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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
始まりの国
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揺らぎ

後戻りできなくなった最初の日の出来事。

 異変は、音から始まった。


 悲鳴ではない。破裂でもない。

 水が、怒っているような音だった。


 城下町の東端。

 古い水路と風車と吊り橋が交わる場所――町の人間は半ば冗談めかして「三つ結び」と呼んでいる。昔からある仕掛けが三つ、無理に同居しているからだ。便利で、風情があって、そして時々、危うい。


 低くうねる水音。

 規則を失った歯車の錆びた金属音。

 そこへ、木材が軋むような、嫌な音鳴りが重なった。


 私は足を止めた。


 思考より先に、身体が感じる。

 ――まずい。


 この場所は、普段は穏やかだ。水は浅く、風車はゆっくり回り、吊り橋は多少揺れても笑い話で済む。けれど、仕組みというのは、崩れ始めると連鎖する。


 私は歩調を上げた。

 走らない。走ると、より悪い事が起こってしまう気がした。

 そう考えた瞬間に、もう一段、嫌な音がした。


 水路の上流で、何かが弾けた音。


 乾いた衝撃。

 次いで、押し殺したような轟き。


 制御弁だ。


 水路の水量を調整する、古い弁。

 普段なら、職人が点検して、油を差して、なんとか保っている。

 けれど今年は凶作で、町も城も余裕がない。直すべき箇所が後回しになるのは、私だって知っている。


 弁が外れた。


 溜められていた水が一気に解放され、濁流が水路を叩き走る。

 その勢いで水車が跳ねるように回転し、風車に連動する歯車が、想定しない速度で噛み合い始めた。


 ――連鎖する。


 私は喉の奥が冷えるのを感じた。


 橋の上には、人がいて、逃げ惑っている。

 市場帰りの親子。荷を運ぶ男。景色を眺めて足を止めていた者。

 誰もが、まさかここで何かが起きるとは思っていなかった。


 そして――橋の中央で、男が一人、足を止めていた。


 先に誰かを逃そうとしていたのか。

 あるいは、ただの躊躇いだったか。

 

 その一瞬で、吊り橋が大きく揺れた。


 風車の羽が、空気を裂く。

 歯車が、噛み合う音を失う。

 橋の支柱が、ありえない方向に引かれる。


 男の身体が、ふわりと浮いた。


 落ちる。


 私は、そう“理解”した。

 理解した瞬間、背中を針で刺されるような感覚が走った。


 ――間に合わない。


 足が勝手に踏み出そうとする。

 でも、踏み出したところでどうする。私は橋の上にいない。縄を投げる? 手を伸ばす? 馬鹿げている。


 男の目がこちらを向いた気がした。

 助けを求めたのか、ただ視界に入っただけなのか、そんな違いはどうでもいい。


 次の瞬間、男は落ちた。


 濁流へ。


 水面は低いのに、落差は十分だった。下は岩もある。

 当たれば、骨が折れる。

 折れれば、息が止まる。


 ――死ぬ。


 私は、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。

 叫びたかった。けれど声が出ない。

 世界が、音を奪っていった。


 ……静かだ。


 完全な静寂じゃない。

 ただ、遠い。

 水の轟きが遠い。人の声が遠い。自分の鼓動だけが異様に大きい。


 それと同時に、身体が重くなった。


 足が地面に沈む。

 息が肺に入らない。

 指一本動かすのに、意識が必要だった。


 ――また、だ。


 どこかで覚えがある。

 説明できない。でも知っている。


 思考だけが、澄み切っていく。


 落ちた位置。

 水の流速。

 岩の配置。

 橋の傾き。

 支柱の外れ具合。

 歯車の欠け。


 まるで、世界の中の要素が一斉に“こちらへ並べられる”みたいだった。


 私は、息を吸った。

 吸えない。

 なら、吸うという意思だけでもいい。


 ――まだ、間に合う。


 何に?

 どうやって?


