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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
名を失った均衡世界
49/53

灯火

現実と向き合うことだけが、生きるということではない。


最後に、笑えれば。

それで良い。

 しばらくただ、向かい合っていた。

 

 風が二人の間を通り抜ける。


 エリオが一歩、近づいた。


「確認したいことがある」


 低い声だった。


 その声は、少しだけ焦りを感じさせた。


「世界のあの異変が起きた時」


「……」


「リラ・ヴェルノア。君は、何をしていた」


 リラの喉が、わずかに動く。


「その異変の前後を……私はあまり知らない。ただ……マグナレオールにいたことは確かよ」


 短く答える。


 エリオは、目を細めた。


「そうか」


 それだけ言って、少しだけ視線を落とす。


 何かを確かめるように、ゆっくりと息を吐いた。


「……やはり」


 リラの背筋(せすじ)に、冷たいものが走る。


 エリオは、顔を上げる。


「君は、自覚していないかもしれない」


 静かに言う。


「だが、今──確実に、世界は君の存在を求めている」


 リラの指先が、わずかに震える。


「それが、破滅に繋がるのか」


「それとも、救いになるのか……」


「誰にも分からない」


 彼は今、言葉を選んでいない。


 断言ではないが、彼なりの確信を持った強さを(はら)んでいた。


「だからこそ、伝えに来た」


 エリオは、リラを正面に捉えた。


「君の選択の先に、未来がある」


 リラは、息を呑んだ。


 何も言えない。

 言葉が上手く、出てこない。


 その沈黙の中を、エリオは続ける。


「だから、探した。

 君に伝えるために」


 風がまた吹いた。


 倉庫の中から、かすかに笑い声が聞こえる。

 さっきまで近かったそれは、ひどく遠くに感じられた。


 その時だった。


「……大丈夫ですか? リラ」


 後ろから、静かな声がした。


 リラの肩が、わずかに揺れる。


 振り返ると。


 ヴィーラが立っていた。


 様子の変化に気づいたのだろう。

 少し心配そうな顔で、こちらを見ている。


 リラの口から、名前がこぼれる。


「ヴィーラ……」


 その瞬間。


 エリオの呼吸が、止まった。


「……ヴィーラ?」


 小さく、繰り返す。


 まるで信じられないものを見たような声だった。


 目が、彼女の姿を追う。


 そして。


 ぽたりと。


 涙が、一筋(ひとすじ)落ちた。


 リラは、それを見てしまった。


 何が起きているのか、分からない。

 なんで、彼は泣いているの?


 ヴィーラもまた、同じだった。


 戸惑(とまど)ったまま、二人の間に視線を往復させている。


 エリオは、何も言わない。


 唇がわずかに震えている。


 やがて、小さく息を吐いた。


「……そうか」


 消え入るような声。

 風の音で、ヴィーラには聞こえなかっただろう。


 それ以上、彼は何も発しなかった。


 言葉を持たない人間のように、ただ立っている。


 少しして。


 リラの方だけを見て、静かに言った。


「彼女と……生きてくれたんだな」


 一拍。


「……ありがとう」


 ヴィーラは目を見開いた。

 意味が、分からない。


 リラも同じだった。


 エリオは、もうそれ以上何も触れなかった。

 

