「認識差」
生きろと叫ばれた少女、ヴィーラ。
彼女にとってそれは、呪いにも近いのかもしれません。
マグナレオール国境付近の廃屋。
誰も喋らない。
廃屋の中には、人の呼吸だけがあった。
かちゃり、と鎧の金具が触れ合う音にすら過敏になる。
外から、足音が近づいて来る。
扉の隙間から、護衛の一人が滑り込んできた。
「レオニス。外は問題ない。
追手も見えない。……もうすぐ、出られる」
レオニスと呼ばれた男が、短く頷く。
ヴィーラを含めて、12人。
その中で、彼だけが自然と中央に立っていた。
レオニスは、この中でも最年長だった。
均衡会議の場でも、常にヴィーラのすぐ後ろに立っていた者。
誰よりも早く異変に気づき、
誰よりも静かに、彼女を支え続けてきた男だ。
ヴィーラは、その背中を見ていた。
あの場でも、この夜も。
彼は何も言わずに、ただそばに居てくれる事を知っている。
「……分かった。夜明けと同時に出る」
そう言ってから。
レオニスは、ゆっくりとヴィーラの方を見た。
「……ヴィーラ」
その呼び方は、どこかいつもと違っている。
「選べ」
短い声だった。
ヴィーラは顔を上げる。
「……え?」
レオニスは、一歩前に出る。
「マグナレオールに戻り、戦い続けるか。
それとも俺たちと一緒に国境を超え、どこか遠くへ消えるか」
「……どういう意味?」
誰も口を挟まない。
いつもの彼らとは違う。冗談めいた空気も、冷やかしの言葉もない。
「どちらを選んでも、
俺たちは、命をかけてお前を守る」
その言葉が落ちると共に、空気が一段重くなった。
沈黙が続く。
誰も「無理しなくていい」と言ってくれない。
ヴィーラは、理解した。
試されている。
民を救う王となるか。それとも、ただの少女として消えていくか。
思考が上手く回らない。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
逃げたい。
もう何も背負いたくない。
正直……どこかで死ねたら、それで楽なのにとも思った。
戦争は始まってしまった。
その責任すら取らず逃げ出した私を──みんなは、なぜ助けてくれたのか。
悩んでも悩んでも、分からないままだった。
でも……分かることもある。
私は、マグナレオールの民を愛している。
そして私は、生きなければならない。民に、生かされたから。
だから、たとえ恨まれたとしても……。
責任を、果たす。
今度こそ。
ヴィーラは、ゆっくりと息を吸った。
「マグナレオールの近くに潜伏します。
ここからほど近い、ヴァルデンの連合領域へ。時が来るまで」
決断に対し、誰も反応を示さなかった。
ただ、レオニスだけが何も言わずに頭を垂れる。
「……そろそろ、出発しましょう」
ヴィーラは言った。
だが、誰も動かない。
「……どうしたの?」
その問いに答えず。
護衛たちは、レオニスの軽く手を振った動作によって、一斉に跪いた。
床に、鎧が触れる音が重なって響く。
ヴィーラの思考が止まる。
「……え?」
レオニスが、頭を下げたまま言う。
「……ヴィーラ様」
そう呼ばれただけで、背筋が凍った。
「俺たちは、今まで。
命に代えても、あなたを守ると誓ってきました」
「……訂正します」
顔を上げる。
その目は、いつものヴィーラを見る目とは異なっていた。
「俺たちは、死なずに」
「生き続けて、あなたを支え続ける」
「盾となり、剣となり──」
「あなたの覚悟を、
最後まで共に背負う存在として在り続ける」
「俺たちはあなたを、王にする」
ヴィーラは、言葉を失った。
護衛たちの視線は揺れなかった。
その沈黙の中で、ヴィーラは悟る。
もう、自分は守られるだけの存在ではなくなったのだと。
ヴィーラは、ゆっくりと前へ出た。
「……ヴィーラ・アルゲンフィストとして誓います」
その声に、もう少女はいない。
