希望を従えて
たった一人、希望を背負って立つ者。
全てを、守るために。
冷たい石の壁に、背を預けていた。
喉の奥が焼けるように痛む。
胃の底から、何度も何かがせり上がってくる。
……まただ。
両手で口元を押さえ、必死に息を整える。
吐息が細かく震え、視界の端が滲んだ。
一睡もできていない。
夜が明けてから、ずっとここにいる。
逃げ出したい。
でも、そろそろ準備を始めなきゃいけない。
ここを出たら──
世界のトップ達が一斉に自分を見つめる。
その時、扉を叩く音が控えめに響いた。
「……ヴィーラ。そろそろ準備しないと」
若い男の声だった。
ほんの少しだけ低くて、優しい。
その声を聞いた瞬間、
胸の奥が強く締めつけられた。
「……っ」
喉がひくりと震え、
次の瞬間、またこみ上げる。
吐いた。
もう、何度目か。
血が混じった黄色の液体が、ボタボタと口から落ちる。
まだ、19だ。
学ぶはずだった歳。
失うことなんて知らずに、未来を夢見ていたはずの歳。
その若さで背負うには──世界はあまりに大き過ぎた。
男は、扉の向こうで動けない。
何もできない。
この場所では、いつものように背中をさすることも、手を握ることも許されない。
できるのは──護衛として、最後まで彼女の側に居ることだけだ。
「……大丈夫です。急ぎません」
そう言いながら、
本当は何も大丈夫じゃないと分かっている。
もう準備に入らなければ、遅れてしまう。
扉の外で、別の足音が鳴った。
「どけ、邪魔だ。
──これだから、こんな小娘を代表に据えるなど無謀だと言ったのだ」
今度は、冷たい声。
「ヴィーラ姫よ。マグナレオールの代表として来ている自覚はあるのか?」
空気が凍りつく。
「その無様な姿を、他国に見せる気か。
マグナレオールは誇り高い王国だ。恥を知れ」
「くれぐれも余計なことを口にするなよ。
我々も“被害者”なのだから」
吐き気とは別のものが、ヴィーラの胸を刺した。
責める言葉。
でも──
床に映る、自分の手を見る。
細くて、弱くて、
それでもここまで国のために動いてきた手。
拳を固く握りしめる。
「……申し訳ございません。大丈夫です。行きます」
かすれた声。
震えながら、立ち上がる。
鏡は、見ない。
鏡に映る怯えた自分の姿を見たら。
会議の場にすら、辿り着けない気がした。
扉の外には、
彼女を守ろうとする者と、使おうとする者が立っていた。
深く息を吸う。
逃げることは許されない。
国を発つ時の人々の懇願の目を思い出す。
「……ヴィーラ様。戦争になるのですか?」
「──大丈夫よ。私が必ずみんなを守るから。
必ず、戦争を回避してみせる」
ヴィーラ様なら。
あの人なら。
手を強く振り、
残された国民の希望を背負って、ここへ来た。
──戦争を、起こさないために。
私の、全てを賭けて。
*
かつて王が座した玉座の間は、今や“裁き”のための場となっていた。
ヴァルデン連合、旧アグリオス王国。
穀倉の都の中心に残された旧王宮は、外壁の石に今なお当時の威光を宿している。
天井は高く、梁は太く、床の大理石には幾世代にも渡る足音が染み込んでいる。
玉座はすでに撤去され、代わりに据えられているのは巨大な円卓だ。
それがわずか十日足らずで備えられた光景だとは、誰もが信じ難かった。
本来なら数ヶ月の準備を要するはずの国際会議が、
“戦争を止める”という名のもとに、異例の速度で押し通された結果だった。
火はすでに燃え始めている。
誰もが、最悪の事態を回避するために動いたのだ。
北にマグナレオール。
東にノクスヴァイ。
西にルミナス。
南にヴァルデン──理衡教の中枢の席が用意されている。
そしてその外周を囲むように、ヴァルデン連合各国の中立席が並んでいた。