 一瞬、救われたような顔をしているように見えたのは、気のせいだろうか。


 唐突(とうとつ)に話題を変えるように言う。


「今日一日だけ、休息を取らせてほしい」


 今度は少しだけ、言葉を選んで。


「可能であれば……食料も、少し分けてもらえないだろうか」


 リラはすぐに答えた。


「そんなの、もちろんよ」


 彼の顔を、改めて見る。


 疲れている。

 思っていたよりも、ずっと。


「でも……もう少し休んでいった方がいいわ。かなり疲れているように見える」


 エリオは、短く首を振った。


「部下を、残して来た」


 その一言だけで、

 リラは黙った。


 何も言えなくなる。


 それが、どういう意味なのか。

 考えなくても分かってしまったから。


 少しの静寂。


「……わかった」


 それだけ言った。


 エリオは(うなず)きもせず、ただ背を向ける。


 足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 止めることは、できなかった。


 止めてはいけない気がした。


 やがて、その姿が見えなくなる。


 二人だけが、残された。


 ヴィーラが、小さく口を開く。


「あの方は……?」


 リラは、少しだけ間を置いてから答えた。


「私の……同僚よ」


 *


 朝の空気は、どの国もそう変わらない。

 冷たく、同時に一日が始まる予感を連れてくる。


 夜が明けきる前の光が、三人に道を示しているようだった。


 エリオは、馬の手綱(たづな)を軽く引いた。


 荷の(くく)りを、もう一度だけ確かめる。


 結局、言葉はほとんど()わさなかった。


 リラは小さな布袋を差し出す。


「少ないけど……一週間は持つと思う」


 エリオは受け取り、ほんのわずかに目を伏せた。


「すまない。感謝する」


 それだけ言って、袋を(くら)に括りつける。


 その仕草は、以前よりもずっとゆっくりだった。


 無駄のない動きは変わらない。だがどこか、柔らかくなっている。


 リラは、その横顔を見ていた。


 変わった。この人も。

 昔の彼は、もっと冷たかった。


 隙がなくて、近寄りがたくて、言葉も少なくて。


 感情を見せない人だった。


 けれど今は。


 疲れているのもあるだろう。


 だが、こんなにまっすぐに話をしたのは初めてのことだった。


 何があったのかは、聞かない。


「……世話になった」


 馬に乗りながら、エリオが言った。


 リラは微笑みで返そうとして、やめた。

 代わりに、片方の眉を困ったように下げる。


 そして、軽く頷いた。


 シグが隣に立っている。


「こちらこそ、ありがとうございました。

 我々も……事前に対処できれば、生存の可能性が上がる」


 やがてエリオは手綱を引き、ゆっくりと背を向けた。


 背中越しに、確かに聞こえた。


「……責任と向き合うというのは、恐ろしいことだな」


 馬の(ひづめ)が、乾いた地面を踏みしめる。


 その音が少しずつ、遠ざかっていく。


 振り返らない。


 リラたちも、呼び止めない。


 ただ、その背中が小さくなるのを見ていた。


 やがて姿が見えなくなると、朝の静けさだけが残った。


 しばらくして、シグが小さく息を吐く。


「……行ったな」


「ええ」


 短く答える。


 それ以上、言葉は続かなかった。


  *


 昼前。


 倉庫の奥の小さな机に、四人が集まっていた。


 リラ。

 シグ。

 ヴィーラ。

 レオニス。


 他の人たちから聞こえないよう、少しだけ離れた場所に座っていた。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 先に言葉を落としたのは、リラだった。


