揺れる秤
初登場セルル・バルドレイン。
その名には、誠実・掟・堅牢・揺るがぬ正義──様々な意味を込めています。
お気に入りの、初老のおじいちゃんです。
国境都市セグナール。
それはノクスヴァイ王国の領地でありながら、ルミナス王聖国との国境にまたがって存在している。
均衡のために生まれたような街だった。
ラグナから半日ほど南の位置に在り、
どちらの文化も、どちらの旗も、等しく風に揺れる場所。
その中心にそびえるのは、通称”白鐘”と呼ばれる白と金でできた巨大な建築。
王と神官、両方が使用することを前提に造られたものであり、
煌びやかでありながら、窓は最小限に抑えられている。
百を超える席が、半円形に並ぶ大会議室。
中央には、低い壇と、二つの国章。
一方にノクスヴァイ。
もう一方にルミナス王聖国。
静寂は、今にも切れそうな緊張を孕んでいた。
「では、改めて問う」
ミロディオス・ルーメンが、ゆっくりと顔を上げる。
「マグナレオールの行為を──
貴国は、なお“事故”として処理するつもりか」
視線が、ノクスヴァイ側中央へと集まった。
王──ミルセイン・ノクスヴァイは、即答しない。
一瞬の静寂の後、
初老の男が、静かに一歩前へ出た。
深い灰色の正装に身を包み、
胸元には、王国の証である双環の勲章が留められている。
セルル・バルドレイン。
王政評議会の長。
王の右腕であり──均衡の象徴として、この国の政治の中枢に立つ者だった。
彼が立った瞬間、
ノクスヴァイ側の席に、目に見えぬ安堵が走った。
「現時点では、断じかねる」
穏やかな声だった。
「今回の各地での異変。その原因がマグナレオールにあると証明されたわけではない。
ましてや、それが意図的な支配行為であると断ずるには──我々はあまりに多くを知らず、あまりに急ぎすぎている」
セルルとミロディオスの視線が交差する。
「結論を焦れば、待っているのは解決ではない。……壊滅だ」
ルミナス側の神官たちが、わずかにざわめく。
ミロディオスは、目を細めた。
「……まだ“待つ”と言うのか」
言葉は淡々としているが、その奥に滲むのは失望に近いものだった。
セルルは、視線を逸らさない。
「壊さないために、急がぬのだ」
一瞬、空気が張りつめる。
ミロディオスは、静かに息を吐いた。
「……その言い回し。
お前は昔からそうだったな」
それは公の場にしては、あまりに私的な響きを含んでいた。
だが、セルルはわずかに目を伏せる。
「ミロディオス。お前にだけは、今でも通じると信じている」
ミロディオスは、ほんの一瞬だけ口角を上げた。
「お互い……変わらぬな。
お前の秤は、いつも世界を救う。
……だが同時に、救えぬ命も生む決断だ」
「承知している。
それでも──私は武力行使を、最後まで否定する」
セルルは王に一瞬だけ視線を送り、再びミロディオスを見た。
「我々は、マグナレオールに説明を求める。
その機会を与えず断罪することは、我々自身が“越えてはならぬ境界”に踏み込む行為だ」
ノクスヴァイ側の重役たちが、深く頷いた。
ミロディオスはしばし沈黙した後、低く告げる。
「……良いだろう」
会議室に、息を呑む音が走る。
「我らも、即時の武力行使は望まぬ。
だが──説明なき沈黙が続くなら、聖国は動く」
視線が、鋭く光る。
「それでも、お前は保証するか。
“話し合いで止まれる世界”を」
セルルは、静かに頷いた。
「保証しよう。
……私の命に変えても」
その瞬間、誰もが理解した。
この男が、最後の防波堤であることを。
ミロディオスは、視線を会議室全体にゆっくりと巡らせた。
百を超える席。
その一つ一つに座る者たちは、国家の意志そのものを象っていた。
「結論としよう」
「ルミナス王聖国は、ノクスヴァイ王国と協力し──
マグナレオールに対し、正式に“説明責任”を求める」
その言葉に異を唱える者はいない。
ミロディオスは続ける。
「即時の制裁は行わぬ。
ノクスヴァイ王国の提案に従い、対話の機会を設ける」
ざわめきが生まれる。
だがそれは不満ではなく、緊張がほどけた音だった。
セルルは、ゆっくりと息を吐いた。
「感謝する。
この選択が間違っていなかったことを証明してみせよう」
ミロディオスは、わずかに顎を引いた。
「証明できねば、血で答えることになるだろう。
その覚悟があるならば、我らは待つ」
期限付きの猶予。それは、ノクスヴァイが確かに築いた信頼の証だった。
その後の会議は、時間をかけて細部を詰めていった。
書面の形式、期限、使者の選定。
すべてが過去の外交記録に基づく、正当な手順で決定された。
安堵の空気と共に、誰もが理解していた。
これが最後の穏便策になると。
