茜色
壊れた世界の中でも、人は日常を作ろうとする。
それが、どれほど儚いものであっても。
破壊が通り過ぎた空間の中で、
そこだけが不自然なほどに清潔に整えられていた。
瓦礫がどかされ、床を掃き、布を張って作られた即席の治療場。
外の荒れた風景とは裏腹に、
ここだけは穏やかな空気が流れている。
簡易的なベッドの隙間を縫って歩く、一人の女性がいた。
白い布を肩にかけ、
一人ひとりの顔を見て、声をかけていく。
「今日の調子はどう?」
「……悪くないな。だいぶ楽になったよ」
「良かった!でも、無理はしないで。まだ安静よ」
そう言って、彼女は微笑んだ。
「でもさ、早く立ち上がれるようになりたいんだ。
村の復興、手伝いたくてさ」
「それは気が早い!」
くすりと笑う。
「気持ちは分かるわ。でも今大事なのは、しっかり休むこと。
働くのはその後」
男は肩をすくめた。
「はいはい。お医者様の言う通りにしますよ」
彼女は軽く首を振り、次の患者のもとへ向かう。
その途中、中くらいの木箱を持ち上げた瞬間。
腕の奥に、じくりとした痛みが走った。
思わず、わずかに顔を歪める。
その裾を、小さな手が引いた。
「リラお姉ちゃん、大丈夫?」
男の子が、不安そうに見上げている。
「その荷物、僕が運ぶよ。まかせて!」
彼女は一瞬だけ驚いて、すぐに微笑んだ。
「ふふ……ありがとう。でも、大丈夫」
そう言いながら、そっと男の子の頭を撫でる。
「その気持ちが、すっごく嬉しいよ」
男の子は、少し誇らしげに胸を張った。
背後から、誰かの声が飛ぶ。
「昨日のリラが作ってくれたスープ、美味かったよな」
別の男が笑う。
「来たばかりの頃は、碌なもん作れなかったのにな」
「そうだな。
二人とも死にかけで、こいつ等には何が出来んのかって内心思ってたよ」
「ねぇ、聞こえてるんだけど?」
彼女が振り返る。
「でもよ、全てを失って死ぬのをただ待ってた俺たちより……
よっぽど辛い目にあった二人が、誰よりも先に動いてた」
「……まあ、まだ野菜すらまともに切れてないけどな」
「ちょっと、文句言うなら食べなくていいわ」
ぴしり、と言うと、周囲が笑った。
その空気は、あまりにも自然だった。
彼女がここにいることが、当たり前であるかのように。
誰かが、ぽつりと呟く。
「……もうすっかり、村の一員だな」
彼女は、答えずに微笑むだけだった。
──リラ。
かつて、世界の運命を背負った少女。
今はただ、
この場所で生きている。
ヴァルデン国内、アウレーリア農村地帯。
連合国の中でも、
マグナレオール国境に近い地域の一角。
豊穣と交易で知られた土地だった。
だが開戦と同時に補給路となり、最初に踏み荒らされた。
焼かれ、奪われ、
逃げ遅れた者は命を落とし、
生き残った者も、すべてを失った。
彼らは、ここで生きている。
戦火が過ぎ去り、
それでも傷の残るこの土地で。
均衡会議から、三十日が経っている。
世界はすでに別の形へと動き出していた。
その頃。
世界はまだ、「戦争」と呼ぶことを躊躇っていた。
*
最初に崩れたのは、国境だった。
ノクスヴァイとマグナレオールの境界線では、夜明け前に動いた補給隊が相次いで襲われた。
運ばれていたのは、薬、保存食、修繕用の資材。
戦うためではなく、生き延びるためのものばかりだった。
襲撃の痕跡は、どれも不自然だった。
マグナレオールの痕跡は確認できず、実行犯が分からない。
足取りは散らされ、遺体は最低限に留められて、物資だけが奪われていく。
破壊の事実だけが積み重なり、不明もまた、積み上がっていく。
それは、戦争の影そのものだった。
南方では、ルミナスの神殿が襲われた。
夜も更けた頃、鐘の音が突然響き渡り、人々は混乱した。
続いて礼拝堂の一部が焼かれ、守っていた神官が命を落とした。
聖域に血が流れたという噂は、瞬く間に広がっていく。
神の加護を得ている神官が護られないならば、
人は、何を信じればいいのか。
西方のヴァルデンでは、街道を行くノクスヴァイの商隊が忽然と姿を消した。
荷を下ろす予定だった村は沈黙し、
家々の戸は閉ざされ、窓の灯りが漏れることはもうなかった。
軍の動きではない。軍事侵攻ならば、証拠が残るはずだ。
数少ない証言では、軍章も、国旗も掲げていなかったという話もある。
彼らは名を持たず、ただ同じ姿で現れた。
簡素な装束に身を包み、
どこの国にも属さぬ者として、
