背負う者
責任は、遅れて形を成す。
それは多くの場合、最も弱い立場に押し付けられる。
報告書は、もう何度も読み返していた。
エリオは、酒の類を嗜まない。
だが今、彼の机の上には何本もの空になった瓶が転がっていた。
報告書は、淡々としたものだった。
マグナレオール王族──王位継承第五位ヴィーラ・アルゲンフィスト。
処刑。
その文字列は、感情を含まない。
それが余計に現実味を帯びさせていて、どれだけ酒を呷っても意識はむしろ冴えていった。
エリオは、ゆっくりと息を吐く。
──違う。
これは、想定していなかった。
自分が望んだのは、
こんな結末じゃない。
最初から、目的は明確だったはずだ。
リラ・ヴェルノア。
あの女がいる限り、
自分は“上”へ行けない。
政治的な意味でも、
象徴としても。
彼女は、あまりにも都合が悪かった。
正しく、清廉で、
民からも支持されている。あのアデルからも。
そんな存在が同じ国にいる限り、
自分は脇役のままだ。
だから、国外に出したかった。
排除でも、殺害でもない。
ただ、舞台から降ろす。
異変が起きた今は、
そのための最高の口実だと思った。
──マグナレオールが原因だ。
──リラがいる限り、疑いは晴れない。
そう仕向ければいい。
世界が納得する形で、
彼女を閉じ込めるか、追い出す。
それだけの話だった。
なのに。
どこかの警備兵が乱入し、セルル・バルドレインを殺した。
当然、想定もしていない。
だが起きてしまった。
結果、戦争が始まった。
そして今──
顔も知らない少女が処刑される。
エリオは、机に指先を立てた。
爪がわずかに震えて机にあたり、カタカタと音を出している。
大量の酒を呷っても、その責任は薄まることはない。
知らない。
ヴィーラという少女を、
自分は何も知らない。
会ったこともない。
話したこともない。
ただ、
19歳の王族。
それだけだ。
それなのに。
自分の選択の延長線上で、
戦争が起こったことの責任を全て負わされている。
「どこで間違った……?」
低く、吐き捨てる。
自分は、殺していない。
誰かを殺すつもりもなかった。
ただ邪魔な存在を、遠ざけようとしただけだ。
それだけで、
どうして、ここまで転がる。
何を踏み間違えたのか。
思考を辿ろうとするが、
途中で嫌な結論に行き当たる。
──踏み間違えていない。
全部、繋がっている。
自分が選んだ道の、
正しい延長だ。
エリオは、喉の奥が冷えるのを感じた。
誰かに利用されているのは最初から分かっていた。
だが、自分ならそれすらも上手く誘導できると思っていた。
全ては、驕りだった。
ただの自己都合。
その先に、
処刑台がある。
もし彼女が死ねば。
自分は、
一人も殺していないまま、
人を殺した側になる。
その事実がじわじわと、精神を削っていく。
今さら引き返せない。
戦争は始まり、もう自分の手に負える問題ではなくなった。
エリオは、目を閉じた。
──これは、俺の責任なのか。
答えは、
出ない。
出ないまま、
時間だけが非情に流れていく。
*
マグナレオール上層下部、そこに築かれた巨大な広場。
かつては王の即位と祭礼のために造られ、精緻な装飾と段差を備えた、円形の儀礼空間だった。
だが異変による破壊は、その姿を根こそぎ奪った。
彫刻は崩れ、装飾は砕け、段は潰され、
かつての意味を語るものは、ほとんど残されていない。
今そこにあるのは、
ただ広いだけの巨大な円形の空間。
戦争の準備と、民への誇示。
その両方を背負わされた、歪な空間へと変貌を遂げていた。
そこに、集う者たち。
数を数える意味すら失うほどの群れ。
下層を除く、ほぼ全ての国民が一堂に会していた。
怒りで身体を震わせている者が大多数を占め、
何も分からず、ただ成り行きを観察している者もいる。
真実を知りながらも沈黙を選んでいる者は、さらに少ない。
誰もが、同じ予感を抱いていた。
──間も無く、処刑が始まる。
その瞬間を待たされている。
やがて、機械のような一糸乱れぬ動きで、瞬く間に兵の配置が変わった。
処刑台を囲む兵が、等間隔に広がる。
盾を前に出し、槍を少し寝かせるように構えた。
それによって民の群れが押し返されるように一歩後退する。
何かが始まる前の合図。
それを、全員が理解してしまう。
兵の中には、魔導具を携えた者もいた。
腕輪のような封具、短い杖。
互いに視線を交わし、頷き合う。
「距離を保て」
「前へ出るな」
命令の声は低く、感情がない。
誰かが叫びかけ、隣の者が慌てて口を塞いだ。
声が弾けた瞬間に、兵が飛んでくるのを知っているからだ。
そして中心の処刑台。
その周囲に立った数人の兵が、地面の図式へ手をかざした。
魔法陣。
構造に魔力の線を流し、図式を構築する。
それが”意図を持って”起動すれば──人はそれを、魔法陣と呼ぶ。
線へ魔力が集中し、構造が浮かび上がっていく。
図式は、静かに動き出した。
刑は剣でも縄でもない。
魔法で肉体に、直接”障害”を与えるものだった。
呼吸を奪い、骨を折り、内臓をすり潰す。
痛みを、逃げ場なく体内へ収束させる。
