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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
名を失った均衡世界
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消失の行進

祝福の音楽が、街に響く。


ただ──祈るように。

 夜明け前の王都。

 まだ、街は静かだった。


 城門へと続く道を、エリオは一人で歩いていた。

 長い上着の(すそ)が、冷たい風に揺れる。


 手綱(たづな)を引いた馬が一頭。

 背には、最低限の荷物と食料がくくりつけられている。


 後ろから、いくつかの足音が聞こえた。


「……エリオ様」


 立ち止まらない。


「どこへ、行かれるんですか」


 返事はない。


 さらに声が重なる。


「この状況で、王都を離れるなんて。

 冗談……ですよね」


 エリオは、城門の前で足を止めた。

 振り返らない。


「今、何が起きているか……」


「分かっているはずだ」


 部下の声は、次第に荒くなる。


「兵は集められています。

 今日が、出発の日です」


「逃げるんですか」


 その言葉だけが、はっきりと落ちた。


徴収(ちょうしゅう)された若者だっている。

 彼らは逃げていない。……エリオ様、あなただけだ」


 エリオの肩が、わずかに揺れた。


 だが、振り返らない。


 何も言わない。


 唇を強く噛みしめていた。


「……何か言ってください」


「俺たちは──

 あなたの命令を待ってるんです」


 エリオはゆっくりと息を吐く。


 そして、言った。


「……生きろ」


 一言。


 それ以上の言葉は、続かない。


「……は?」


 誰かが、(ほう)けた声を出す。


「それだけ……?」


 エリオは答えない。


 顔も、向けない。


 ただ、城門の外へ足を踏み出そうとする。


「待ってください!」


 部下が叫ぶ。


「本当に、逃げるのですか」


 エリオは、立ち止まらなかった。


 唇を噛みしめたまま。

 (こぶし)を、強く握ったまま。


 背中を向ける。


 城門が、ゆっくりと開く。


「……もう、いい」


 別の部下が、低く言った。


「分かったよ」


「エリオ様は……ここで戦う気はないんだ」


 それ以上、誰も追わなかった。


 もう誰も、引き止めなかった。


 城門の外へ出たエリオの姿は、

 朝霧(あさぎり)の中に溶けていく。


 重い音を立てて、門が閉まった。


 その場に残された部下の一人が、吐き捨てる。


「……臆病者(おくびょうもの)だ」


 否定する者は、いなかった。


 *


 高く、軽やかな音。

 何重にも重なったラッパの旋律(センリツ)が、大通りいっぱいに響き渡っている。


 音楽が、鳴っていた。


 太鼓(たいこ)が規則正しく鳴る。

 一定の間隔で刻まれる低い振動が、足元を震わせる。


 王城の屋根にはノクスヴァイの(はた)が揺れている。

 色鮮やかな布が、ゆったりと風に(ひるがえ)っていた。


 人が集まっている。


 大通りの両脇には、何重にも人垣ができていた。

 子供、大人、老人。

 道の端から端まで、隙間がないほどに埋まっている。


 誰かが言った。


「始まる……」


 それを合図に、音楽が一段と大きくなった。


 ラッパが鳴り上がる。

 太鼓のリズムが速くなる。

 管楽器の音が重なり合い、空気が震える。


 (はな)やかな音だった。


 まるで、祝福をしているかのような。


 やがて大通りの奥から、最初の隊列が姿を現した。


 先頭に立つのは、音楽隊だった。

 揃った衣装。

 磨かれた楽器。

 きっちりと揃った足並み。


 その後ろに、旗を持った兵が続く。


 整然として、乱れのない行進。


 身に(まと)った鎧が、陽の光を反射している。

 槍の刃先が、空を切るように揺れる。


 誰かが、旗を持っていた。


 通りの脇に立つ民衆の中。

 あちこちで、国旗が掲げられている。


 高く掲げられたまま。

 ただ、風に揺れているだけ。


 音楽は鳴っている。


 太鼓も鳴っている。


 それなのに。


 ──誰も、笑っていなかった。


 人々はただ、見入っていた。


 足並みが揃った行進は、見事だった。

 兵たちはみんな、前を向いて歩いている。


 行進。


 ただそれだけの光景。


 ラッパの旋律が、少しだけぼやけて聞こえる。


 代わりに別の音が耳に入る。


 誰かが、名前を呼んでいた。


 何度も、何度も。


 それは音楽にかき消されて、

 言葉としては響かない。


 でも、それが叫びだということだけは分かる。


 列の脇に女が立っていた。


 兵に向かって、必死に手を伸ばしている。


 何かを叫んでいる。


 口が、大きく動いていた。


 その先を、若い兵が通り過ぎる。


 その若い兵は、最後まで前を向いたままだった。


 一瞬だけ、視線が揺れた気がした。


 隣では、老人が頭を下げていた。


 深く、祈るように。

 誰に向けた祈りかも分からないまま。


 子供が母親の(そで)を引いている。


「ねえ」


 何かを聞く。


 母親は、答えない。


 ただ、兵の列を見つめている。


