灯火
現実と向き合うことだけが、生きるということではない。
最後に、笑えれば。
それで良い。
しばらくただ、向かい合っていた。
風が二人の間を通り抜ける。
エリオが一歩、近づいた。
「確認したいことがある」
低い声だった。
その声は、少しだけ焦りを感じさせた。
「世界のあの異変が起きた時」
「……」
「リラ・ヴェルノア。君は、何をしていた」
リラの喉が、わずかに動く。
「その異変の前後を……私はあまり知らない。ただ……マグナレオールにいたことは確かよ」
短く答える。
エリオは、目を細めた。
「そうか」
それだけ言って、少しだけ視線を落とす。
何かを確かめるように、ゆっくりと息を吐いた。
「……やはり」
リラの背筋に、冷たいものが走る。
エリオは、顔を上げる。
「君は、自覚していないかもしれない」
静かに言う。
「だが、今──確実に、世界は君の存在を求めている」
リラの指先が、わずかに震える。
「それが、破滅に繋がるのか」
「それとも、救いになるのか……」
「誰にも分からない」
彼は今、言葉を選んでいない。
断言ではないが、彼なりの確信を持った強さを孕んでいた。
「だからこそ、伝えに来た」
エリオは、リラを正面に捉えた。
「君の選択の先に、未来がある」
リラは、息を呑んだ。
何も言えない。
言葉が上手く、出てこない。
その沈黙の中を、エリオは続ける。
「だから、探した。
君に伝えるために」
風がまた吹いた。
倉庫の中から、かすかに笑い声が聞こえる。
さっきまで近かったそれは、ひどく遠くに感じられた。
その時だった。
「……大丈夫ですか? リラ」
後ろから、静かな声がした。
リラの肩が、わずかに揺れる。
振り返ると。
ヴィーラが立っていた。
様子の変化に気づいたのだろう。
少し心配そうな顔で、こちらを見ている。
リラの口から、名前がこぼれる。
「ヴィーラ……」
その瞬間。
エリオの呼吸が、止まった。
「……ヴィーラ?」
小さく、繰り返す。
まるで信じられないものを見たような声だった。
目が、彼女の姿を追う。
そして。
ぽたりと。
涙が、一筋落ちた。
リラは、それを見てしまった。
何が起きているのか、分からない。
なんで、彼は泣いているの?
ヴィーラもまた、同じだった。
戸惑ったまま、二人の間に視線を往復させている。
エリオは、何も言わない。
唇がわずかに震えている。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうか」
消え入るような声。
風の音で、ヴィーラには聞こえなかっただろう。
それ以上、彼は何も発しなかった。
言葉を持たない人間のように、ただ立っている。
少しして。
リラの方だけを見て、静かに言った。
「彼女と……生きてくれたんだな」
一拍。
「……ありがとう」
ヴィーラは目を見開いた。
意味が、分からない。
リラも同じだった。
エリオは、もうそれ以上何も触れなかった。
一瞬、救われたような顔をしているように見えたのは、気のせいだろうか。
唐突に話題を変えるように言う。
「今日一日だけ、休息を取らせてほしい」
今度は少しだけ、言葉を選んで。
「可能であれば……食料も、少し分けてもらえないだろうか」
リラはすぐに答えた。
「そんなの、もちろんよ」
彼の顔を、改めて見る。
疲れている。
思っていたよりも、ずっと。
「でも……もう少し休んでいった方がいいわ。かなり疲れているように見える」
エリオは、短く首を振った。
「部下を、残して来た」
その一言だけで、
リラは黙った。
何も言えなくなる。
それが、どういう意味なのか。
考えなくても分かってしまったから。
少しの静寂。
「……わかった」
それだけ言った。
エリオは頷きもせず、ただ背を向ける。
足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
止めることは、できなかった。
止めてはいけない気がした。
やがて、その姿が見えなくなる。
二人だけが、残された。
