拠り所
噂は広がるのが早い。
”毎日ご飯を食べられる場所がある”
そんな話を頼りに、人は歩いてくる。
昼前になると、自然と人が集まってくるようになっていた。
ただ、気づけば足が向く。
そこは生活の中心になっていた。
広く使えるようにと改修された元倉庫の中には、長い机がいくつも並んでいる。まだ歪みの残っている床を踏みしめながら、人々がそれぞれの席へと散っていく。
「今日、席空いてる?」
「こっち空いてるぞ。子供たち詰めてくれ」
「エマ、ここ座りな」
そんな声が、あちこちから飛ぶ。
子供が走る。
大人が呼び止める。
皿の触れ合う音が、重なっていく。
いつの間にか、人数はかなり増えていた。
最初は40人ほどだった。
だが「毎日、食事がある場所がある」と噂が広がり、他の避難地から人が流れてきた。
気づけば、この場所は70人を超える大所帯になっていた。
最初にここへ来た頃は、机もこんなに必要なかった。
今は、並べても並べても足りないくらいだ。新しく来た者の顔も、もう珍しくなくなっている。
それでも、不思議と混乱はない。
誰がどこに座るか、誰が何を手伝うか。
言葉にしなくても、自然と形になっていく。
「リラ、お皿これでいい?」
声に振り向くと、シグが山のように重ねた木皿を抱えていた。
「ありがとう。そっちの机に置いてくれる?」
「了解。あ、エリック戻ってきてる」
「もう?」
入口の方を見ると、濡れた髪をそのままにしたエリックが、少し得意げな顔で桶を抱えて入ってくるところだった。
「今日は小さいの多いけど、数はあるよ!」
「わあ、すごい!すっかり釣り名人ね」
リラは笑って、桶の中を覗き込む。
銀色の魚が狭そうに押し合っていた。
「手、冷たくない?」
「もう、慣れた!」
エリックは胸を張る。
その後ろから別の男が入ってきて、言う。
「こいつ、朝から川に張り付いてたんだぞ。俺らが到着した頃には、もう何匹か釣ってた」
「だって魚は朝が一番動くって教わったし!」
誇らしげな声に、あちこちから笑いが漏れる。
「じゃあ、今日の夜は魚の煮込みだな」
奥から、低い声がした。
レオニスだった。
大きな鍋の前で、腕を組んで中身を見つめている。
「火、もう少し弱くしてくれ」
「はい!」
護衛の一人が慌てて火を調整する。
レオニスが料理をする姿に、最初はみんな少し驚いていた。
だが今では、当たり前の光景になっている。
無駄な言葉はほとんどない。
指示は短く、的確。
そうして出来上がる料理が、間違いなく美味い。
リラは早々に料理長を降ろされ、今は全体の調節と把握が主な仕事になっている。
ある村人曰く。
「リラの料理は美味いけど、健康的すぎる」
その言葉にむっとして少し口論になったのも、今では良い思い出だった。
「リラ」
背後から柔らかい声がかかる。
振り返ると、エマが立っていた。
腕の中には、あの時助けた赤ん坊がいる。
ずいぶんと大きくなっていた。
「おはよう。夜、ちゃんと眠れた?」
「はい。この子、今日はよく寝てくれて」
エマは小さく笑う。
その表情は、前よりもずっと穏やかだった。
「ここ、空いてる?」
「もちろん」
リラが椅子を引くと、近くにいた女性がすぐに布を敷いてくれる。
「ここなら風が当たらないから、赤ちゃんも寒くないよ」
「ありがとうございます」
エマは深く頭を下げた。
彼女の仕事は、赤ん坊を守ることだ。
全員が、それを大事な役目だと分かっている。
「リラ、ちょっと外の人と話してくる」
シグが声をかけてくる。
「新しく来た人?」
「うん。荷物の置き場所で少し揉めてるみたい」
「お願い」
「任せて」
軽く手を振って、シグは外へ出ていく。
その背中を見送りながら、リラは皿を並べ続ける。
「はい、これ子供たちの分ね」
「ありがとう!」
いつの間にか、子供たちが周りに集まっていた。
皿を受け取ると、嬉しそうに席へ戻っていく。
数が多い。
それでも、回っている。
やがて全員が席に着いた。
ざわざわとした音が、少しずつ落ち着いていく。
レオニスが大鍋を持って出てくる。
瞬間、場の空気が弾む。
「今日は魚だ!」
「やった!」
子供たちの声が弾ける。
皿に注がれる煮込みは、決して豪華ではない。
量も、それほど多くはない。
でも、湯気が立っている。
そして、温かい。
それだけで、十分すぎるほどだった。
