境界を踏み越える者たち
投稿お待たせしてしまい申し訳ございませんでした!
ここから先に“安全“はありません。
神殿の最奥の間は、外界と切り離されたような静寂に満ちていた。
白と青の石に囲まれた円形の間。
天井は高く、祈りの言葉が刻まれているのが見える。
そして中心に、淡く光る台座があった。
それを囲むのは、ルミナス王聖国における最高位の神官たち。
誰一人、言葉を発しない。
ただ祈るように、台座を見つめている。
その中に、ミロディオス・ルーメンもいた。
思記具。
正確には、台座が光っているのではない。
その上の思記具が光を放ち、作動していた。
彼は、目の前に映る映像を静かに受け止めている。
断片。
音の欠けた場面。
繋がらない情報。
それは、確かに“誰かの記憶”だった。
だが何度作動させても映像が断片的に再生されるだけで、全体像には程遠い。
ミロディオスは、ゆっくりと口を開いた。
「……不完全だな」
誰かが息を呑む。
「これで、我々と取引をするつもりか?」
ミロディオスはただ、事実を述べているだけだ。
その声は低いが、怒りは感じられない。
それでも神官の何人かは、顔を上げることができなかった。
「舐められたものだな」
沈黙が、さらに重くなる。
その時だった。
「もし、私が”完全”に発動させたら……どうなさいますか?」
場の空気が、わずかに揺れた。
声の主は、神官服に身を包んだ一人の男。
顔立ちは平凡で、印象に残らないような薄っぺらい存在。
現にミロディオスも、その男の名前を知らなかった。
彼は、丁寧な口調で続けた。
「実は私、魔法の扱いに……少々、心得がありまして」
他の神官たちが視線を向ける。
誰も、その男を咎めない。
沈黙が降りる。誰もがミロディオスの次の言葉を待っていた。
その時。
──鐘が鳴った。
澄んだ音が、神殿全体を満たす。
祈りの時刻。
神官たちは一斉に目を閉じ、胸の前で手を組む。
ミロディオスも、静かに祈りの姿勢を取った。
だが──
彼の意識は、別の場所にあった。
祈りの最中、ミロディオスは先程の声の気配を辿っていた。
男の動き。
呼吸。
指先の緊張。
そして──
鐘の余韻が消えるより、ほんの一瞬早く。
その男は、祈りを終えた。
誰よりも、わずかに早く。
ミロディオスは、目を開けた。
そして、穏やかな声で言った。
「……昔話をしよう」
神官たちが、戸惑ったように視線を向ける。
「まだ、私が若い頃だ。
この神殿の鐘は、まだ存在しなかった」
誰も口を挟まない。
「その当時、祈りは各々の呼吸に委ねられていた。
だが──神への祈りとは、個の声ではない。統一された一つの意思でなければ、神に届かない」
「だから、鐘を与えた。
鐘の響きで、祈りの呼吸を揃える。
祈りの刻に我らの意思を統一するために」
ミロディオスは、男を見ずに続ける。
「だが、かつて一人だけ──
祈りを、他より早く終える者がいた」
男は、微動だにしない。
「その者は言った。
“祈りの終わりは、鐘の音を聞いていれば分かる”と」
ミロディオスは、ようやく男を見た。
「……だが、それは違う」
「他の者たちは、神に意識を委ねている。
祈りに集中し、音に身を委ねている。だから、動きが揃う」
静寂。
ミロディオスの声が、低く落ちる。
「その者は違った。祈りをしていない。
形だけを模倣し、人の呼吸と動作の流れを読んでいただけだった。
それ故に──ほんの一瞬早く、祈りを終えるのだ」
男は、首をわずかに傾けただけだった。
ミロディオスは、静かに告げる。
「……そう。
お前のような“もの”だった」
場の空気が、凍りついた。
神官たちの視線が、男に集中する。
男は──何も言わず、神官服を脱ぎ捨てた。
そして、淡々と一言だけを発する。
「それを、完全に作動させてやろう」
対等な声。
謙りも、恐れもない。
ミロディオスも、表情を変えない。