「この世界から」
「政治から」
「降りかかる全ての厄災から」
「未来永劫。私のやり方で、あなたたちを守る」
「──必ず」
誰も歓声を上げない。
夜明け前の静寂の中で。
人知れず──
新しい王が、誕生していた。
*
国境を越えて、四日が経っていた。
正確には、越えた瞬間から時間を数える余裕など、誰にもなかった。
追撃の可能性、検問、巡回兵。
それらを避けながら進む。
食料は、二日目の朝に尽きた。
水は、三日目の夜に底をついた。
それ以降は、
喉の渇きと、
足の痛みと、
眠気だけが、現実だった。
ほんの一秒でも気が抜けない。
それでも、誰も弱音を吐かなかった。
吐いたところで、何も変わらない。
森を抜け、丘を越え、名前も知らない道を歩き続ける。
夜は火を焚かず、互いの体温だけを頼りに身を寄せた。
眠ったかどうかも分からないまま、また歩く。
王族として鍛えられてはいたが、
戦場を逃げるような行軍を想定した訓練など、ない。
足の裏は擦り切れ、感覚がなくなり始めている。
ヴィーラの足取りは、すでに限界に近かった。
それでも、止まらなかった。
今度こそ責任を果たすと、誓ったのだから。
前に、進み続ける。
「……みんな、もう少しだ」
久しぶりに口を開いたのは、レオニスだった。
護衛の中で最も冷静で、
最も無駄な言葉を使わない男。
彼は地形を観察していた。
風の流れと、土の匂い。
「この先に、人の生活圏があるはずだ」
誰も、感情を出せなかった。
本当なら泣いて喜びたかったのに。
でも、安易に希望に縋れない。
希望が幻想だった時、再度立ち上がる気力などなかったから。
だが。
しばらく歩いた先で、
それは突然、視界に現れた。
煙。
まっすぐに立ち上る、生活の匂い。
次に見えたのは、
木造の家屋と、畑の輪郭。
村だった。
誰も声を発せなかった。
信じられなかったのだ。
戦場ではない場所が、まだこの地域に残っていることが。
そして、同時に。
とてつもない疲労が、全員を襲う。
ヴィーラは、その場で膝をつきそうになった。
足が、限界だった。
緊張が切れた瞬間、身体が急に現実を思い出した。
レオニスが、無言で彼女を支える。
「……あれが」
ヴィーラは、かすれた声で言う。
「……生きている人たちの、場所……」
その言葉は誰かに向けたというより、
自分自身への確認だった。
ここは、戦場じゃない。
処刑台もない。
兵もいない。
ただ、人が生きているだけの場所。
それだけのことなのに。
涙が出そうになるほど、遠い世界に感じた。
ヴィーラたちが倒れ込みそうになっている間に、村の入り口で動きがあった。
数人の男たちが、こちらを見ている。
農具。
簡易武器。
警戒の姿勢。
敵だ、と判断された。
レオニスは、即座に手を上げた。
「みんな……武器を下ろせ」
護衛たちが、一斉に従う。
剣を鞘に収め、槍を地面に置く。
レオニスが、かすれた声を張り上げる。
「戦闘の意思は、無い」
村人たちは動かない。
距離は、まだ遠い。
だが空気は張り詰めている。
戦争の匂いを、
彼らも嗅ぎ取っていた。
ヴィーラは、一歩前に出た。
喉が渇いて、声が出ない。
それでも、無理やり息を吸う。
「……私たちは、
戦うつもりはありません」
「少しだけでも……。
休息を、取らせていただけないでしょうか」
その瞬間。
村の奥から、もう一人。
人影が、こちらへ走ってきた。
その顔を見た瞬間、
ヴィーラの思考が、完全に止まった。
声をかけられた。
「……ヴィーラ様?」
その声。
その顔。
「……シグ・レイグラード……?」
ヴィーラは、思わず名を呼んでいた。
シグ・レイグラード。
死んだと、聞いていた。
「……ヴィーラ様。なぜあなたが、ここに?」
王族が。
護衛数名だけを連れて。
国境の外の、こんな村にいる。
(……どういう状況だ……?)
