備できましたよ!」


 仕切り越しに、女性の声が飛び込んでくる。


「もうみんな、待ってます!」


 空気が、少しだけ軽くなる。


 リラとヴィーラは、顔を見合わせた。


「……行きましょう。リラ」


 ヴィーラが、そっと手を差し出す。


 リラは、その手を見て。


「ええ」


 小さく頷いた。


 その手を、静かに取る。


 ヴィーラが一歩、前へ。


 リラをエスコートするように、ゆっくりと歩き出した。


 *


 会場では、まだ誰も席についていない。


 板を並べただけの通路の周りに、人が集まり始めている。

 落ち着かないように動き回る者。

 そわそわと立ったまま待っている者もいる。


 少しだけ、居心地が悪い気がしていた。


「おい」


 後ろから肩を叩かれた。


 振り返ると、ガレルがにやりと笑っていた。


「なんだその顔。緊張してんのか?」


「……してないよ」


「嘘つけ」


 すぐ横から、別の男が口を挟んでくる。


「手、ちょっと震えてるぞ」


「本当だ。おいみんな!シグ、緊張してるってよ」


 周りから、小さな笑いが漏れる。


 何も言わずに、視線だけを少し逸らす。


「おいシグ」


 また別の声が飛ぶ。


「誓いの言葉、もう決めてんのかよ?」


 その問いに、少しだけ間が空いた。


「……ああ」


 短く答える。


 それを聞いて、周りが一斉にざわつく。


「まじかよ、ちゃんと考えてきてんのか」

「そこ外したら格好悪いぞ?」

「シグのことだからよ」


 誰かが笑いながら言う。


「“君はもう僕だけのものだ”とか言うんじゃねーか?」


 どっと笑いが起きる。


 何も言い返さない。

 細やかな抵抗として、眉を少しだけ寄せた。


「そんなこと、言わないよ」


「ほんとかぁ?」


亭主関白(ていしゅかんぱく)ってやつか?」


 また笑いが広がる。


 その時だった。


 少し離れたところに立っていたエリックが、ぽつりと言った。


「シグ……」


 周りの調子とは違う、静かな声だった。


「なんだ?」


 エリックは、まっすぐにこちらを見て言った。


「リラは、シグだけのものじゃないよ」


 一瞬。


 周りの空気が、止まった。


 誰も笑わない。

 誰も口を開かない。


 ガレルが一歩だけ、近づいてきた。


「なあ」


「なんだ」


 短い応答。

 それでも、声は少しだけ低くなってしまった。


「幸せに……してやれよ」


 誰もその言葉を茶化(ちゃか)さなかった。


 別の男が続く。


「あのさ……シグ。

 俺たちは全員、二人には感謝してる」


「リラにも。シグ──お前にもだ」


 誰かが小さく息を吐く。


 エリックが最後に言った。


「シグも、幸せにしてもらうんだぞ」


 一瞬、みんなが顔を見合わせる。


 そして。


 ふっと、誰かが吹き出した。


「なんだそれ」

「逆だろ普通」

「新郎が言われる側かよ」


 空気が一気に緩む。


 みんなで、一緒になって笑った。


 誰かが僕の背中を思いきり叩いた。


「ほら、主役だぞ!もっと胸張れよ!」


 別の男が腕を回す。


「今日は逃げられねえからな!」


 気づけば、数人がかりで持ち上げられていた。


「おい、やめろって!」


「やめねえよ!」


 そのまま、肩車される。


「おおーっ!」


 周りから笑い声が上がる。


「落とすなよ!絶対落とすなよ!」

縁起(えんぎ)でもねえこと言うな!」


 そこへ、女性陣の怒声が飛んでくる。


「ちょっと!!」

「こんな時に怪我(けが)させたらどうするの!!」


 男たちが一斉に固まる。


「……すみません」


 慌てて下ろされる。


 また笑いが起きた。


 その時だった。


 板の向こう側から、足音が近づいてくる。


 そして、仕切りの隙間から顔を出したのはエマだった。


「みんな!」


 明るい声が響く。


「お待たせ! リラの準備、できたわよ!」


 一瞬で、空気が変わった。


「お、来るぞ」

「席つけ席つけ!」


 さっきまで立っていた男たちが、慌てて散っていく。


 椅子代わりの木箱に腰を下ろしていく。

 通路を空けるように、左右へ分かれて。


 ざわめきが、少しずつ収まっていく。


 僕と、もう一人だけがその場に残った。


 ずっと静かに様子を見ていた、レオニス。


 彼は妙に似合っていない帽子を被っていた。


「誓いの言葉は、決まっているんですね」


「……ああ」


 少しだけ頷いた。


「レオニス」

「何ですか?」


「帽子、似合ってないぞ」


 レオニスは何も言わず、少しだけ口角を上げた。


 *


