水面下の賭け
更新お待たせしました!
第三部、2話です。
戻りつつある日常。
だが崩壊の時は──すぐそこまで来ています。
その箱は、あまりにも異質だった。
エリオの執務室に届く荷は、すべて精査されてから届けられる。
誰が、どこから、どの経路で──例外無く、全てがくまなく記録された状態で。
だが、その箱には何もなかった。
差出人の名も、国印も、流通管理の記号すらない。
唯一、中身を封じるように垂らされた蜜蝋だけが確認できる。
色は深い紅色をしている。
そして、蜜蝋。それ自体は何の変哲も無いように見えるが──問題は、印だった。
刻まれた印。それはエリオには見覚えのないものだった。
王城で扱われる封蝋の紋章は、すべて頭に入っている。
ノクスヴァイ国内はもちろん、同盟国、敵対国、宗教国家に至るまで。
それでも、この印は記憶に引っかからなかった。
印の構成は、単純だった。線と、円。そして簡単な記号が組み合わさっている。
だが、意味が読み取れない。
「……」
エリオは、指先で箱の縁に触れたまま、数秒動かなかった。
開けること自体は簡単だ。
だが、“開けていいものか”は別問題だった。
理性が告げている。
これは罠だ。もしくは、試されている。
同時に、別の感覚が強く囁いていた。
──無視すれば、取り返しがつかない。
エリオは、ゆっくりと封蝋にナイフを入れた。
ずぶり、とナイフが入る感触。
異様に粘りのある蝋が、刃に絡みつく。
封が切れた瞬間、背中がぞわりとした。
誰かに見られたような感覚。
……気のせいだ。
蓋を開ける。
中に入っていたのは、小さな布に包まれた──銀の装飾品だった。
石?……にしては、作りが良すぎる。
表面は滑らかで、意匠も最小限であるにも関わらず、妙に目を引く。
思考の末に、エリオの脳裏をよぎる言葉があった。
──思記具。
記憶を“記録”する魔導具。
極めて希少であり、北の独自の技術装飾だと聞く。
エリオは実物を見たことがない。
ただ、思い当たるものがある。
確か、部下の一人が前に報告を上げていたはずだ。
曰く──リラ・ヴェルノアが見慣れない装飾を身に付けている、と。
エリオは眉をひそめる。
(なぜ、今……)
答えを探す前に、指先がそれに触れてしまった。
その瞬間。
突然、音が鳴った。
耳ではないところ。
頭の奥で、何かが反響した。
目の前の景色が塗り替わる。
石造りの部屋。開け放たれた窓。
逆光の中に、白い髪の女が立っていた。
〈……ここ、大事だから覚えておいて〉
リラ・ヴェルノア。
ノクスヴァイの外交官補佐。
今はもう、生死不明となっている。
映像は断片的に流れていく。
そこからは、言葉も、表情も、途切れ途切れにしか見えなかった。
〈マグナ……ルは……している〉
〈世界は……それ…………〉
音が歪み、音が遠くなっていく。
そこで映像は終わり、エリオは自分が机に手をついていることに気づいた。
息が、わずかに乱れていた。
これは、記憶だ。
彼自身のものではない。他の──あの女の記憶。
間違いない。これが、思記具。
確信が背筋を冷やした。
同時に、別の感情が湧き上がる。
……なぜ、あの女がこれを持っている?
いや、それよりも。
なぜ、これが今、私の元にある?
思考が沈みかけて、すぐに浮上する。
なぜか?それを考えることに意味はない。
推測はいくらでもできるが、真実を突き止めるのは骨が折れるだろう。
重要なのは、これがもたらす価値だ。
エリオは、沈黙した思記具を見つめた。
これは情報だ。
断片的で、整理ができておらず、危険だ。
だが。
世界が混乱の中にある今、
“記録された記憶”ほど、強い武器はない。
彼は、静かに箱の蓋を閉じた。
決断は、すでに下っている。
動くなら、今しかない。
予定表を一瞬開き、すぐに閉じる。
彼の几帳面さが出た文字列を、じっくりと確認する必要はなかった。
思記具は、執務机の引き出しの奥に置いた。
鍵はかけていない。
かける必要が無いのだ。
これを送った人物は、私が利用することを前提にしているのだから。
触れたときの残響。
断片的な言葉。
他者の記憶の再生。
だが、感傷に浸る時間はない。
エリオは立ち上がり、窓の外を見つめた。
復旧が進む街。
日常は戻りつつある。
だが、人々の視線は落ち着いていない。
世界は、原因を欲している。
原因がなければ、怒りを向けられない。
怒りがなければ、動けない。
だから人は、理由を求めてしまう。
「……ルミナスか」
南方諸邦、ルミナス王聖国。
世界そのものを信仰対象とする、異質な国家。
奇跡も、災厄も、すべてを“神の意思”として解釈する国だ。
奴らは“世界の怒り”という言葉に、必ず反応する。
利用できる。
エリオは、椅子に腰掛けたまま指を組む。
──火種を渡す。
これは交渉ではない。説得でもない。
誘導だ。
信仰国家に、あれは原因のある事象だったと説明する。
世界が動いたのだと、そう思わせる。
思記具はその鍵になる。
記録された記憶。
しかも、異変の中心にいた人物のもの。
これ以上、奴らの興味を引く材料はない。
冷静に考えれば、危険な賭けだ。
宗教は制御できない。
火をつければ、どこまで燃えるか分からない。
だが。
燃えなければ、何も動かない。
この一手で、世界は確実に傾く。
彼は封筒を取り出し、ペンを走らせた。
『南方諸邦、ルミナス王聖国。
特使派遣の件』
信仰国家との情報交換。