全員に行き渡ったことを確認すると、リラが立ち上がる。
「みんな。今日も朝からお仕事お疲れ様」
子供たちが集まる机から、待ちきれないというようにお皿を叩く音が聞こえる。
「生きるために、食べましょう。
いただきます!」
「「いただきます!」」
食べ始める音が、あちこちで重なる。
しばらくすると、会話も戻ってくる。
「エリック、今日どこまで行ったんだ?」
「いつもより上流の方へ行ってみたんだ。網の張り方、昨日教わったから!」
「へえ、もうそんなことできるのか」
「別にすごくねーよ。網を張れば誰でも取れるし」
でも、誇らしげな顔が隠せていない。
隣にいた男が、エリックの頭をくしゃっと撫でた。
リラは、空いた席に腰を下ろす。
隣から、誰かが話しかけてくる。
「リラ、足大丈夫?」
「うん、平気。ちょっと昨日は歩きすぎたかな」
「おいリラ、あんまり無理すんなよ」
「ありがとう」
そんな何気ない言葉が、自然に飛んでくる。
すっかりもう、日常だった。
ここで、生きている。
食事が終わる頃には、みんなの表情は少しだけ柔らいでいる。
空腹が満たされると、それだけで心に余裕が生まれる。
食器を片付ける者。
水を運ぶ者。
火を整える者。
誰に言われるでもなく、体が動く。
そして、いつの間にかリラのいる机の周りに人が集まり始めていた。
みんなこの時間が好きだった。
今日、何を食べられるのか。
それをみんなで、一緒に決める時間だから。
リラは軽く手を叩いた。
「夜ご飯会議、はじめまーす!」
あちこちから小さな笑いが漏れる。
少し前まで、その日食べられるかすら分からなかった人たちだ。
こうして当たり前のように“夜ご飯”の話ができること自体が、もう奇跡みたいなものだった。
その時、厨房の奥からレオニスが顔を出した。
腕を組んだまま、いつもの無表情で言う。
「じゃがいもが、かなりの量手に入った」
一瞬、ざわりと空気が動く。
「畑仕事、順調みたいだな。優秀だ」
護衛の一人が胸を張る。
「そりゃもう。最近は子供たちも手伝ってくれてますから」
子供たちは誇らしげに胸を張る。
レオニスは頷き、続けた。
「魚もある。
さっきエリックが持ってきたやつだ」
その名前が出た瞬間、あちこちから声が上がる。
「おお!」
「さすがだな!」
「今日は魚か!」
レオニスは静かに言った。
「魚と芋で、煮込みが作れる」
少しだけ、間を置く。
「量も出せる。全員、腹一杯食えるかもしれない……久しぶりに」
その言葉が落ちた瞬間だった。
空気が、一気に明るくなる。
「本当か!?」
「久しぶりに満腹になれるのか!?」
「最高じゃないか!」
誰かが机を叩いた。
「やったな!」
別の誰かが笑う。
「エリック、英雄だぞお前!」
当のエリックは、少し離れたところで照れくさそうに頭をかいていた。
リラも思わず笑っている。
「魚と芋の煮込みかあ……いいわね。絶対美味しい」
そこから、会話は一気に広がった。
「塩、まだあったっけ?」
「香草は?この前採ってきたやつがまだあったよな」
「良いですね……少し入れたら香りも出ると思います」
「パン浸したらもう最高なんじゃないか?」
誰かが言う。
「煮込みってことは、ちょっと長めに火にかける感じか」
別の誰かが答える。
「ええ……柔らかくなるまでね」
「美味そうだな……俺、もう腹が減ってきたよ」
その言葉に、誰かがまた笑う。
レオニスが短く頷いた。
「任せろ」
厨房のことにおいては、彼が一番頼れる存在だった。
少しして。
ぽつりと。
誰かが呟いた。
「魚も良いけど……ビーフシチュー、食べたいな」
一瞬だけ、静かになった。
そして。
「おい、それ反則だろ」
「ちょっとやめてよ!」
「そんなの言われたら食いたくなるだろうが!」
笑いが広がる。
リラも、思わず声を上げた。
「ビーフシチュー!?いいね、それ!」
「肉たっぷりで、とろとろで……」
言いながら、想像してしまう。
みんなも同じだった。
「パンにつけてさ」
「温かいやつな」
「……泣くやつ出てくるぞ、それ」
夢みたいな話だった。
だからこそ、盛り上がる。
そして。
自然と、みんなの視線が一か所に集まっていった。
机の端。
紙を何枚も並べて、何かを書き込んでいる人物。
ヴィーラだった。
食料の量。
保存期間。
消費の速度。
全部、彼女が把握し、調整している。