ヴィーラが、小さく口を開く。
「あの方は……?」
リラは、少しだけ間を置いてから答えた。
「私の……同僚よ」
*
朝の空気は、どの国もそう変わらない。
冷たく、同時に一日が始まる予感を連れてくる。
夜が明けきる前の光が、三人に道を示しているようだった。
エリオは、馬の手綱を軽く引いた。
荷の括りを、もう一度だけ確かめる。
結局、言葉はほとんど交わさなかった。
リラは小さな布袋を差し出す。
「少ないけど……一週間は持つと思う」
エリオは受け取り、ほんのわずかに目を伏せた。
「すまない。感謝する」
それだけ言って、袋を鞍に括りつける。
その仕草は、以前よりもずっとゆっくりだった。
無駄のない動きは変わらない。だがどこか、柔らかくなっている。
リラは、その横顔を見ていた。
変わった。この人も。
昔の彼は、もっと冷たかった。
隙がなくて、近寄りがたくて、言葉も少なくて。
感情を見せない人だった。
けれど今は。
疲れているのもあるだろう。
だが、こんなにまっすぐに話をしたのは初めてのことだった。
何があったのかは、聞かない。
「……世話になった」
馬に乗りながら、エリオが言った。
リラは微笑みで返そうとして、やめた。
代わりに、片方の眉を困ったように下げる。
そして、軽く頷いた。
シグが隣に立っている。
「こちらこそ、ありがとうございました。
我々も……事前に対処できれば、生存の可能性が上がる」
やがてエリオは手綱を引き、ゆっくりと背を向けた。
背中越しに、確かに聞こえた。
「……責任と向き合うというのは、恐ろしいことだな」
馬の蹄が、乾いた地面を踏みしめる。
その音が少しずつ、遠ざかっていく。
振り返らない。
リラたちも、呼び止めない。
ただ、その背中が小さくなるのを見ていた。
やがて姿が見えなくなると、朝の静けさだけが残った。
しばらくして、シグが小さく息を吐く。
「……行ったな」
「ええ」
短く答える。
それ以上、言葉は続かなかった。
*
昼前。
倉庫の奥の小さな机に、四人が集まっていた。
リラ。
シグ。
ヴィーラ。
レオニス。
他の人たちから聞こえないよう、少しだけ離れた場所に座っていた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
先に言葉を落としたのは、リラだった。
「みんなにも……伝えるべきだと思う」
静かな声だった。
「全面衝突が起きるってこと」
ヴィーラがゆっくりと頷く。
「ええ。私も、そう思います」
紙の上に視線を落としたまま、続ける。
「備えが必要です。移動の準備も、食料の分配も、全て変わります」
レオニスが腕を組んだまま言う。
「知らなければ動けない。
初動の遅さは、致命的になる」
短い言葉だったが、それで十分だった。
シグだけが、黙っている。
リラはその横顔を見る。
「……怖がる人も、出るわよね」
レオニスが答える。
「みんな知っている。あの喪失感を。
怖がらないものなどいません」
「ですが、知らないまま巻き込まれる方がもっと怖い」
ヴィーラも小さく頷いた。
「私たちは、みんなで一緒に生きると決めました」
「なら、全てを打ち明けるべきです」
その言葉に、リラは息を吐いた。
「……そうね」
覚悟を決めるように、背筋を少しだけ伸ばす。
「昼に、みんなに伝える」
そう言ったところで。
シグが、ようやく口を開いた。
ヴィーラとレオニスに、身体を向ける。
「二人に、頼みがある」
落ち着いた声だった。
ヴィーラが首を傾ける。
「何でしょうか」
シグは少しだけ間を置いた。
「証人になってほしいんだ」
一瞬。
誰も意味が分からなかった。
リラが瞬きをする。
「……証人?」
シグは頷いた。
「正式な式はできない」
「時間も、余裕もない」
「だから」
そこで初めて、リラの方を見る。
「ここで、決めておきたい」
空気が、少しだけ変わる。
ヴィーラの目が、わずかに見開かれる。
レオニスは黙ったまま二人を見ている。
「リラ」
名前を呼ばれる。