 そんな理屈は後だ。

 とにかく、間に合わない未来は嫌だ。


 私は足を踏み出した。

 重い。信じられないほど重い。

 走れない。走るという概念だけが空回りして、身体が置いていかれる。


 それでも前へ出る。


 橋の縁へ。


 落ちた男はもう見えない。

 濁流の泡が視界を塞ぐ。

 次の瞬間、私は“見た”。


 水面に浮かぶ影。

 沈む。

 抵抗が弱くなる。

 手が、沈む。


 私の中で、何かが切れる音を聞いた気がした。


 ――嫌だ。


 その瞬間。


 音が戻った。


 いや、戻ったというより――世界が、もう一度動き出した。


 水音が耳に刺さる。

 悲鳴が聞こえる。

 誰かが名前を叫ぶ。

 橋が悲鳴を上げる。

 自分の肺がようやく空気を吸い込む。


 私は、息を吐きながら、目の前を見た。


 男が――橋の縁にしがみついていた。


 落ちていない。


 落ちたはずなのに。

 沈んだはずなのに。

 死んだと“分かった”はずなのに。


 男は橋の板に爪を立て、白い顔で、息を荒くしていた。

 リラを筆頭に数人が飛びつき、腕を掴み、引き上げる。

 引き上げられた男が板の上に倒れ込むと、ようやく人々が息を吐いた。


 橋は崩れなかった。

 支柱は外れかけていたが、完全には外れていない。

 水路の弁は破損したが、致命的な破断には至っていない。

 水は溢れたが、町を飲み込むほどではない。


 数人が転び、打撲を負った。

 誰かが膝を擦りむいた。

 荷が濡れ、怒鳴り声が上がっている。


 大事故だった。


 けれど――死者はいない。


 私は、その場で立ち尽くしていた。


 心臓が遅れて暴れだす。

 指先が冷たい。

 肩が震える。

 息が、浅い。


 私は、今のを“見た”。


 落ちた。

 沈んだ。

 死ぬ、と分かった。


 でも、起きていない。


 周囲の人間は――誰もそれを口にしない。


 男の妻らしい女が泣きながら抱きつき、男は何度も「大丈夫だ」と繰り返す。

 近くにいた少年が、腰を抜かして座り込んでいる。

 荷車の男が「なんで橋が持ったんだ」と呟く。

 誰かが「止まった気がした」と言いかけて、言葉を飲み込む。


 ……言えないのだ。


 言葉にすると、嘘みたいになる。

 自分の身体だけが覚えている恐怖――落ちたはずの感覚。死んだはずの確信。

 それが説明できない。

 だから、口が追いつかない。


 でも、残っている。


 気持ち悪さが、薄い膜みたいに残っている。


 私は、その膜の中心にいる。


 私だけが、はっきりと知っている。

 今、“なかったこと”になったものがある。


 ――時間が戻った。


 そうとしか思えなかった。


 ほんの少し。

 致命的になる直前まで。

 落ちた瞬間の少し手前まで。


 私は握りしめていた拳に気づき、ゆっくり開いた。

 掌に汗が滲んでいる。


 誰にも言えない。


 今のを話したら、私は何者になる?

 城の人間はどう見る?

 町の人間はどう見る?


 説明のつかない出来事の、矛先が向く。


 ――嫌だ。


 私は、胸の奥に恐怖に近い感情が生まれるのを感じた。

 助けられたはずなのに。

 人が死ななかったはずなのに。


 怖い。


 自分の中の何かが、世界の歯車に指を突っ込んだような感覚。

 その指が折れずに済んだのは偶然で、次は折れるかもしれない、という直感。


 私は目を伏せる。


 水路の上で、職人たちが弁の残骸を確認している。

 橋の上では、兵が通行止めの縄を張っている。

 町の人々は不安そうに、しかし日常に戻るための言い訳を探すように動き出す。


 誰も“見ていない”。

 なのに、皆、どこか変だ。


 落ちたはずの恐怖だけが、身体に残っている。

 核心したはずの死だけが、内側に残っている。

 それを誰にも説明できないから、笑って誤魔化すこともできない。


 気味が悪い。


 私はその中心で、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 泣きたいわけじゃない。泣くほど整理されていない。


 ただ、怖い。


 ――この力は、一体何?


 時間が戻ったとしか説明できない。

 けれど、時間を動かした感触がない。

 手応えがない。

 あるのは、重さと、息の詰まりと、世界が一瞬こちらを見たような感覚だけ。


 私は唇を噛み、顔を上げた。


 大丈夫な顔を作る。

 息を整える。

 いつものように、何事もなかったように振る舞う。


 誰にも言えない。

 誰にも言わない。


 でも――知ってしまった。


 致命傷を負う前なら、間に合うなら、

 ほんの少し戻せば、救える。


 私は、そう信じた。


 信じてしまった。


 自分が何に触れたのかも知らないまま。


 そしてそれが、後に最も残酷な形で砕けることも――

 その時の私は、まだ知らなかった。


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