ただ、わずかに頷いただけだった。
男が一歩踏み出し、思記具に手をかざす。
その動きに、迷いは見えなかった。
そこには、躊躇いも緊張も感じられない。
次の瞬間、辺りが眩く光り始める──
神官たちは、思わず半歩退いた。
「……制御は、こちらで」
その指先が、光の流れをなぞった瞬間。
思記具の輝きが、変わった。
空気が、震え出す。
神殿が遠ざかり、視界が塗り替えられた。
*
目を開けた。
結晶の梁と、層を成す街。
光が循環し、都市そのものが呼吸しているようだ。
マグナレオール。
その景色を、透き通るような淡い瞳を通して見ていた。
〈……すごい〉
耳元でかすかな声。
胸の奥で弾ける高揚感さえ感じられる。
すぐに場面は、切り替わる。
講義室だろうか。
水晶板に描かれる構文。
教授と思われる人物が言った。
“自由に見えるように、徹底して制御されている”。
その言葉が、空気に残る。
次の瞬間、実習室。
水晶の筒に走る線。
集中し、手をかざしている。
たったそれだけのことで、彼女の空間だけが”最適”に整った気がした。
そして、教授の視線。
記録される、無言の警告。
記憶の主の焦りが伝播してくる。
場面が跳ぶ。
図書館。
古い木の匂い。
光が差し込む棚。
差し出される、一冊の本。
〈ここへ入ってはいけない〉
小柄な研究着の少女。
眼鏡の奥の、揺れない目。
〈あなたには“資格”がないから〉
拒絶の言葉が、静かに落ちる。
ミロディオスは、その言葉を胸に止める。
──資格。
それは、知識の話じゃない。
触れていい“境界”の話だろう。
また風景が変わり、夕刻の回廊。
影の伸び方が、半拍ずれている。
水晶の反射の仕方が、いつもと微妙に違っている。
“誤差”。
本来、起きないはずの微差。
違和感と不安を同時に感じている。
記憶に映る指が、思記具に触れかける。
〈それ、使う気か?〉
低い声。
派手さのない服。
指に嵌められた指輪。
誰だ?という問いが浮かぶより先に、
記憶の奥で”その名”が微かに反応した。
──シグ。
〈ここでは、駄目だ〉
彼は、理由を多く語らない。
〈君が正しい判断をしてしまうから〉
沈黙。
指輪から手を離す。
そして──思記具を、外した。
景色が霧散して、光が薄くなっていく。
その瞬間、ミロディオスは理解した。
今回の世界の異変。これは、事故ではない。
意図的な“干渉”による結果だ。
たとえ支配の意思がなくとも、
世界の法則に触れてしまったのだ。
視界が、暗転する。
思記具の光が、神殿の中央で収束した。
静寂。
誰も、声を出せない。
言葉にする前に、理解が揃ってしまったがゆえの沈黙だ。
神官の一人が、喉を鳴らす。
別の者は、唇を噛み、耐えるように目を閉じた。
肩を震わす者。強く拳を握りしめる者。
それぞれの怒りの混ざった熱が、円形の間に渦を作っていた。
ミロディオスは、ゆっくりと息を吐く。
そして、確信をもって言う。
「……世界を、弄んだな。マグナレオール」
それは、断罪の言葉。
神官たちの中に、怒りが灯る。
信仰国家として、決して許されぬ行為。
神は、人の手で“調整”されるものではない。
ミロディオスは、静かに目を閉じる。
「真実を確かめる。
そして……必要なら、断つ」
その声は、冷たく空気を震わせた。
男は、まだそこに立っていた。
思記具の余光が消える中、顔色ひとつ変えない。
再度、男へ視線が集まる。
「お前は何者だ」
男は答えない。
首を傾けるだけだ。ほんのわずかに。
ミロディオスは、その沈黙を許した。
問いに意味がないと分かっているからだ。
ここにいる時点で、この男は、名では縛れない。
男は、淡々と口を開いた。
「あなたなら……分かるでしょう」
その一言に、含みだけが残る。
ミロディオスは、微かに笑った。
「お前が……いや、お前だけではないな」
男は、もう何も言わない。