理由は分からない。
だが、まともじゃないことだけは分かる。
その時、村人たちがざわめき始めた。
「知り合いなのか?」
「今、シグの名前を呼んだぞ」
「……どこの人間だ?」
空気が、わずかに張り詰める。
まずい。
ここでマグナレオールの人間だと悟られたら、
この場は一瞬で敵対に傾く。
シグは、一度だけ息を整えてから言った。
「……事情は分からない」
正直な言葉だった。
「でも、少なくとも……この人たちは、敵じゃないよ」
村人たちの視線が、シグに集まる。
だが、
完全には信じきれない。
その視線が、次に向かったのは──リラだった。
村の治療場に立つ少女。
今、この村で最も信頼されている存在。
リラは、何も言わずにシグを見る。
ほんの一瞬。
視線が交わる。
シグは、何も説明しない。
ただ、黙って待っている。
リラは、
かすかに頷いた。
それで十分だった。
「大丈夫……敵じゃないよ。
みんな、武器を下ろして」
その言葉をきっかけに、
一人、また一人と武器が下がっていく。
「……シグとリラが大丈夫だって言うなら」
誰かがそう呟いた。
ヴィーラの目が、細くなる。
村人たちが徐々に村へ戻っていき、リラとシグだけが残された。
ヴィーラがゆっくりと、リラの方を向いた。
その目に、奇妙な感情が宿る。
怒りでもない、恐怖でもない。
もっと深い、違和感。
「……やはり」
静かに、言う。
「あなたが……リラ・ヴェルノア」
リラの呼吸が、一瞬止まる。
「……世界の異変の、中心にいた者ですね」
その言葉を投げた瞬間、受け身も取れずにヴィーラが崩れ落ちた。
*
意識が、ゆっくりと浮上していく。
何かを絞って水が落ちる音と、誰かの笑い声。
次に、匂いを感じる。
薬草と、美味しそうなスープの匂い。
「……良かった」
耳元で声がした。
「そろそろ、口に野菜を捻じ込むところだったのよ」
ヴィーラは、ぼんやりと目を開けた。
見知らぬ部屋。
覆い被さるように、女性が覗き込んできていた。
「……」
言葉が出ない。
その人は一瞬だけ表情を固めてから、苦笑した。
「あ、今のは忘れて……」
そう言って、声を落とす。
「ここは村の治療場。あなた、あそこで倒れたのよ」
ヴィーラは、ゆっくりと視線を動かす。
ベッドの横には、椅子に腰掛けたレオニスがいた。
鎧は外し、剣も置き、ただ静かに目を閉じている。
守るように、待っている。
「シグは、ここにはいないわ」
リラは小声で続ける。
「ここは……私たちの住まいから、少し離れてる。
あなたが歩けるようになったら、そこへ招待するわ」
その声は、あくまで穏やかだった。
けれどどこか──張り詰めている。
その夜。
レオニスに支えられながら、ヴィーラは歩いた。
護衛たちも、無言で続く。
村の奥。
灯りの少ない、簡素な家。
扉を叩くとすぐにリラが歓迎してくれ、ヴィーラは即席の簡易ベッドに座らされた。
レオニスは壁際に立ったまま動かない。
護衛たちは部屋の外で待機だ。
最初に沈黙を破ったのは、リラだった。
「……まずは、自己紹介からにしましょう」
穏やかな声だったが、距離を測るような響きがあった。
「私はリラ・ヴェルノア。
少し前にこの村の人たちに拾って貰って、今は治療と物資の管理をしているわ」
続いて、シグの方をちらりと見る。
「シグのことは……知ってるのよね」
「……」
シグは、何も発さない。
リラの視線が、ヴィーラとレオニスに戻る。
「あなたは……」
「ヴィーラ・アルゲンフィストです」
名を告げた瞬間、シグの目がわずかに揺れた。
「……マグナレオール王族、第五位継承権者」
その声は、凛としていた。
レオニスが一歩前に出る。
「護衛長、レオニス。
外の奴らも、全員ヴィーラ様の護衛です」
リラはゆっくりと頷いた。
それから、核心に踏み込む。
「……教えて」
声音が、少しだけ低くなる。
「あなたたちは、なぜここへ逃げてきたの?」
「世界は……今、どうなっているの?」
問いは柔らかいが、逃げ場を与えない。
この場の主導権が、完全にリラが握っていた。
「……異変は、破壊から始まりました」
ヴィーラの一言で、空気が変わる。
「各地で、同時に起きた。規模も、範囲も……世界が混乱に呑まれました。