それがなんとなく、いつもと違う響きに聞こえる。
リラは顔を上げた。
「……何?」
シグは、少しだけ間を置いた。
言葉を探している様子ではなかった。
ただ、呼吸を整えているように見えた。
「これから、世界がどうなるか分からない」
まっすぐな声だった。
余計な感情は感じられない。
リラは──その先を聞く前に、察してしまった。
「……ちょっと待って、シグ」
思わず言葉が出る。
「今?」
小さく笑うような、困ったような声。
シグは、首を横に振る。
「……今、だからこそだ」
短く、はっきりと。
「誓いたい」
シグは言葉を重ねる。
「僕は……君を、失いたくない」
リラの喉が、かすかに鳴る。
言葉が出てこない。
シグは、ゆっくりと続ける。
「前に、言っただろう」
「王立庭園を歩いたあの日。
祝福の音楽が流れる、あの場所で」
記憶が、静かに蘇る。
あの夜の空気。
灯りの色。
言葉にしきれなかった、不安と安らぎ。
「君が恐れる夜を──僕も一緒に歩く、と」
声は変わらない。
あの日と、同じ温度のままだった。
「その気持ちは、今も……これからも変わらない」
一度、呼吸を置く。
「リラ。
──ずっと側にいたい」
それは、願いではなく。
そうあろうと決めている人間の言葉だった。
「……僕と、結婚してくれないか」
静寂が落ちる。
風の音だけが、四人の間を通り抜ける。
リラは何も言えなかった。
驚きも、戸惑いも、怖さも。
全部が胸の中で絡まっている。
それでも。
ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
シグが、ここにいること。
自分の前にいて、共に生きていること。
それが何よりも確かな現実だった。
「……私も」
ようやく、声が出る。
小さく。
震えるように。
「私も……」
息を吸う。
「あなたと生きていきたい」
リラの目から、涙が一つ落ちる。
それ以上の言葉は、必要なかった。
シグの表情が、ほんの少しだけ緩む。
ヴィーラは静かに目を伏せた。
レオニスは何も言わない。ただ、二人をまっすぐ見ていた。
余計な言葉はなかった。
けれど、それで十分だった。
倉庫の片隅。
小さな机の周りで、それは確かに誓われた。
*
70人を超える人々が、いつものように倉庫の中に集まっていた。
皿の音も、笑い声も、まだ少し残っている。
けれど。
リラは机の前に立ったまま、すぐには口を開けなかった。
視線を落とし、息を一つ整える。
その様子に、少しずつ周囲のざわめきが静まっていく。
「……あのね」
やがて、リラは言った。
「みんなに、伝えなきゃいけないことがあるの」
その声には、いつもの軽さがなかった。
何人かが顔を上げる。
子供たちも、なんとなく騒ぐのをやめる。
空気がゆっくりと落ち着いていく。
リラは、一度だけ唇を噛んだ。
それから、はっきりと言う。
「およそ一週間後」
一拍。
「マグナレオールと……他国同盟軍の全面衝突が起きるわ」
言葉が落ちた瞬間。
空気が、止まった。
誰も、すぐには理解できなかった。
皿を持ったまま、固まっている者。
口を開きかけて、止まった者。
何人かは、意味を探すように周りを見る。
「……え?」
小さな声が漏れる。
「全面……衝突?」
「戦争……?」
ざわり、と波が広がる。
息が荒くなる音が、あちこちから聞こえる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「どこでだ?」
「ここは……大丈夫なの?」
声が重なり始める。
中には、顔色を悪くしてどこかへ駆け出す者もいた。
子供が、不安そうに大人の服を掴む。
リラは手をぎゅっと握りしめた。
「戦場が、どこになるかは分からない」
声を張る。
「ここが巻き込まれるかどうかも、まだ分からない」
全員がリラを見る。
その視線を、正面から受け止めて言う。
「だから、備えよう」
「いつでも動けるように、荷物をまとめておいて」
「食料も、分配の仕方も。ヴィーラの指示の元、変えていく」