これだけの大所帯が毎日ご飯を食べられているのは、彼女の力によるものが大きかった。
全員が、固唾を飲んで見守る。
ヴィーラはしばらく何も言わず、計算を続けていた。
やがて。
ゆっくりと、首を振る。
小さく。でも、はっきりと。
その仕草を見ただけで、何人かが肩を落とした。
リラが代表するように声をかける。
「ヴィーラ。
……難しい?」
ヴィーラは顔を上げる。
「今ある乾燥肉は、あと一ヶ月は持たせる必要があります」
静かな声だった。
「次の肉が、いつ手に入るか分かりません」
「それに……」
紙の上を指でなぞる。
「栽培用の種が減ってきています。今は野菜を優先した方が、安全です」
「そっか」
それだけ言って、すぐに微笑む。
「分かった。いつもありがとう、ヴィーラ」
それ以上は聞かない。
食い下がらない。
リラは振り返って、みんなに言った。
「今日は、魚と芋の煮込みね!」
大人たちは、ただ頷くだけだった。
文句を言う者はいない。
みんな、分かっているから。
ここがギリギリで回っている場所だということを。
でも。
「えーーー!」
子供たちだけが、声を上げる。
「ビーフシチューがよかった!」
「肉食べたいー!」
「絶対そっちがいい!」
周りの大人が笑いながらなだめる。
「わがまま言わないの」
「魚だってうまいぞ」
「毎日ご飯が食べられるだけ、ありがたいことなのよ」
少しだけ、寂しくて。
少しだけ、温かい時間だった。
それでも子供たちは頬を膨らませたままだ。
リラはその様子を見て、少しだけ胸が締め付けられる。
それでも、言葉は出さない。
ここで何かを簡単に約束してはいけない。
そんな空気が、もう大人たちには染みついていた。
少しだけ、静かになる。
「……ビーフシチュー、食べたかったなぁ」
誰かが、諦めきれないと言うように小さく呟いた。
その時だった。
扉が勢いよく開いた。
「リラ!!」
大声が響く。
「鹿が獲れたぞ!!」
ガレルだった。
その後ろから、三人がかりで何かを運び込んでくる。
大きな体。
立派な角。
村で一番体の大きいガレルよりも巨大な鹿。
一瞬、全員が固まる。
次の瞬間。
「うおおおお!!」
歓声が爆発した。
「すごい!!」
「本物だ!!」
「お肉だ!!」
子供も大人も、一斉に立ち上がる。
リラも、思わず声を上げた。
「すごい!!いつぶり!?」
ガレルが胸を張る。
「夜中から山張っててな。ようやく仕留めた」
「四人がかりでやっと運べたんだ」
息を切らしながら笑う。
その時。
「皆さん、お待ちください!」
ヴィーラの声が響いた。
ざわめきが、ぴたりと止まる。
「これだけの量の肉です」
「保存を優先しなければ、後で困ることになります」
真剣な顔だった。
リラが、すぐに近づく。
「ヴィーラ」
「はい」
「教えて」
鹿を見ながら言う。
「これ、どのくらい保存できたら……あとは好きにしてもいい?」
ヴィーラは一瞬黙り、すぐに紙を取り出す。
計算が始まる。
指が、止まらない。
周囲が固唾をのんで見守る。
やがて、顔を上げた。
「……少なくとも、17キロ分は必要です」
リラは、黙ってガレルを見る。
ガレルは、にやりと笑った。
「こいつはな」
鹿の体を軽く叩く。
「70キロはある大物だ」
「食える部分だけでも、30キロは確実だぜ」
一瞬、静寂。
次の瞬間。
歓声が、さっきよりも大きく弾けた。
「やったあああ!!」
「肉だ!!肉だ!!」
「ビーフシチューできる!!」
誰かがシグに飛びつく。
シグが笑いながら受け止める。
レオニスですら、口元を緩めていた。
誰かと手を叩き合っている者もいる。
ヴィーラが、困ったように笑っていた。
歓声の中、リラがそっと隣に立つ。
「ヴィーラ」
「はい」
「こんな時だからこそ」
小さく、囁く。
「たまには、贅沢もしないとね」
ヴィーラは、少しだけ目を細めた。
そして、小さく頷いた。
*
気づけば外は暗くなり、倉庫の中には煮込みの匂いが満ち始めていた。
外から、小さく声がした。
最初は誰も気に留めなかった。
中ではまだ、鹿の肉の話で盛り上がっている。
「絶対、煮込んだ方がいいって!」
「いや焼こう!焼いた方が旨いだろ!」
「全部やろうぜ全部!」
笑い声が重なる。
子供たちが跳ね回っている。
誰かが鍋を叩いて、叱られている。