そしてそのうち……風向き、潮流、魔力の流れ……世界そのものが、少しずつ歪み始めて」
リラとシグは、黙って聞いている。
「それが各国で問題になり──どこからか、原因はマグナレオールにあるという噂が流れ始めたんです」
「マグナレオールは沈黙を続けました。
結果、均衡会議が開かれて──私が代表としてその場に立った」
「……そして」
一瞬、ヴィーラの声が詰まる。
「セルル・バルドレインが、殺されました」
リラの指が、ぴくりと動いた。
「犯人が誰なのか、分かりません。
ですが、私たちだけは攻撃を受けなかった」
「私たちは、戦争の責任を負わされたんです」
リラの顔から、血の気が引く。
「……え?」
ヴィーラは、視線を逸らさなかった。
「私は……戦争を止められなかった罪によって」
「……処刑される予定でした」
続く言葉は、感情が隠しきれていなかった。
「民と護衛たちが……助けてくれた」
「やっとの思いで、逃げてきたのです」
部屋の空気が、凍りつく。
リラは何度か口を開こうとして、閉じた。
代わりに、シグが問いかける。
「……じゃあ、今世界で流れてる噂は」
「……はい」
ヴィーラは頷く。
「リラ・ヴェルノアを思想の象徴とした思想運動が、
各国で拡散しています」
「目的も……実態も、不明です。
ただ彼らは、あなたを象徴として崇めて、マグナレオールを断罪せよと叫び続けている」
「そして世界が荒らされて……衝突は、過激さを増してきています」
沈黙。
リラは、言葉を失っていた。
「……誰がやっているのかは?」
シグが聞く。
「何も分かっていません。
どこで、誰が、どうやって……」
「分かっているのは」
ヴィーラは言う。
「マグナレオールが罪を被り」
「そして、戦争は……もう始まっているということだけです」
セルル・バルドレインの死。
マグナレオールへの罪の転嫁。
ヴィーラの処刑。
そして、リラを思想の中心に据えた思想運動。
話を聞き終えたリラは、しばらく何も言えなかった。
やがて、ぽつりと呟く。
「……最初の武力衝突から、何日経ったの?」
「……九日です」
レオニスが答える。
その瞬間、リラの顔色が変わった。
「……もう、十分すぎる」
「え?」
シグが眉をひそめる。
「他の大陸に知れ渡るには……時間が経ちすぎてる」
部屋の空気が、わずかに冷える。
「他の大陸が動き出したら、
四国で争ってる場合じゃなくなる」
誰も、すぐに言葉を返せなかった。
シグが、ゆっくりと口を開く。
「……リラ」
「何?」
「君が、何を言ってるのか……分からない」
リラは、きょとんとした表情でシグを見る。
「……分かるでしょ?
この四国は均衡を保ってきた。
だから、他の大陸は手を出せなかった」
「均衡が崩れた今──」
「狙われるに、決まってる」
沈黙。
部屋の誰もが、言葉を失っていた。
シグの喉が、小さく鳴る。
「……リラ」
「他の大陸って……何の話だ?」
リラは、完全に固まった。
「……え?」
「他の大陸なんて……存在しないだろ」
その瞬間。
リラの中で、何かが歪んだ。
ゆっくりと周囲を見渡す。
ヴィーラ。
レオニス。
シグ。
全員が、同じ顔をしている。
困惑。
理解不能。
だが、誰一人として冗談だと思っていない。
「……ちょっと、待って」
リラの声が、かすれる。
「北の大陸。東の山嶺の向こうにある、浮遊郡。
南の海を越えた連合国家……」
「どこも、この大陸を監視してる。
均衡が崩れたら、真っ先に侵攻してくるはず……」
シグは、ゆっくりと首を振った。
「そんな話、聞いたことがない」
「地図にも……そんなものは載ってない」
リラの呼吸が、乱れ始める。
「……そんなはず、ない」
「だって、私は……」
言葉が、途中で止まった。
リラは、自分の中で何かが崩れていくのを感じていた。
知っているはずの世界と、
目の前の現実が、噛み合わない。
どこが間違っているのかだけが、
分からない。
まるで──
自分だけが、
悪い夢から目覚めていないみたいだった。
次回更新は、1/31土曜日夜を予定しています。
少し空くので、44話で新たに出た情報の伏線を振り返ってみてもらえたら嬉しいです。