歩き出す。
神官が反射的に一歩踏み出しかけるが、ミロディオスが軽い動きで制止する。
追う必要はない。
逃げたのではなく、去ったのだ。
この場に「用がある」だけの者は、目的を果たした。
男の背が扉の影に溶ける寸前、ミロディオスは静かに告げた。
「次に現れる時は、祈りの場を汚すな」
男は振り返らない。
ただ足音だけが、規則正しく遠ざかっていく。
残ったのは祈りの場と、冷えた決断だけだった。
ミロディオスは神官たちへ向き直る。
「ノクスヴァイへ使者を出す」
神官たちの目が、同時に光った。
「協力し、マグナレオールへ“説明”を求める」
説明。
だが、その響きは柔らかくない。
「返答が曖昧なら、次は“告解”だ」
告解。
その言葉が出た瞬間、円形の間の空気が、さらに重く沈んだ。
ミロディオスは、低く言った。
「神の領域に触れた者が、神の名を借りて平然としているなら……
それは、もはや国家ではない」
神官の一人が、静かに頷く。
「……冒涜です」
「そうだ」
ミロディオスは、思記具を見下ろした。
彼女の記憶。
そこには、意図が見えない。悪意も見えない。
それが余計に危険だった。
純粋な悪意よりも、正しさの方が手に負えないこともある。
「準備を」
短い命令。
神官たちは一斉に頭を下げ、散った。
彼は一人残った部屋で、神に祈りを捧げた。
世界が誰かによって支配されてしまったなら──その時は。
外部の鐘楼が、静かに影を落としていた。
*
ノクスヴァイ王国、宰務局の一室。
エリオ・カーディスは、机の上に置かれた一通の文書を無言で見つめていた。
封蝋は白。
刻まれている紋章は、南方諸邦ルミナス王聖国のものだった。
指先でそれをなぞり、ゆっくりと封を切る。
中の文面は丁寧で、礼節に満ちている。
だがその言葉の裏にある意味は、はっきりしていた。
「マグナレオールにおける世界異変の件につき、
ルミナス王聖国は、ノクスヴァイ王国との二国間会議を要請する」
あくまで要請という体裁を保っているが、実態は通告に近い。
すでにルミナスは、結論を出しているはずだ。
それを正当な形で表に出すためにノクスヴァイを踏み台にするつもりだろう。
口元が、わずかに歪む。
「……良い。やっと動いたか」
窓の外に視線を移す。
小さな鳥が一羽、気配を察したように飛び去った。
リラ・ヴェルノアの顔が、脳裏に浮かぶ。
殺したいわけじゃない。
傷つけたいわけでもない。
あの女がノクスヴァイに戻れなくなればいい。
それだけでいい。
帰路を塞げば、それで終わりだ。
生死など……些細な問題だ。
「あの女がいる限り、邪魔な正義ばかりが残る」
ぽつりと呟く。
彼女がいると、国が迷う。
“正しさ”を言い訳にして、何もしない者が増える。
正しさは、時に足枷になる。
特に、野心を持つ者にとっては。
椅子が、古く軋んだ音を立てる。
彼女は、均衡を保つ側の人間だ。
だからこそ──
均衡を壊してでも前に進みたい自分にとって、最大の障害になる。
ルミナスの動きは、好都合だった。
マグナレオール。
あの“完成された国”。
世界異変と、無関係であるはずがない。
そう思わせるだけの“理由”は、すでに揃っている。
文書を机に広げ、指を組んだ。
「説明責任……便利な言葉だ」
これで刃を立てられる。
敵にも……味方にも。
沈黙を続ける理由は、もう消えた。
世界が揺らいでいる以上、
何もせずにいることは“責任放棄”と同義になる。
だからこれは、必然だ。
ルミナスが行動を起こしてくれた。
ノクスヴァイもこれに乗るしかない。
ゆっくりと立ち上がる。
「……沈黙を破る時だ」
呟いてから、もう一度だけ窓の外を見る。
遠くの空。
彼女がいる方角。
「悪く思うな。戻る席は──用意しない」
文書を閉じると同時に、
均衡は音もなく傾いた。
何を壊し、何を守るのか。
第三部、開幕です。




