戸惑いの先
能力に気付いたリラ。
その日から、彼女の“世界の見え方“は変わっていく。
馬車の往来が多く、荷を積んだ商人たちが声を張り上げている。
凶作の影響で、人々の動きは慌ただしい。
必要なものは、早く、確実に運ばなければならない。
私は、その様子を横目に見ながら歩いていた。
いつもなら、自然と視線が先へ先へと伸びる。
危険がないか、人の流れはどうか、音は重なりすぎていないか。
けれど今日は──
意識的にそうしなかった。
通りの向こうで、声が上がる。
「危ない!」
反射的に顔を上げた。
馬車が、傾いている。
石畳のわずかな段差に車輪が挟まり、積荷が不安定になっていた。
木箱。
中身は、陶器だ。
時間が、嫌なほどゆっくりに感じられた。
箱が崩れる。
紐がほどける。
白い陶器がいくつか、宙に舞う。
──落ちる。
その下に、小さな女の子がいる。
次の瞬間、私の頭の中で映像が勝手に繋がった。
落ちる。
割れる。
鋭い破片が、足に──
そこまで考えて、息を呑んだ。
遅い。
気づくのが、遅すぎた。
止めなきゃ。
今なら、止められるはずだ。
私は、心の中で強く願った。
──止まって。
けれど、世界は何も変わらなかった。
陶器は地面に叩きつけられ、甲高い音を立てて砕け散る。
女の子の短い悲鳴。
人が駆け寄る。
血が、石畳に落ちる。
私は、その場から一歩も動けなかった。
──違う。
違う、違う。
できなかったのは、力が足りなかったからじゃない。
気づくのが遅かったからだ。
もっと早く。
もっと早く異変に気づいていれば。
助けたい、と思う前に、
もうダメだ、と考えてしまった。
それがすべてだった。
女の子は抱え上げられ、治療のために運ばれていく。
足には陶器の破片が食い込み、頭部からは血が流れていた。
命に別状はないと、誰かが言った。
それでも、胸の奥が冷えたままだった。
「……ごめんなさい」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
私は、助けたかった。
でもそれ以上に強かったのは、
──もう間に合わない、という確信だった。
想いの強さ。
それが、足りなかったのだ。
私はそう結論づけて、唇を噛んだ。
通りを再び歩き出す。
けれど、足取りは重い。
あの時、もし。
もし、あの瞬間に、迷わず手を伸ばせていたら。
──この力は、優しくない。
使い方を誤れば、何も救えない。
*
会議室は、熱を帯びていた。
凶作の影響。
西との交渉。
北の沈黙。
議論は白熱し、誰もが言葉を切らさない。
その中を、給仕の女性が静かに歩いていた。
銀のポットから、赤褐色の液体を注いで回る。
眠気を覚ますための、熱い液体。
湯気が立ちのぼり、空気にかすかな良い香りが混じる。
次の瞬間だった。
リラの横にいる男が、身を乗り出して強く机を叩いた。
怒気を含んだ動き。
その腕が、女性の手に当たる。
──危ない。
次の瞬間、ポットが跳ね上げられた。
空に舞う銀色。
誰もが見た。
このままでは、あの女性の顔に──
私は、反射的に前へ出ていた。
助けたい。
その想いだけが、はっきりしていた。
時間がどうとか、考える余裕はなかった。
ただ、女性の上体を、強く引く。
体を後ろへ。
間に合え。
女性の体が傾いた、その直後。
ポットは彼女の頭上をかすめ、
何事もなかったかのように背後の床へ落ちた。
鈍い音がして、紅茶が床に広がる。
室内が、数拍遅れてざわめいた。
「今の……」
「……危なかったな」
女性は、呆然としたまま立ち尽くしている。
私は、彼女の肩を支えたまま、息を吐いた。
──できた。
さっきとは、違う。
同じように危険な場面だったのに。
同じように未来が見えていたのに。
今度は、体が動いた。
止められた。
さっきとの違いは、何?
私は答えを探すように、自分の手を見つめた。
時間を止めた感覚は、なかった。
巻き戻した感触も、ない。
それでも、確かに。
さっきはできなかったことが、
今はできた。
……やっぱり。
想いの強さ?
助けたい、という気持ちが足りなかった?
迷ったから、止まった?
分からない。
分からないけれど。
このまま放っておくわけにはいかない。
私は、そう確信していた。
*
会議室を出た後も、指先の感覚が戻らなかった。
あの瞬間、私は確かに動いた。
動けたはずのない速さで。
それなのに、呼吸は乱れず、胸の奥だけが熱くて冷たかった。
あのままでは、確実に女性の顔へポットが直撃する筈だった。
能力は、発動していた。
……なら、さっき助けられたのは、何が違った?