破壊の跡に同じ言葉だけを残していく。
〈マグナレオールが世界を壊した〉
〈戦争は、すでに始まっている〉
〈リラ・ヴェルノアは“終わり”の象徴だ〉
それはまるで、すでに決まっている運命を告げるような、
静かな“予言”だった。
彼らは、どの国にも命じられていないと言った。
誰のためでもないと、誇らしげに語った。
だが狙う場所は、いつも同じだった。
補給路、通信の拠点となる都市、交易所、医療の場。
戦場の中心ではなく、世界を支える“骨組み”を的確に壊していく。
本格的な戦争が起こりつつある今、国は兵を動かすことができない。
だがその場所で生活する人々は、生きることすら難しくなっていく。
殺し、奪い、焼き尽くしながら、
彼らは囁く。
〈世界は、もう戻らない〉
〈選べ。滅びるか、抗うか〉
〈共に行こう。リラ・ヴェルノアが望む世界へ〉
恐怖の思想は、連鎖していった。
国を疑い、隣人を疑う。
助けを求める声でさえ、
次の破壊の標的になる。
どの国も、口では冷静を装った。
だが水面下では、すでに“準備”が始まっていた。
国境は閉ざされ、交易路は遮断される。
通行証は厳格化され、検問が増え、
それに紛れて偽造された証明書が出回り始めた。
誰が敵で、誰が味方か。
誰にも、判別できなくなる。
やがて、各国は同じ言葉を使い始める。
──自衛のため。
だがその“自衛”は、明確な“敵意”となる。
そうしたことが続き、世界は本格的な“武装”を進めていった。
各国は兵の再編を進め、徴集の名のもとに若者を集めた。
都市や村からは若者の姿が段々と消えていく。
境界線には見張りが立ち並んだ。
情報は精査され、
真実は国ごとに形を変えて伝えられた。
どこまでが事実で、
どこからが嘘なのか。
誰にも、分からなくなっていく。
やがて、言葉では止まらなくなる。
そして均衡会議から二十日が経過した頃。
ついに、最初の武力衝突が起きた。
ノクスヴァイとの国境付近で、
マグナレオールの補給拠点が襲撃された。
応戦したのは、マグナレオールの警備兵。
矢と魔法が飛び交い、
マグナレオールと、ノクスヴァイ。
複数の兵と、近隣の民が命を落とした。
それは、小さな衝突だった。
だが、“最初の血”として、世界に刻まれる。
各国は、これをこう呼んだ。
──マグナレオールの先制攻撃。
マグナレオールは、否定した。
だが、信じる者はほとんどいなかった。
こうして、世界は一歩、踏み出した。
それでも、まだ総力戦には至っていない。
衝突は局地的であり、
兵の動きも限定されている。
だが死者の数は──確実に積み重なっていた。
後に訪れる大戦の犠牲から見れば、
わずか一割にも満たない数。
それでも、十分すぎるほどの悲劇だった。
人々は、思い始める。
──もしかして、本当に“運命”なのではないか。
──世界は、終わるのではないか。
その疑念こそが、彼らの狙いだった。
破壊は手段であり、目的ではない。
人は自分で辿り着いた結論を盲目的に信じてしまう。
そうして、“選ばせる”ために。
滅びを信じるか。
それとも、抗うか。
その選択の中心に、
ひとつの名が置かれていた。
──リラ・ヴェルノア。
彼女が現れたから、世界は壊れた。
彼女は、終末の象徴。
彼女を信じない限り、均衡は戻らない。
誰も彼女の姿を見ていない。
誰も彼女の声を聞いていない。
彼女の名だけが、独り歩きしていく。
世界は今、
“偽りの運命”に、膝をつき始めていた。
*
治療場の外に出ると、空はすでに茜色に染まり始めていた。
燃えるようなその色は、あまりにも美しくて。
けれど、どこか不吉でもあった。
まるで──人の血が溶け込んでいるかのように。
今の自分には、世界を止める力なんてない。
ここで人を癒すことしか、できない。
それでも──
リラは空から目を逸らさず、そっと胸の前で指を握った。
この戦争を、
一秒でも早く、終わらせる。
誰かのためでも、世界のためでもない。
今、ここで生きている人たちのために。
風が、乾いた土の匂いを運んでくる。
遠くで、鍬を下ろす音と、誰かの笑い声がする。
リラは、村の外れにある仮の住まいへと向かった。
木と布で組まれた簡易的な建物。
かつては物資の保管用に使われていた倉庫を、住居用に作り替えたものだ。
決して豪華とは言えない。
それでも、雨と風を防げる。それは何よりの贅沢でもあった。
──“帰る場所”と呼べるだけで。