 仕切りの前まで来ると、みんなの気配がはっきりと伝わってきた。


 笑い声。

 誰かが(せき)払いをする音。

 椅子が擦れる、小さな音。


 みんなが、そこで待っている。


「……大丈夫ですか」


 ヴィーラの横顔が見える。


「うん」


 少しだけ、息を吸う。


「ちょっと、緊張してるけど」


 ヴィーラはほんのわずかに頷いた。


「私もです」


 その言葉に、私は少しだけ笑った。


 仕切りの向こうから、誰かの声がした。


「もういいか?」


 別の声が返す。


「待って、まだ合図してない」


 小さなざわめきが、板越しに伝わってくる。


 音楽はない。


 楽器なんて、ないから。


 代わりに、息を(ひそ)める気配があった。


 繋いだ手が、そっと離された。

 ゆっくりと、仕切りの前に立つ。


 そして外に向かって、静かに声をかけた。


「……準備は整いました」


 ほんの一瞬の、静寂。


 そして。


「「リラ!!入って来て!!」」


 声が、重なった。


 たくさんの声だった。


 一人じゃない。

 みんなの、声。


 次の瞬間。


 板が左右に引かれた。


 光が、差し込む。


 人の姿が、一斉に目に入る。


 そこは決して、整った式場じゃなかった。


 並べられた椅子。

 椅子が足りず、木箱に座っている者もいる。

 ところどころが欠けた足元の板。


 それでも。


 その場所にいる全員からの祝福が降り注いでいた。


 まず、一歩を踏み出す。


 (まと)ったドレスが、静かに(したが)っている。


 視線が集まっているのが分かる。


 少しだけ、照れくさくて。

 思わず、手を軽く振った。


 あちこちから、笑いが漏れる。


「綺麗だぞー!」

「リラ、似合ってる!」

「足元気をつけて!」


 声が、飛んでくる。


 その中を、ゆっくりと歩く。


 そして。


 ふと。


 視界の先に、シグの姿が入った。


 まっすぐ、立っている。


 少しだけ緊張した顔で。


 その場所を動かずに、待っている。


 その瞬間。


 胸の奥が、きゅっと締まった。


 シグは──これから先も、ずっと。


 こうやって、急かさずに。


 ──ただ、待っていてくれる。


 そう思っただけで。


 涙が、(こぼ)れた。


「おいおい、もう泣いてるぞ!」

「まだ早いって!」


 茶化す声が飛ぶ。


 笑いが起きる。


 だけど、よく見れば。


 笑っている人の目にも、涙があった。


 私は、涙を拭いながら歩く。


 もう少しで、届く。


 シグとの距離が、ゆっくりと縮まっていった。


 やがて。


 シグの前に立った。


 少しだけ息が乱れている。


 何か言おうとして、言葉が出ない。


 その時。


 前から、足音が一つ近づいてきた。


 レオニスだった。


 余計な言葉はない。


 ただ、私たちを見て。


「誓いを」


 短く、言った。


 シグが、ゆっくりと頷く。


 彼が、目をまっすぐに捉えてきた。


「……呼吸が途切(とぎ)れる、その瞬間まで」


 一度、息を置く。


「僕は側にいる」


 その言葉は、そっと響いた。


 レオニスが、静かに頷く。


 次に、私の目を見る。


 静かだ。

 言葉はない。


 ただ、待っている。


 一瞬の静寂。


 ゆっくりと身体をシグの方へ向けた。


 喉が、かすかに震えている。


 それでも、目は逸らさない。


「あなたが……」


 思わず目を閉じそうになる。

 慌てて目元に力を入れた。


「あなたが」


「私の、人生になる」


 誰かが、そっと息を吐いた。


 最初は、ぱらぱらと。


 やがて、空気を震わせるような拍手が広がっていった。


 声も上がっているはずなのに。


 何を言っているのか、もう分からない。


 音だけが、私たち二人を優しく包んでいた。


 その時。


 シグが、少しだけ困ったように視線を動かした。


「……一つ、伝えておきたいことがある」


 そう言って、手の中の小さなものを見せる。


 指輪だった。


 古いが、大切に(みが)かれてきたのが分かる。


「これは……エマが貸してくれた」


 エマを探す。


 彼女は、会場の端にいた。

 少しだけ照れたように笑って、手を振っている。


 その手には、もう指輪はなかった。


 その意味を。


 ここにいる全員が、分かっていた。


 言葉にする者はいない。


 けれど。


 それがどれほどの祝福なのか、誰もが(わか)っていた。


 ほんの少しの間、エマと見つめ合う。


 そうしていると、手を取られた。


 シグの指が、少しだけ震えている。