見せつけるための処刑だ。
決して逃げ出せないよう、しかし声だけは響くように。
この魔法陣はそれすらも計算されている。
ざわめきが、うねりのように広がった。
そして。
豪奢な正装に身を包んだ者たちが、広場奥の通路から現れた。
大臣たちだ。
その全身は、黒と白。そして金。過剰なほどの装飾。
まるで祝祭に臨むかのような装いで、彼らは並び立つ。
民の誰かが唾を吐いた。
次の瞬間、兵の一人がその男の胸を槍の柄で押し返す。
「やめろ」
短い一言。
男は歯を食いしばり、唇を噛んで耐えた。
血が滲む。
「お前ら……」
「ヴィーラ様を──」
言いかけた声に、別の兵が近づく。
その目の前に、ただ盾を構える。
「言葉を慎め。今は──公の場だ」
瞬間、民の声が弾けた。
「ふざけるな!」
「お前たちが何をした!」
「逃げただけじゃないか!」
怒号が飛び交う。
だが、兵が動く。
前へ出た者は取り押さえられ、殴られ、引き倒された。
恐怖が、怒りを上書きしていく。
次第に、声は減っていった。
──そのとき。
床を歩く音が、響いた。
広場には何万人もの気配がある。
衣擦れの音、咳払い、誰かが啜り泣く声。
それらが混ざり合って、普通なら判別できないくらいの小さな”音”。
なぜか全ての耳に、はっきりと届く。
ひとつ。
またひとつ。
広場から音が、奪われた。
通路の奥から、彼女が現れる。
ヴィーラ。
手鎖はない。
抵抗も、恐怖も──感情は、どこにも見えなかった。
ただ、真っ直ぐに歩いてくる。
それを見た瞬間。
再度、声の爆発が起きる。
「逃げて!」
「ヴィーラ様のせいじゃない!」
「お前たちは逃げただけだ!」
「ヴィーラ様が、どれだけ俺たちを想ってきたか、知らないくせに!」
叫びは、祈りだった。
だが、大臣の一人が手を上げる。
「黙れ」
冷たい声。
その一言で、民の勢いは再び削がれる。
ヴィーラが、処刑台へと立つ。
中央に設けられた魔法陣の上に。
到着と同時に、床に刻まれた図式が淡く光り始める。
周囲を取り囲む国民をじっとりと見回し、大臣が宣告をする。
「戦争の責任は、ヴィーラにある」
民は再び叫ぶ。
だがその言葉は遮られたまま、演説は続く。
すべての罪が、彼女一人へと押し付けられていく。
やがて、問いが投げられた。
「最後に、言い残すことはあるか」
ヴィーラは、ゆっくりと顔を上げた。
その目に、愛する国民の姿が映る。
自分が処刑台の上に立っていることに今更気づいたかのように、彼女の感情が戻ってくるのが分かった。
静寂が、広場を包んだ。
「……私の…。
……私の言葉には、意味があるのでしょうか」
小さな声。
「届かなかった。
私の命を賭けても、他国の人たちには」
微笑みながら、彼女は涙を流した。
「みんな……ごめんなさい。
無力な私を……許してください」
何度も、繰り返す。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
民は、理解してしまった。
もう止められない。
そして、誰かが息を吸うよりも早く。
「処刑を行え」
命令が、落ちた。
声と同時に、兵が一斉に動いた。
処刑台の周囲、四方に立つ兵が同じ角度で腕を上げる。
掌を魔法陣の中心へ向け、魔力を流す。
線が、ひとつに収束していく。
目に見えない糸が絡み合い、魔法陣が完成に向かう。
近くの民の中には、膝をつきそうになる者もいた。
更に光を増す、処刑用の魔法陣。
順に、声が揃っていく。
「骨の軋みを呼べ」
「息を奪い──」
それは詠唱ではない。壊すための手順の暗唱。
痛みは、段階的に見せる必要がある。
これは──見せしめなのだから。
ヴィーラの喉が動いた。
空気が重くなり、呼吸が浅くなっていく。
構造は、すでに彼女の身体を”掴んで”いた。
その時だった。
そこに──石が飛んだ。
一人の女性が、肩で息をして、涙を流しながら叫ぶ。
「私を先に殺しなさい!」
すぐに兵が殴り、黙らせる。
「今更、騒ぐな。見苦しい。
構うな、続けろ。責任を取るということを、知らしめろ」
だが。
理不尽に抗おうと、他の民が続いた。
処刑を止めようと、兵に殴られてもまた次の者が突撃する。
「やめなさい!!」
ヴィーラの声が、広場に響く。
その声だけは、誰にも無視できなかった。
動きが止まる。
「私の無力によって、戦争が始まったのは事実です。
だから……責任は私が取ります。
みんなには、生きてほしい」
その瞬間。
兵の中から、動く影。
ヴィーラと長くを共にした護衛たちが、乱入した。
魔法が交錯し、悲鳴が上がる。
何人かが、倒れた。
続いて民が、なだれ込む。
ヴィーラの前に一本の道が開かれる。
「逃げろ」
彼女は手を引かれ、走り出した。
口々に、叫ばれる。
「生きて!」
「ヴィーラ様こそ希望だ!」
だが、ヴィーラにとってそれは。
──絶望の始まりだった。
こんな自分に、何を期待しているの。
ここで終わらせてくれたら、どれほど楽だっただろう。
それでも、生きろと?
彼女は、選ばれてしまった。
望まぬまま。
責任を負うということは、ここから始まる。