この一室に、世界が集まっていた。
重厚な扉が開かれるたび、空気が震える。
ノクスヴァイの王と中枢。
ルミナスの神官団。
理衡教の代表たち。
各陣営が次々と入場し、席に着く中で──
席に付かず、皆が揃うのを待っている者たちがいた。
マグナレオールの区画。
年若い。
華奢な身体。
淡く色づいた瞳は、恐怖を押し殺すように揺れていた。
その背後には、わずかな護衛たち。
装備も、威圧感も、他国のそれには到底及ばない。
彼らは何も言わず、彼女の後ろに立っていた。
まるで彼女の“盾”であるかのように。
その数、20名ほどだろうか。
会議室に、ざわめきが走る。
「……あれが?」
「まさか……」
「冗談だろう」
視線は、疑念と苛立ちを帯びながら少女へと突き刺さる。
マグナレオールの代表。
沈黙を続けた国の“顔”。
だが。
あまりに若く、
あまりに脆く、
“王”には見えなかった。
会議室が少女に注がれる視線でざわつく中、
重厚な扉がもう一度ゆっくりと開いた。
遅れて現れたのは、マグナレオールの大臣たちだった。
濃色の正装に身を包み、年を重ねた男たち。
その足取りはゆったりと落ち着いているが、どこか苛立ちを孕んでいる。
彼らは、ヴィーラとその背後に立つ護衛たちを一瞥すると、
露骨に顔をしかめた。
「……なぜ席に付かない。我々もまた、被害者なのだぞ」
小さく、だが周囲に届く声。
「こんな場所で、時間を浪費する暇はないというのに」
そのまま円卓の奥──
マグナレオールの席へと、当然のように腰を下ろす。
そして誰一人として、
会議の場に先に立っていた少女に、声をかけることはなかった。
ミルセイン・ノクスヴァイは、少女を一目見て理解した。
──この場に立つべき者ではない。
死戦を越え、内乱を抑え、幾千の決断を積み重ねてきた者たちの中で、
あまりにも“軽い”。
守るべきものを背負う覚悟は、あるのだろう。
だが……背負いきれる深さを、まだ彼女は持っていない。
胸の奥で、小さな失望が生まれる。
これが、沈黙の国の答えか。
ルミナスの神官たちも、同じ思いを抱いていた。
哀れだ、と。
同時に「許されない」と。
この会議は、感情を訴える場ではない。
世界を救うか、壊すかを決める場だ。
そして彼女は──
あまりにも、脆かった。
誰もが、最後まで信じられずにいた。
その中で、ただ一人。
ヴァルデンの代表であるヴェルナだけが、彼女から目を逸らさなかった。
──王族が来ることは、知っていた。
だが、ここまでとは。
その危うさに、胸が軋む。
やがて、ヴェルナが静かに立ち上がる。
「……これより、均衡会議を開く」
その声はよく通った。
「ここは、四国の未来を左右する対話の場。
感情ではなく……理をもって語り合うことを、強く望む」
一瞬の間。
そして、ヴェルナは少女を正面に捉えた。
「マグナレオール代表──
ヴィーラ・アルゲンフィスト」
その名が告げられた瞬間、空気が変わる。
「王位継承第五位。
盾の血を引く者にして、現時点におけるマグナレオールの代表です」
ざわめきが、怒りへと変わる。
「第五位だと?」
「王も出てこず、これか……」
「我々を侮辱しているのか」
ヴィーラはわずかに肩を震わせながら、一歩前に出た。
「わ、私は――」
言葉が詰まる。
その様子に、さらに周囲の苛立ちが募る。
「答えろ」
「なぜ王が来ない」
「沈黙の理由を説明しろ」
質問が、矢のように飛ぶ。
会議室はすでに“騒然”としていた。
だが、彼女は逃げなかった。
震えながらも、必死に前を見つめていた。
──戦争を、止めたい。
その想いだけを、胸に抱いて。
*
ヴィーラは、深く息を吸い込んだ。
心臓がかつて無いほど早く脈打っている。