少しだけ、声が震える。
それでも、止めるわけにはいかない。
「でも──」
一度、息を吸う。
「全員で、生きるのよ」
その一言で。
倉庫の中が、しんと静まり返った。
誰も、何も言えない。
泣き出す者もいない。
怒鳴る者もいない。
ただ、全員が言葉を失っていた。
あまりにも、現実が重すぎて。
リラは、何か続けようとして──口を開きかけて、閉じた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
その時。
後ろから、静かな声がした。
「……もう一つ」
ヴィーラだった。
全員の視線が、一斉に彼女に集まる。
ヴィーラは、まっすぐ前を見て言った。
「伝えなければならないことがあります」
短い間。
誰も、息をしない。
そして。
「リラとシグのお二人が……結婚することになりました」
「「…………え?」」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「嘘だろ!?」
「ほんとか!?」
「おめでとう!!」
空気が、一気に弾けた。
さっきまでの重さが、嘘みたいに吹き飛ぶ。
誰かが立ち上がる。
誰かが手を叩く。
子供たちが飛び跳ねる。
シグの背中を叩く者もいる。
「やったな!」
「おいリラ!まじか!」
「おめでとう!!」
リラは目を見開いたまま、固まっていた。
「ちょ、ちょっとヴィーラ……!」
思わず振り返る。
「今はそれどころじゃ……」
言い終わる前に。
人の波が押し寄せる。
「おめでとうございます!」
「良かったなあ!」
「めでたい!ほんとに!」
その中をかき分けるように、一人の女性が前に出てきた。
エマだった。
赤ん坊を抱いたまま、こちらへ向かって走ってくる。
そして。リラの胸へ飛び込んだ。
「リラ……」
声が震えていた。
「……おめでとう」
その肩が、小さく揺れている。
リラは、何も言えず。
ただ戸惑いながら、二人を包んだ。
周りを見渡す。
──誰も、戦争の話をしていない。
さっきまで……あんなに凍りついていたのに。
今は、笑っている。
喜んでいる。
祝っている。
その光景を見ながら、リラは思った。
──みんな、分かっている。
現実が、もう目の前まで来ていること。
それでも。
それでも、人は。
降ってきた小さな希望に、すがる。
リラは、ゆっくりと目を閉じた。
逃げたっていい。
それでも、生きていればいい。
生きて、生きて、生き延びて。
その先で、また笑えればいい。
「結婚式は!?」
突然、エリックが声を上げた。
「シグ!結婚式するんだろ!?」
「そうだよ!」
「まあ、素敵!」
「絶対やるべきだよ!」
一気に声が重なる。
お祭り騒ぎだった。
リラは慌てて手を振る。
「みんなちょっと待って!今はそれどころじゃ……!」
「何かあってからじゃ遅いのよ!」
必死にみんなに呼びかける。
「そんなことやってる場合じゃ──」
その時。
背後に、気配が立った。
ヴィーラだった。
ただ、そこに立っただけ。
それだけで、ざわめきがすっと消える。
リラも言葉を止めた。
ヴィーラは、静かに言う。
「理屈ではありません」
まっすぐ、リラを見る。
「リラ」
「結婚式を行いましょう。私が、先導します」
一瞬の静寂。
そして。
さっきよりも大きな歓声が、倉庫を揺らした。
「やるぞおおお!!」
「結婚式だ!!」
「準備しよう!!」
「いつだ!?」
誰かが叫ぶ。
「シグ!いつやる!?」
視線が一斉に集まる。
シグは少しだけ、目を閉じた。
それから、静かに言う。
「……一週間後がいい」
ざわめきが止まる。
「リラの、27歳の誕生日だ」
リラが、息を呑む。
前に一度、話したことがある。
大学の中庭で。ただの、他愛ない会話。
覚えていてくれるなんて、思ってもなかった。
そして。
その日が、確かに来るのだと。
胸の奥で、何かが静かに震えていた。
すいません。シグがプロポーズを先走ったため、結婚式まで辿り着きませんでした。
次回こそ、結婚式です。