「みんなにも……伝えるべきだと思う」


 静かな声だった。


「全面衝突が起きるってこと」


 ヴィーラがゆっくりと頷く。


「ええ。私も、そう思います」


 紙の上に視線を落としたまま、続ける。


「備えが必要です。移動の準備も、食料の分配も、全て変わります」


 レオニスが腕を組んだまま言う。


「知らなければ動けない。

 初動の遅さは、致命的になる」


 短い言葉だったが、それで十分だった。


 シグだけが、黙っている。


 リラはその横顔を見る。


「……怖がる人も、出るわよね」


 レオニスが答える。


「みんな知っている。あの喪失感を。

 怖がらないものなどいません」


「ですが、知らないまま巻き込まれる方がもっと怖い」


 ヴィーラも小さく頷いた。


「私たちは、みんなで一緒に生きると決めました」


「なら、全てを打ち明けるべきです」


 その言葉に、リラは息を吐いた。


「……そうね」


 覚悟を決めるように、背筋(せすじ)を少しだけ伸ばす。


「昼に、みんなに伝える」


 そう言ったところで。


 シグが、ようやく口を開いた。

 ヴィーラとレオニスに、身体を向ける。


「二人に、頼みがある」


 落ち着いた声だった。


 ヴィーラが首を傾ける。


「何でしょうか」


 シグは少しだけ間を置いた。


「証人になってほしいんだ」


 一瞬。


 誰も意味が分からなかった。


 リラが(まばた)きをする。


「……証人?」


 シグは頷いた。


「正式な式はできない」


「時間も、余裕もない」


「だから」


 そこで初めて、リラの方を見る。


「ここで、決めておきたい」


 空気が、少しだけ変わる。


 ヴィーラの目が、わずかに見開かれる。


 レオニスは黙ったまま二人を見ている。


「リラ」


 名前を呼ばれる。

 それがなんとなく、いつもと違う響きに聞こえる。


 リラは顔を上げた。


「……何?」


 シグは、少しだけ間を置いた。


 言葉を探している様子ではなかった。

 ただ、呼吸を整えているように見えた。


「これから、世界がどうなるか分からない」


 まっすぐな声だった。


 余計な感情は感じられない。


 リラは──その先を聞く前に、察してしまった。


「……ちょっと待って、シグ」


 思わず言葉が出る。


「今?」


 小さく笑うような、困ったような声。


 シグは、首を横に振る。


「……今、だからこそだ」


 短く、はっきりと。


(ちか)いたい」


 シグは言葉を重ねる。


「僕は……君を、失いたくない」


 リラの喉が、かすかに鳴る。


 言葉が出てこない。


 シグは、ゆっくりと続ける。


「前に、言っただろう」


「王立庭園を歩いたあの日。

 祝福の音楽が流れる、あの場所で」


 記憶が、静かに蘇る。


 あの夜の空気。

 (あか)りの色。

 言葉にしきれなかった、不安と安らぎ。


「君が恐れる夜を──僕も一緒に歩く、と」


 声は変わらない。


 あの日と、同じ温度のままだった。


「その気持ちは、今も……これからも変わらない」


 一度、呼吸を置く。


「リラ。

 ──ずっと側にいたい」


 それは、願いではなく。


 そうあろうと決めている人間の言葉だった。


「……僕と、結婚してくれないか」


 静寂が落ちる。


 風の音だけが、四人の間を通り抜ける。


 リラは何も言えなかった。


 驚きも、戸惑いも、怖さも。


 全部が胸の中で絡まっている。


 それでも。


 ひとつだけ、はっきりしていることがあった。


 シグが、ここにいること。

 自分の前にいて、共に生きていること。


 それが何よりも確かな現実だった。


「……私も」


 ようやく、声が出る。


 小さく。


 震えるように。


「私も……」


 息を吸う。


「あなたと生きていきたい」


 リラの目から、涙が一つ落ちる。


 それ以上の言葉は、必要なかった。


 シグの表情が、ほんの少しだけ緩む。


 ヴィーラは静かに目を伏せた。

 レオニスは何も言わない。ただ、二人をまっすぐ見ていた。


 余計な言葉はなかった。


 けれど、それで十分だった。


 倉庫の片隅。


 小さな机の周りで、それは確かに誓われた。


 *


 70人を超える人々が、いつものように倉庫の中に集まっていた。


 皿の音も、笑い声も、まだ少し残っている。


 けれど。


 リラは机の前に立ったまま、すぐには口を開けなかった。


 視線を落とし、息を一つ整える。


 その様子に、少しずつ周囲のざわめきが静まっていく。


「……あのね」


 やがて、リラは言った。


「みんなに、伝えなきゃいけないことがあるの」


 その声には、いつもの軽さがなかった。


 何人かが顔を上げる。


 子供たちも、なんとなく騒ぐのをやめる。


 空気がゆっくりと落ち着いていく。


 リラは、一度だけ唇を噛んだ。


 それから、はっきりと言う。


「およそ一週間後」


 一拍。


「マグナレオールと……他国同盟軍の全面衝突が起きるわ」


 言葉が落ちた瞬間。


 空気が、止まった。


 誰も、すぐには理解できなかった。


 皿を持ったまま、固まっている者。

 口を開きかけて、止まった者。


 何人かは、意味を探すように周りを見る。