身体が、ガタガタと震えている。
それを抑え込むように、指を強く握り締めた。
──ここに立つと、決めた。
愛する国民を、戦争から守るために。
そう何度も自分に言い聞かせてきた。
それでも。
この場の重圧は、想像を遥かに超えていた。
四方から注がれる視線。
百を超える国家の中枢。
その一つ一つが、国の命を背負っている。
──私一人の命なんて、軽すぎる。
そう思った瞬間、膝から崩れ落ちそうになる。
ヴィーラは、用意された文書を開いた。
何度も練習した言葉。
そこにはマグナレオールが事前に用意した、安全な言葉が並んでいる。
「……わ、私たちは……」
声が、想定以上に掠れていた。
喉が乾ききっている。
息が、吸えない。
「この世界で起きた異変について……
深い哀悼の意を覚えています」
その瞬間だった。
「そんなことはどうでも良い。
アルカン王は、なぜ来ない」
刃のような声が、再度空気を裂いた。
ノクスヴァイ側。
胸が、強く締めつけられる。
「沈黙を続けた理由を述べよ」
今度は、ルミナス。
逃げ場のない問い。
──分かっている。
皆が怒る理由も、疑う理由も。
ヴィーラは、視線を落とした。
台本の文字が、滲んで上手く判別できない。
きれいな言葉だけが並んでいる。
だが、“答え”はどこにもない。
──言えない。
私は、何も知らされていないのだから。
王が来ない理由も。
沈黙を続けた理由も。
世界の秘密も。
リラ・ヴェルノアの生死も。
全ての事実が、彼女の手の届かない場所にある。
なのに、この場に立っているのは彼女だった。
「……私は……」
声が、震える。
何も言わなければ、全てを失う。
でも、何を言えばいいのか。
どうすればいい?
答えは、ない。
指から力が抜け、
文書が床に落ちた。
乾いた音が、やけに大きく響く。
ざわめきが広がる。
──終わった。
心の奥で何かが折れかけた。
それでも、ヴィーラは顔を上げた。
逃げるよりも、
崩れるよりも──
ここで立つことを、選んだ。
「申し訳ございません。私は……何も、知りません」
場の空気が凍りつく。
「でも……」
胸の奥が、焼けるように熱い。
「それでも……争いだけは、止めたいんです」
誰かが舌打ちをする。
誰かが、侮蔑の視線を向ける。
分かってる。
私の言葉は、幼い。
背後から、冷たい声。
「余計なことを言うな」
マグナレオールの大臣。
だが、ヴィーラは振り返らない。
「皆が……傷つき死んでいく未来を……
私は、選びたくありません」
涙が滲む。
怖い。
苦しい。
今すぐ、ここから消えてしまいたい。
それでも。
「どうか……どうか、対話の時間をください」
沈黙。
ミロディオスが呟く。
「……話にならんな」
──もう、無理だ。
誰も、救えない。
そう思わせるほどの重圧。
だが。
その沈黙の中で、
ノクスヴァイの区画に座るセルルが、ゆっくりと立ち上がった。
「……諸君」
その一言が、かすかな希望を灯す。
「彼女の言葉には、命がこもっていると私は思う」
張りつめた空気の中で、
セルル・バルドレインは、ゆっくりと前へ出た。
深い灰色の正装。
胸に輝く、双環の勲章。
ノクスヴァイの象徴。
セルルの発言と共に、ざわめきがわずかに鎮まる。
彼は、まず会議室全体を見渡した。
「彼女の言葉は、確かに未熟だ。
国家を背負う者として、あまりに危うい」
ルミナス側の神官が、わずかに頷く。
セルルは続ける。
「だが──
それを理由に、嘲り、踏みにじるなら」
「我々は何のために……この場に集まったのか」
沈黙。
「彼女は“何も知らない”と言った。
それは、責任の放棄ではない」
セルルの視線が、ヴィーラを捉える。
「何も知らされなくとも、真実を隠されたままでも。