 ゆっくりと。


 大切に扱うように。


 その指輪を、私の指にはめた。


 ぴたりと収まる。


 それを見て、視界がまた(うる)む。


 もう、言葉はいらなかった。


 ほんの少しだけ、シグに近づく。


 誰かが、小さく息を呑む音が聞こえた。


 そして。


 拍手が、もう一度大きく鳴り響いた。


 その音は、長く、長く続いた。

 しばらくずっと、鳴り止まなかった。


 *


 誰かが大きな声で言った。


「席、空けろ! 飯だ、飯!」


 その一言で、また笑いが広がった。


 長机の上に、料理が並び始めている。


 豪華とは言えない。


 どれも見慣れた食材ばかりだった。


 あの時、余った鹿の肉。

 保存していた野菜。

 干した根菜や、少しだけ残っていた豆。


 どれも、少しずつ持ち寄ったものだった。


 それでも。


 今日は、どれも少しだけ多かった。


 リラは、その光景を見渡した。


 胸の奥が、静かに温かくなる。


「主役はこっちだろ!」


 誰かがシグの背中を押す。


「ほら、座れ座れ!」

「リラも!」


 (なか)ば強引に、二人は席へ連れて行かれる。


 誰かが肉を切り分けてくれて。

 みんなで笑いながら、ご飯を食べる。


 気づけば、少し時間が経っていた。


 その時。


 エマが大事そうに何かを抱えて前に出てきた。


「みんな!集まって」


 全員が手を止めて、二人とエマの周りに集まってくる。


 エマは、そっとそれを机の中央に置いた。


 白かった。


 丸くて、小さくて。

 少しだけ(ゆが)んでいる。


 ケーキだった。


 正確には、ケーキのようなもの。


 小麦粉は、ほんの少ししかない。

 卵だって、貴重だ。


 でも。


 ちゃんと、ケーキだった。


 誰かが、小さく言った。


「……一週間、頑張ったんだよ」


 その声に、リラが顔を上げる。


 別の誰かが、続ける。


「畑、みんなで回してさ」

「材料、探しに行って」

「子どもたちも混ぜてくれた」


 あちこちから、声が重なる。


「火も、ずっと見てた」

「レオニスが温度のこと教えてくれてよ」

「ヴィーラが、量を計算して」


 ヴィーラは、少しだけ目を逸らした。

 当たり前のことをしただけ、という顔をして。


 エリックがリラの横に来て言った。


「リラ。あとシグ。

 ……結婚おめでとう」


「おいエリック。シグはついでか?」


 少しだけ笑いが起きる。


 エマがエリックの頭を撫でながら言う。


「それから……リラ」


「誕生日、おめでとう」


 リラは、言葉が出なかった。


 ただ、その白を見ていた。


 どこかで、思い出す。


 あの、圧倒的な白。


 ルシアの、あの光景。


 胸の奥が、強く揺れた。


「ほら」


 エマが、ナイフを差し出す。


「一口だけよ?」


 リラは、ゆっくりと受け取る。

 微笑(ほほえ)みたくても、上手く笑顔が作れなかった。


 小さく切り分けて。


 口に運ぶ。


 ちょっとだけ、甘かった。


 焦げた匂いが混じっている。

 粉っぽさもある。


 完璧じゃない。──でも。


 喉の奥から、声が漏れ出た。


 止められない。押し殺そうとしても、涙と共に止めどなく出てくる。


 肩が、大きく揺れる。

 周りが、静かになる。


 誰も、何も言わない。


 この小さなケーキを作るために、どれだけの時間が必要だったのか。


 リラは、声を上げて泣いた。


 みんなは、誇らしそうな顔をして、ただ見守っていた。


 しばらくして。


 エマが、そっと背中を撫でる。


「ほら、みんなにも」


 リラは、何度も頷いた。


 ケーキが小さく切り分けられていく。


 一人ひとりが、少しずつ(つま)む。


 子どもたちが、嬉しそうに笑う。

 大人たちも、静かに頷きながら口にする。


 それは、(まぎ)れもなく祝宴だった。


 ここにいる全員が、同じ時間を分け合っていた。


 同じ甘さを、口にして。


 同じ瞬間を、生きていた。


 リラは、涙を拭きながら周りを見る。


 笑っている。


 みんなが。


 その光景を、胸の奥に刻み込む。


 忘れないように。


 この日。


 リラは、世界から祝福された。


 そして、同じその日。


 マグナレオールと、他三国同盟の衝突が起きた。


羅針盤という言葉には、いくつもの意味を込めました。

誰かとの約束。

背負う役割。

そして、この先へ進むための指針。


ここから物語は、更に大きく動き始めます。

どうか信じて、ついてきてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