「……え?」


 小さな声が漏れる。


「全面……衝突?」


「戦争……?」


 ざわり、と波が広がる。


 息が荒くなる音が、あちこちから聞こえる。


「ちょ、ちょっと待ってくれ」

「どこでだ?」

「ここは……大丈夫なの?」


 声が重なり始める。


 中には、顔色を悪くしてどこかへ駆け出す者もいた。


 子供が、不安そうに大人の服を掴む。


 リラは手をぎゅっと握りしめた。


「戦場が、どこになるかは分からない」


 声を張る。


「ここが巻き込まれるかどうかも、まだ分からない」


 全員がリラを見る。

 その視線を、正面から受け止めて言う。


「だから、備えよう」


「いつでも動けるように、荷物をまとめておいて」


「食料も、分配の仕方も。ヴィーラの指示の元、変えていく」


 少しだけ、声が震える。


 それでも、止めるわけにはいかない。


「でも──」


 一度、息を吸う。


「全員で、生きるのよ」


 その一言で。


 倉庫の中が、しんと静まり返った。


 誰も、何も言えない。


 泣き出す者もいない。


 怒鳴る者もいない。


 ただ、全員が言葉を失っていた。


 あまりにも、現実が重すぎて。


 リラは、何か続けようとして──口を開きかけて、閉じた。


 何を言えばいいのか、分からなかった。


 その時。


 後ろから、静かな声がした。


「……もう一つ」


 ヴィーラだった。


 全員の視線が、一斉に彼女に集まる。

 ヴィーラは、まっすぐ前を見て言った。


「伝えなければならないことがあります」


 短い間。


 誰も、息をしない。


 そして。


「リラとシグのお二人が……結婚することになりました」


「「…………え?」」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間。


「嘘だろ!?」

「ほんとか!?」

「おめでとう!!」


 空気が、一気に弾けた。


 さっきまでの重さが、嘘みたいに吹き飛ぶ。


 誰かが立ち上がる。

 誰かが手を叩く。

 子供たちが飛び跳ねる。


 シグの背中を叩く者もいる。


「やったな!」

「おいリラ!まじか!」

「おめでとう!!」


 リラは目を見開いたまま、固まっていた。


「ちょ、ちょっとヴィーラ……!」


 思わず振り返る。


「今はそれどころじゃ……」


 言い終わる前に。


 人の波が押し寄せる。


「おめでとうございます!」

「良かったなあ!」

「めでたい!ほんとに!」


 その中をかき分けるように、一人の女性が前に出てきた。


 エマだった。


 赤ん坊を抱いたまま、こちらへ向かって走ってくる。


 そして。リラの胸へ飛び込んだ。


「リラ……」


 声が震えていた。


「……おめでとう」


 その肩が、小さく揺れている。


 リラは、何も言えず。

 ただ戸惑いながら、二人を包んだ。


 周りを見渡す。


 ──誰も、戦争の話をしていない。

 さっきまで……あんなに凍りついていたのに。


 今は、笑っている。


 喜んでいる。


 祝っている。


 その光景を見ながら、リラは思った。


 ──みんな、分かっている。


 現実が、もう目の前まで来ていること。


 それでも。

 それでも、人は。


 降ってきた小さな希望に、すがる。


 リラは、ゆっくりと目を閉じた。


 逃げたっていい。


 それでも、生きていればいい。


 生きて、生きて、生き延びて。


 その先で、また笑えればいい。


「結婚式は!?」


 突然、エリックが声を上げた。


「シグ!結婚式するんだろ!?」


「そうだよ!」

「まあ、素敵!」

「絶対やるべきだよ!」


 一気に声が重なる。


 お祭り騒ぎだった。


 リラは慌てて手を振る。


「みんなちょっと待って!今はそれどころじゃ……!」


「何かあってからじゃ遅いのよ!」


 必死にみんなに呼びかける。


「そんなことやってる場合じゃ──」


 その時。


 背後に、気配が立った。


 ヴィーラだった。


 ただ、そこに立っただけ。

 それだけで、ざわめきがすっと消える。


 リラも言葉を止めた。


 ヴィーラは、静かに言う。


「理屈ではありません」


 まっすぐ、リラを見る。


「リラ」


「結婚式を行いましょう。私が、先導します」


 一瞬の静寂。


 そして。


 さっきよりも大きな歓声が、倉庫を揺らした。


「やるぞおおお!!」

「結婚式だ!!」

「準備しよう!!」


「いつだ!?」


 誰かが叫ぶ。


「シグ!いつやる!?」


 視線が一斉に集まる。


 シグは少しだけ、目を閉じた。


 それから、静かに言う。


「……一週間後がいい」


 ざわめきが止まる。


「リラの、27歳の誕生日だ」


 リラが、息を呑む。


 前に一度、話したことがある。

 大学の中庭で。ただの、他愛(たあい)ない会話。


 覚えていてくれるなんて、思ってもなかった。


 そして。


 その日が、確かに来るのだと。


 胸の奥で、何かが静かに震えていた。

すいません。シグがプロポーズを先走ったため、結婚式まで辿り着きませんでした。


次回こそ、結婚式です。

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