*
マグナレオールへの使者は、三日で戻るはずだった。
だが──
一日。
二日。
三日。
いくら待っても、マグナレオールからの返答はなかった。
セグナールの街には、噂が広がり始める。
「やはり……不都合には沈黙を選ぶしかないのだろう」
「神を気取った国は、我らを見下している」
疑念は、熱を帯びていく。
”白鐘”の最上階。
夜も更け、少し暗い回廊で、セルルは立ち止まっていた。
その目線の先には、ラグナの街の灯がかすかに揺れている。
「……沈黙は、最も危険な返答だ。
他に何か手段は無いのか……このままでは──」
続くその言葉は、誰にも聞かれなかった。
*
四日目の昼。
大広間に集められた二国の使節団は、すでにその様相を変えていた。
ルミナスの神官たちは祈りの前の静けさではなく、断罪の前の静けさをまとっている。
ノクスヴァイの重役たちは、武力を望まぬがゆえに──誰もが苦しみの表情を浮かべていた。
その中央に、セルルは立っていた。
わずかに息を整える。
そして、誰も予想しなかった動きを見せた。
床に、両手をつく。
膝を折り、額を下げる。
部屋の空気が凍りついた。
その行動に他よりを衝撃を受けた人物が二人いた。
ノクスヴァイ王と、ミロディオス。
二人は、誰よりもセルルのことを知っている。
“頭を下げるな。軽く見られた瞬間に、外交は終わる”
その言葉を、何度も若い外交官たちに教えてきた男だ。
その男が、今──
百を超える人間の前で、床に伏していた。
「……お願い致します」
その声には悲壮でも、絶望も無い。
そこにあるのは、決意。
「どうか、私に時間をください。
このままでは、誰も引き返せなくなる」
顔を上げないまま、言葉を続ける。
「この状況を止める手段を──必ず、持ち帰ります」
ざわめきが広がる。
ミロディオスは、しばらく黙って見ていた。
やがてセルルの前に、膝を折った。
「……立て、セルル」
「お前がそこまでの覚悟を示した以上、
我らも“信仰の名”で押し切るわけにはいかぬ」
ノクスヴァイ側でも、王の側近たちが視線を交わす。
やがて、王が口を開いた。
「二日だ」
短い言葉。
「それ以上は……均衡国家として、何もせずにいることはできない」
セルルは、ようやく頭を上げた。
その目は、迷っていない。
「王よ。……必ず、戻ります」
*
ヴァルデン連合王国、理衡教の執務室。
ヴェルナはセルルの話を、最後まで遮らずに聞いていた。
机の上にある文書を閉じ、低く息を吐く。
「……限界はもう近い」
セルルは、即座に頷く。
「分かっている。
だが、今やらなければ、誰にも止められない」
ヴェルナは、視線を落とす。
「二国は、もう“正義”を選び始めている。
我らが動いたとて、マグナレオールが応えなければ状況は変わらない」
セルルは、静かに言った。
「だからこそだ。合理の名の元に、マグナレオールとの対話をする。
実現しなければ──均衡は、終わりを迎える」
少しの沈黙の後、ヴェルナは、目を上げた。
「……ヴァルデンは、中立を保つ」
「その上で──均衡会議の開催に、全力を尽くそう」
その声には、軽さはなかった。
「……感謝する、ヴェルナ」
彼女は、首を横に振った。
「私もまた……国を想っているだけだ」
二人の立場の違いも、年の差も、その言葉の前では平等だった。
*
セルルを見送った後、ヴェルナは執務室に一人残っていた。
机の上に広げた地図の上で、いくつもの国境線が複雑に絡み合っている。
指でなぞるたび、国の重さが伝わってくるようだった。
「これが最後の賭けになるか……」
その時、扉が静かに叩かれた。
「入れ」
現れたのは、情報部の伝令だった。
まだ若く、その顔に滲む緊張が隠せていなかった。
「ヴェルナ様。
……リラ・ヴェルノアらしき人物の目撃報告が、入りました」
胸が、微かに締めつけられる。
「生きている、ということか」
「……はい。ただ――」
言葉を選ぶように、伝令は一瞬間を置いた。
「各地で、“神の代行者”を名乗る過激派集団の噂が広がっています」
嫌な沈黙が落ちる。
「その集団はマグナレオールの紋章を掲げ、
その中心人物に“リラ・ヴェルノア”を置いていると……」
「……確認は?」
「できておりません。
いずれも、伝聞と目撃証言のみです」
ヴェルナは、ゆっくりと息を吐いた。
あくまで、噂程度の認識。
「リラじゃない。しかし……信じる者が出始めれば──世界が傾く」
伝令は、黙って頷いた。
ヴェルナは窓の外を見た。
外はまだ静かで、平穏そのものだ。
だが、どこか遠くで、何かが蠢き始めている。
──均衡会議まで、持ちこたえてくれ。
それは、世界に向けた祈りだった。
次回、均衡会議。