それでも争いを止めようとし、この場に出てきた」
ヴィーラの指先が、震えた。
「……彼女は、臆病ではない。
我々と同じ、国を想う──同志だ」
セルルは、会議室に向き直った。
「皆、正しい。
だが正しさだけでは、世界は救えない」
一瞬、言葉を選ぶ。
「この少女は、理を持たぬ。
だが──命を賭けて、ここにいる。
……私も、同じだ」
そして、静かに告げた。
「私は、彼女を侮辱しない」
その一言が、場を貫いた。
セルルは、ヴィーラへと向き直る。
「……ヴィーラ殿。
あなたの言葉に、私は応える」
その瞬間、
ヴィーラの中で何かが崩れ、同時に支えられた。
誰も、すぐには反論できなかった。
張りつめた沈黙。
その時──
扉が、軋む音を立てて開いた。
*
重く、鈍い音。
玉座の間に、冷たい風が流れ込む。
誰もが、反射的に視線を向けた。
警備兵だった。
ヴァルデン側の兵装ではない。
どの国の紋章もつけていない、無地の兵装。
数は、十に満たない。
「……何事だ」
ノクスヴァイ王が声を上げるより早く。
──閃光。
魔法陣が、床に咲いた。
爆ぜるような衝撃が、会議室に響く。
護衛たちが一斉に動く。
各国の要人を庇い、盾となる。
悲鳴。
瓦礫が落ちる。
剣が鳴る。
だが、狙いは一つだった。
床に倒れ伏したまま、
“死んだふり”をしていた警備兵の一人が、ゆっくりと起き上がった。
手に、黒い光が宿る。
視線の先には──セルル・バルドレイン。
「……!」
ミロディオスが叫ぶより、早く。
閃光が、貫いた。
護衛ごと、セルルの身体を。
一瞬、音が消えた。
次の瞬間──
「王を守れ!!!」
「陣形を組め!崩すなよ!!」
「誰だ、どこの兵だ!」
怒号が、会議室を満たす。
だが。
国の頂に立つ者たちは、
誰も叫ばなかった。
ただ──
無傷のマグナレオール陣を、
冷たく捉えていた。
奇妙なことに、
マグナレオールの区画だけが、致命を免れているように見えた。
ノクスヴァイ王が、ゆっくりと立ち上がる。
その声には、怒りよりも、深い絶望が滲んでいた。
「……はかったな、マグナレオール」
その視線は、ヴィーラへ──ではなく、背後にある“国”を射抜いていた。
「これが答えか。
お前たちに最後まで寄り添おうとしたセルルを殺し……」
王の拳が、震える。
「いや、もういい。
ノクスヴァイは、たった今から──
マグナレオールを、敵とみなす」
その宣告は、魔法よりも鋭利にヴィーラの胸を貫いた。
「違う!!!」
ヴィーラの絶叫が、空気を裂く。
涙と恐怖で、声はかすれている。
「私たちじゃない!
お願いです、信じてください!」
彼女は、セルルのもとへ駆け寄ろうとする。
「マグナレオールには治療魔法があります!
まだ……まだ、間に合うかもしれない!」
だが──
「ヴィーラ、下がれ!!」
護衛が、彼女の腕を掴んだ。
別の護衛が、魔法陣を展開する。
それは、防ぐための魔法。
逃げるための魔法。
だが、他国の目には──
攻撃にしか見えなかった。
反射的に、各国の護衛も応戦する。
玉座の間は、戦場へと変わった。
「放して!!」
ヴィーラは、泣き叫ぶ。
「お願い……あの人を……」
その声は、誰にも届かない。
ミロディオスは、倒れゆくセルルを抱きとめた。
彼の両目を覆う白い布は、かすかに震えていた。
それが涙の代わりだと気づく者はいない。
セルルの唇が、かすかに動く。
──戦争は、するな。
だが、音にはならなかった。
その瞳から、光が消える。
ヴェルナは、その光景を見つめ、
静かに目を閉じる。
彼女の祈りは、届かなかった。
セルルの死で、均衡はたった今終わりを迎えた。
戦争が、始まります。
それぞれの”正しさ”を証明するために。
希望は、奇跡ではなかった。