朝の道。
傾いた馬車。
落ちる陶器。
そして、少女の足。
私は、気づくのが遅かった。
遅い、というのは罪だ。
目が追いついた時には、もう、頭の中で出来事が最後まで走ってしまう。
落ちる。割れる。刺さる。
それから先──
そこまで想像してしまった瞬間、身体が動く余地は残っていなかった。
「助けたい」より先に、「もう間に合わない」と信じてしまった。
その日の二つの出来事は、私の中に問いを置いていった。
同じように危ない。
同じように一瞬。
同じように、私はそこにいた。
──なのに、片方は助けられた。片方は助けられなかった。
私は、考えずにいられなかった。
怖い。
けれど、このまま曖昧にしておく方が、もっと怖い。
だって、次はルシアかもしれない。
次は誰かの「当たり前」かもしれない。
私は息を吸って、吐いて、決めた。
確かめる。
自分の手で。
*
城下町の外れには、作業場がいくつもある。
修繕中の木材、荷造りの麻縄、積み上げられた木箱──人の暮らしを支える、雑多な匂いがする場所だ。
そこを選んだのは、目立たないから、ではない。
人が少ない時間を選べる。
そして、私が“動かすもの”を、私が決められるからだ。
積み上げられた木箱の列。
壁際に寄せられた荷。
大きい箱ほど下、軽い箱ほど上。
倒れるなら──こっち。
私は、倒れる方向を確認した。
倒れれば、箱はまっすぐ通路側へ雪崩れる。
そこには、誰もいないはずだった。
だから私は、試そうと思った。
……時間が。
ほんの少し戻るのか。
どこまで戻れるのか。
何を戻せて、何を戻せないのか。
戻せるなら。
掌にうっすらと、汗が滲んでくる。
そして私は──わざと重心を崩した。
木箱が、唸りを上げて崩れ始める。
乾いた木の擦れる音。
連鎖の始まる音。
私は待った。
危ない、と感じるまで。
そこからなら、止められるはずだと──どこかで信じていた。
そして。
倒れた。
木箱が想定通りの方向へ。
……おかしい。
思ったより、速い。
思ったより、重い。
思ったより、音が大きい。
私は、巻き戻すつもりで息を呑んだ。
さっきも感じた、あの遠ざかる感覚を呼び戻すつもりで。
だが、来ない。
喉の奥がきゅっと締め付けられる。
もう一度、強く願う。
“今”を引き剥がすように、祈る。
──来ない。
その時。
通路の影に、人がいるのが見えた。
職人の男だ。
荷の点検に来たのか、腕まくりをしたまま、こちらを見上げている。
気づくのが一瞬遅れた。
崩壊中の箱は、職人の方へ倒れていく。
「……っ」
息が詰まった。
──まずい。
今度こそ、躊躇いより先に「助けなきゃ」が立った。
その瞬間、世界が遠くなった。
音が薄くなる。
身体が重くなる。
足が沈む。
空気が粘度を増したようにまとわりつく。
来た。
私は走ろうとして、走れない。
いつものように“軽く”は動けない。
思考だけが速くて、身体が遅い。
それでも、私は前に出た。
職人へ向かって、腕を伸ばした。
間に合わない──はずだった。
箱の角が、職人の肩をかすめる。
男の身体が弾き飛ばされ、地面へ倒れ込む。
鈍い音が響く。
男の足首が、嫌な形でねじれるのが見えた。
同時に、私の掌が裂けた。
木箱の木片か、釘か。
何か鋭いものが当たった衝撃で。
熱い。遅れて痛みがやってくる。
血が、手首を伝ってポタポタと落ちる。
深く裂けていた。
見ただけで、ぞっとする。
私は、息を吐いた。
……助かった。
“間に合った”と言い切れるほどではない。
でも──職人は潰されなかった。
頭も胸も守れた。
私は、胸の奥がぐらつくのを感じた。
さっきまで、戻らなかった。
けれど途中から、確かに“発動した”。
ただ、体は思うように動かなかった。
男も私も、無傷ではない。
だけど確実に。
時間を、操作した感覚がある。
……掴めた。
完全じゃないけれど。
ざわざわとした声が近づいてきて、周囲に人が集まってくる。
音が大きすぎた。
思った以上に、作業場全体に響いた。
街の外れにいた人々だ。
「大丈夫か!」
「怪我をしてる!治療を……!」
「木箱が崩れたんだ!」
私は答えられなかった。
口を開いた瞬間、ここにいる全員の視線が私に刺さるだろう。
職人は歯を食いしばって、しかし意外と冷静だった。
「……折れてはねぇ。たぶん。捻っただけだ、くそ……」
周りの者が男を支え、誰かが氷を持ってくる。
私の手のひらにも布が当てられ、圧をかけられる。
痛みが、ようやく現実になる。
熱がじわじわ広がって、指先が震える。
そこへ。
人の輪が割れて、落ち着いた足音が入ってきた。
ルシアだった。
呼吸ひとつ乱していない。
でも目だけが、怒っている。
彼女は私の手を見て、何も言わずに包帯を受け取った。
血で濡れた布を外し、傷を見て、眉を寄せる。
「……リラ」
名前だけ。
その一言で、背筋が冷えた。
ルシアは、淡々と治療を始めた。
手際が良すぎて、言い訳を挟む隙がない。
消毒の刺激。
私は顔をしかめるが、声は出さない。
包帯が巻かれていく。
最後の一巻きが、少しだけ強い。
痛い。
でも、その痛さが妙にありがたかった。
ルシアは結び目を作り、そこでようやく私を見た。
「……後でちゃんと話して」
「……うん」
それだけで、十分だった。
私は、職人の方にも視線を向ける。
男は眉間に皺を寄せたまま、誰かに肩を貸されて座っている。
私が巻き込んだ。
私が、怪我をさせてしまった。
胸が重い。
……そして。
私の頭の中では、ひとつの想像が膨らみ始めていた。
もし、これが本当に時間を操る力なら。
戻せる範囲が広がったら。
戻せる回数が増えたら。
戻すことが“癖”になったら。
失敗しても、なかったことにできる。
痛みも、傷も、死さえ──
そんなものに手を伸ばしていいのか。
私は、包帯を見つめた。
白い。
痛い。
現実だ。
……時間を操るというのは、
きっと、とても危険なことだ。
危険なのは、能力じゃない。
私自身だ。
私がそれに慣れた瞬間、
たぶん、私はもう戻れなくなる。
次回、巻き込まれた職人の視点です。