中に入ると、薄暗い室内に、ほんのりと香りが満ちている。
鍋の中身は、野菜と乾燥肉の煮込み。
質素だが、今では村で一番人気の味になっていた。
リラは袖をまくり、木製のレードルで中身をかき混ぜる。
鍋に火をかける前に、リラは布袋をほどいた。
中にあるのは土がついたままの根菜と、少し萎れた葉物。
どれも村の畑から少しづつ分けてもらったものだ。
水を張った桶に沈める。
指でこすり洗う。
爪の間に入ってしまった泥を落とす。
思ったよりもしつこく残る。
「……もう」
小さく呟いて、もう一度こする。
きれいになった野菜を、布の上に並べて水気を切る。
ヘタの部分は、硬くて苦い。
食べられなくはないが、噛み切れず、子どもたちが残す。
少し迷ってから、包丁を入れた。
もったいないけど……捨てるしかない。
台に置いた野菜を、慎重に切り分けていく。
今日みんなに言われた事を、リラは密かに気にしていた。
野菜すらまともに切れてない、だって。
刃の運び方を意識しながら、慎重に切り分けていく。
一つ、また一つ。
揃えようとしたけど、まだ満足には至ってない。
この包丁は、あまり切れ味がよくないから。
刃先を指でなぞり、苦笑した。
「……研げたらいいんだけど」
道具は限られている。
贅沢は言えない。
「まあ……あるだけ、マシよね」
誰に言うでもなく、呟いた。
切り終えた野菜を鍋に入れ、乾燥肉をほぐす。
水を足し、火にかける。
湯気が、ゆっくりと立ちのぼる。
それを見て、ほっと息をついた。
今日も、生き延びた。
その時、入口の布が揺れた。
「ただいま」
少し低く、どこか疲れた声。
振り返るより早く、背中に温もりが重なる。
両腕がそっと回される。
「……おかえり!」
リラは笑って振り返り、同じように抱き返した。
「今日も、大変だった?」
「うん。木材の運び出しが大量にあってさ。
でもその分、筋肉ついたと思う。ほら、どうかな?」
シグは、少し誇らしげに腕を曲げる。
「本当に?」
「ほんとだよ。ほら」
「あはは。無理しちゃダメだよ」
リラはシグの肩に頭を預けながら笑った。
火にかけた鍋から、湯気が立ち上る。
「今日もいい匂いだね」
「でしょ?野菜、たくさんもらったの。
昼に手当てした人が持ってきてくれて」
器に盛りながらリラは言う。
「最近、みんなが少し元気になってきた気がする」
シグは、椅子に腰を下ろし、頷いた。
「……うん。
リラが料理を作るようになってから、変わった」
彼は、真面目な声で続ける。
「ただ食べるだけじゃなくてさ。“明日もある”って思えるんだ。
……僕も、そう思ってる」
リラは少し驚いて、彼を見る。
「そんな大げさな……」
「大げさじゃないんだ、リラ」
シグは、まっすぐに目を見て言った。
「ここでは希望って言葉より、
温かい食事の方が、よっぽど現実で──力になる」
パチパチと弾ける火の音だけが、部屋に満ちる。
「……ねえ、シグ」
リラはぽつりと呟く。
「この先、どうなるんだろう」
その声は穏やかだが、かすかに揺れていた。
「戦争は……どうなってるのかな。
ルシアは、無事かな。
マレイアは。セレストは……」
シグはすぐには答えなかった。
分からない。
それが一番残酷だった。
遠くで確実に壊れていく世界のことを、
ここでは何一つ掴めない。
それでも。
二人は、今ここで生きている。
少しの沈黙の後、シグが小さく息を吐く。
「分からない。
……今の僕らに、どこまで出来るのかも」
リラは目を伏せる。
「だから、今できることをやろう。
誰かを治療して、食べさせて。
……また、朝を迎える。そうやって、生きていくんだ」
返事を探して、言葉を失った。
不安で、押しつぶされようだったから。
だから言葉の代わりに、そっと手を伸ばした。
シグの指が重なる。
強く握り返すでもなく、
ただ確かめるように、優しく繋いだ。
窓の外の茜色は、もう見えない。
それでもその色の美しさは、
まだ心に残っていた。
均衡を取り戻す。
その言葉を、声には出さないままにする。
二人は同じ灯りの下で、
繋いだ指をほどかないまま、互いの呼吸を感じていた。
まだ、総力戦には至っていない。
だが確実に、戦争の足音は近づいてきています。
次回、均衡を壊した者として責を背負わされた少女──ヴィーラの処刑。
そして、もう一人の存在。エリオの行方が明らかになります。
静かな約束の裏側で、失われるもの。