その音に混じって、もう一度。
「……すまない」
扉の外から、落ち着いた男の声がした。
シグが顔を上げた。
厨房の入口近くに立っていた彼は、少しだけ耳を澄ます。
また声がする。
「ここに、リラ・ヴェルノアという女性がいると聞いた」
シグはゆっくり立ち上がった。
「ちょっと外、見てくる」
誰に言うでもなくそう言って、扉の方へ向かう。
背後では、まだ笑い声が続いている。
誰も気づいていない。
扉を開けると、外の空気は少し冷たかった。
夕方の光が傾いて、地面に長い影を落としている。
そこに、男が一人立っていた。
旅装のまま。
荷を下ろしたばかりのように、足元が少しだけ荒れている。
背後には馬が一頭。
簡素な荷物がくくりつけられていた。
男は武器を持っていなかった。
手は、体の横に下ろされたまま。
構えもない。
ただ、真っ直ぐこちらを見ていた。
疲れている顔だった。
けれど、目だけは妙に静かだった。
「……リラ・ヴェルノアは、いるだろうか」
低い声だった。
シグは一瞬だけ、男の全身を見た。
怪我はない。
敵意も感じられない。
ただ、長く歩いてきた人間の空気を纏っている。
「……誰だ?」
「……彼女の同僚だ」
男は、少しだけ間を置いてから言った。
「名前は、エリオ」
シグは少しだけ目を細める。
その名前に、何か引っかかるような感覚があった。
けれど、それを言葉にする前に思った。
——この人は、敵じゃない。
理由は分からない。
ただの直感だった。
「……ちょっと待っててくれ」
それだけ言って、シグは中へ戻った。
扉を閉めると、また一気に熱と匂いと、声が押し寄せてくる。
「シグ!見て見て!角、こんなでかい!」
子供が鹿の角にぶら下がっている。
「危ないって!落ちるぞ!」
誰かが笑っている。
鍋の中では肉が煮え始めて、いい匂いが立ち込めている。
シグは少しだけ立ち止まって、その光景を見た。
それから、リラを探す。
少し離れた机の端。
皆から少しだけ離れたところに、彼女は座っていた。
「リラ」
名前を呼ぶ。
その瞬間だった。
リラの背中が、ぴたりと止まった。
不自然なくらいに。
シグは一歩近づいて、後ろから顔を覗き込む。
リラは、口いっぱいにビーフシチューを頬張っていた。
ほっぺたが膨らんでいる。
目が、完全に見開かれていた。
噛むのを止めたまま、固まっている。
しばらく、二人とも黙る。
シグは、小さく息を吐いた。
「……毎日、頑張ってたもんな」
ぽつりと、そう言った。
リラの耳が、みるみる赤くなる。
慌てて飲み込む。
「ち、違うの!これ、味見で!」
「うん」
「ほんとに!」
「うん」
シグは、少しだけ笑った。
そして、表情を戻す。
「外に、知り合いが来てる」
リラの動きが止まる。
「……え?」
「エリオって、名乗ってた」
その一言で。
さっきまでの空気が、完全に消える。
リラの目の奥が、すっと冷える。
すぐに立ち上がる。
「どこ?」
「外」
それだけ聞いて、リラは小走りで扉へ向かった。
その様子に、少し離れた場所にいたヴィーラが顔を上げる。
レオニスも、動きを止める。
空気が、変わったのが分かった。
リラが扉を開けて外に出る。
夕方の光が、目に入る。
そこに、男が立っていた。
少しやつれた顔。
長く歩いてきたような服。
けれど、その立ち方だけは変わっていない。
リラは、足を止めた。
男が、こちらを見た。
目が合う。
しばらく、何も言葉が出なかった。
風が、少しだけ吹く。
男が口を開いた。
「……本当に、生きていたか」
それだけだった。
リラは、何も答えない。
ただ、立っている。
男は少しだけ目を閉じた。
ほんの一瞬、力が抜ける。
それから、すぐに顔を上げた。
「すまない」
低く言う。
「ここを見つけるのに……かなりの時間を要してしまった」
その声は、少しだけ掠れていた。
リラは、まだ何も言えない。
嫌な予感が、背中をなぞる。
胸の奥が、じわりと冷える。
男は続ける。
「もう、始まってしまう」
その言葉を聞いた瞬間。
リラの背筋が、凍った。
まだ、何も聞いていないのに。
でも、分かった。
何かが、決定的に動いた。
エリオは、静かに言う。
「およそ一週間後だ」
一拍。
「マグナレオールと、他三国同盟の全面衝突が起こる」
リラの目が、大きく見開かれた。
次回。
結婚式です。