 その目には、何も映っていないようにも見えた。


 音楽が、また高くなった。


 ラッパが鳴り上がる。


 祝福の旋律。

 勝利ための行進。


 そういう音のはずだ。


 けれど、

 人々が掲げる旗は、風に揺れているだけだった。


 誰一人として、それを振る者はいなかった。


 持っているだけ。


 握りしめたまま、動かさない。


 押し殺された声。

 誰かの名前を呼ぶ声。

 小さく泣く声。


 そして、歯を食いしばる音。


 それらが、祝福の音楽によって全て消されていた。


 拍手も歓声も無い。


 大通りの真ん中を、兵たちが進んでいく。


 若い顔が多かった。

 まだ、(おさな)さが残る顔が。


 真っ直ぐ前を見ている者。

 唇を引き結んでいる者。

 目を閉じるように、祈るように歩いている者。


 中には、泣いている者もいた。


 涙が(ほほ)を伝っている。

 拭おうともせず、そのまま歩いている。


 鎧の音が、重なって響く。


 規則正しく。


 誰かが言った。


「合同訓練だって話だよ」


 すぐ隣から、別の声。


三国(さんごく)で、やるらしい」


「……どこに行くの?」


「分からない。誰も知らなかった」


「帰りは?」


 少しの沈黙。


「……いつ戻るかなんて、私たちには分からないよ」


 そんな会話も、すぐに音楽に飲み込まれた。


 列は長かった。

 どこまで続いているか分からないほどに。


 人々の目の前を、次々と兵が通り過ぎていく。


 淡々とした行進を前に、残された人々は理解した。


 止められない、と。


 空は晴れていた。

 風も穏やかだった。


 旗は、ゆったりと揺れている。


 兵たちは、歩き続ける。


 足を止めない、振り返りもしない。


 前だけを見ている。


 どこへ向かうのかも分からないまま。


 *


 音楽は鳴っているのに、誰も笑っていなかった。


 行進は、まだ続いている。


 ただ前へ、前へと進んでいく。


 その光景を大通りの端から見ている者がいた。


 ルシアは、人混みの中に立っていた。


 店を閉めて、見に来た。

 理由は特にない。


 でも、来なければいけないような気がした。


 音楽が遠い。


 耳が痛いくらいに鳴っているはずなのに、

 布越しに聞いているみたいにぼやけている。


 太鼓の音だけが、胸の奥で(にぶ)く響いていた。


 人が、ぎっしりと並んでいる。


 誰もが前を向いている。ルシアに注意を払うものはいない。


 旗を持っている。

 でも、誰一人として振っていない。


 ルシアはその中で、何も考えずに兵の列を見ていた。


 知らない顔ばかりだった。


 若い顔。

 疲れたような顔。

 覚悟が(にじ)む顔。


 そして。


 その中に、見覚えのある顔を見つけた。


 ──あ。


 思考が、止まった。


 歩いていた。


 いつもの服じゃない。

 鎧を着ている。


 槍を持っている。


 でも。


 間違えるはずがない。


 いつも店に来てくれていた、あの人だった。


 用もないのに顔を出して。

 忙しそうだと手伝おうとして。

 でも、決して一線は越えない。


 あの、少しだけ寂しそうに笑う人。


 確かに最近、姿を見かけていなかった。


 列の中に、いた。


 ルシアの時間は、そこで止まった。


 声が出ない。

 呼びたいのに、呼べない。


 音楽がさらに遠くなる。


 彼は前を向いて歩いていた。


 その表情は、よく見えない。


 でも、少しだけ。

 ほんの少しだけ。


 視線が、こちらに動いた。


 目が合った。


 その瞬間。


 彼は、目を()せた。


 ただ、ほんの一瞬だけ視線を落として、

 また前を向いて歩き出した。


 隊列は、流れていく。

 彼の姿はもう見えなかった。


 音楽が鳴っている。


 ラッパが高く響く。


 ──動けなかった。


 呼び止めればいいのに。


 名前を呼べばよかったのに。


 でも、分かっていた。


 きっと──止められない。


 次第に行進が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 音楽も、少しずつ離れていく。


 最後の隊列が正門をくぐる頃には、

 もう太鼓の音しか聞こえなかった。


 それも、やがて消えた。


 大通りに残された人々。


 誰も、すぐには動けなかった。


 旗を持ったまま、

 立ち尽くしている。


 泣いている人もいる。

 声を出さずに、静かに泣いている。


 ルシアは、しばらくそこに立っていた。


 胸の奥が妙に静かだった。


 何かが……もう戻らない場所へ行ってしまった気がした。


 ふと。


 自分の手が、少し震えていることに気づく。


 握りしめていたのは、店の(かぎ)だった。


 強く握りすぎて、指が白くなっている。


 ゆっくりと、息を吐く。


 顔を上げる。


 空は、変わらず晴れていた。


 旗だけが、風に揺れている。


 その光景を見ながら、ルシアは小さく思った。


 ──あの人、甘いお菓子が好きだったな。


 それだけが、頭に浮かんだ。

”殿下”の記載を変更しました。

エリオは貴族ですが、王族ではありません。失礼しました。

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