均衡維持のための協議。
どれも嘘ではない。
「本当」を盾にして、真実を隠す。
エリオは署名を終え、紙を置いた。
静かに息を吐く。
一度揺れた世界に、火種を落とす。
その賭けの代償を、誰が払うかは──まだ、決まっていない。
*
南方諸邦、ルミナス王聖国。
陸路でノクスヴァイと繋がるこの国に、エリオは敢えて海路での入国を選んだ。
この国にとって、海はただの地形ではない。
祈りの対象であり、境界であり、世界と繋がる「口」だ。
ただ一度の過ちが、自信を危険に陥らせる危険な賭け。
最適な一手を打つためには、正面から踏み込み”信仰”を肌で感じる必要がある。
船が港へ近づくにつれ、空気が変わっていく。
潮の匂いが濃い。
波は穏やかで、船腹に当たる音も控えめだ。
風が強く吹いているが、騒がしくはない。
エリオは甲板に立ち、港を見下ろした。
まず目に入るのは、巨大な像だった。
そして、断崖に沿って連なる街並み。
建物は白い壁で統一され、屋根は青。
濃淡はあれど、大部分が鮮やかな色味を保っている。
建物の壁には文字が彫り込まれているらしい。
遠目で見たそれは、複雑な模様にしか映らない。
港の中央には石造りの柱が立っていた。
人の背丈を遥かに超える、細長い柱。
例に漏れず、細かな文字が模様のように刻まれている。
教義だ。
だが、誰もそれを読もうとしない。
時折視線を向ける者がいる程度だ。
漁師が、出航前に動きを止める。
額に手を当て、短く祈る。
荷を運んでいる子供が、走りながら小さく口を動かす。
聖句を暗唱している。
この国において、祈りは特別な行為ではない。
生活の一部だ。
船が接岸すると、鐘が鳴った。
一つ鳴ると、共鳴するように他の場所でも音が響きだす。
街のあちこちから、重なり合う音。
その音程は様々だ。
不思議な感覚だった。
歓迎されているような、拒絶されているような。
鐘の音に合わせて、人の動きが変わる。
話していた者が口を閉じる。
歩いていた者が、自然に足を止める。
皆が一斉に、巨大な像の方角を向き、祈りを捧げる。
「祈りの刻です」
案内役の神官が淡々と告げた。
表情は柔らかく、声も穏やかだ。
だがその口調には、彼を判断するような響きが含まれていた。
港全体の時が止まっているようだった。
人々は同じ方向を向き、目を閉じている。
誰かが号令をかけたわけではないのに、揃っている。
ただ信じているだけだ。
──神を。
祈りが終わると、何事もなかったように動きだす。
エリオは、背筋に微かな寒気を覚えた。
ヴァルデンとも、ノクスヴァイとも違う。
ここでは、基準を制度が縛っているわけではない。
代わりに、世界そのものが基準になっている。
「……国が、信仰で動いている」
エリオが呟くと、神官は小さく微笑んだ。
「ええ。私たちは、神に従っているだけです」
従っている。
その言葉に、疑問は感じられない。
街を進む。
道は石畳。
隙間には、青いタイルが埋め込まれている。
近づいて見れば、そこにも聖句が刻まれている。
足元にまで、祈りがある。
市場には魚が並ぶ。
生臭さは無い。
銀色の鱗が光り、香草と果物の匂いも混じっている。
白い布に包まれた塊が目に入る。
フェターニアと呼ばれる乳製品だと、神官が言った。
「神の恵みです。海も山も、等しく」
世界が与えた、ただそれだけで十分らしい。
エリオの前を歩いていた神官が、足を止める。
白い神殿が見えていた。
海を背にして建てられ、
光を受けて眩しいほどに輝いている。
神の意思を映す鏡のように。
「これより、清めの儀に入っていただきます」
その言葉に、エリオは小さく頷いた。
ここからが、本番だ。
*
神殿の奥へ進むと共に、周辺の空気が徐々に冷たく変化していった。
冷たくて、少し湿っている。
それに──やけに静かだ。
音は存在している。
足音は響くし、布の擦れる音もする。
だが、誰も無駄な音を立てない。
通されたのは、円形の小部屋だった。
中央には、浅い石の器。
中には透明な液体が見える。
気づかぬうちに、神官が三人立っていた。
全員、表情が読めない。
そのうちの一人が、口を開く。
「清めを行います。──こちらへ」
説明は無い。
エリオは一瞬戸惑ったが、すぐに言われた通りに動く。
ここでの余計な言葉は、確実に損になる。
神官の一人に、腕を取られた。
その力は弱く、抵抗はできる。
だが、する意味はない。だからしない。
「顔を下へ」
次の瞬間。
──冷たい。
塩水だ。
容赦なく、顔を洗われる。
というより、ほぼ押し付けられている。
鼻に入る。
口に入る。
目が痛い。鼻がツーンとする。
「……っ」
堪らず顔を上げた瞬間、額に手が当てられた。
「祈りを」
神官の声は、驚くほど穏やかだった。
エリオは、息を整える。
口を開く。
覚えたばかりの聖句を、正確に唱える。
一度でも間違えることは許されない。
間違えた場合は儀式が最初からになると、案内役の神官が言っていた。
塩水が、頬を伝う。
反射的に拭おうとして──
神官の手が、それを静止する。
「触れてはなりません」
理由は言わない。
次。
乾く前に、次の工程。
額に何かを塗られる。
ざらり、とした感触。
塩だ。
異常なほど、量が多い。
そして数秒後。
当然の事態が起こる。
水によって溶けた濃い塩水が、目に入ってきた。
──これは、試されているのか?
エリオは涙が滲んできた目で、周りの神官の顔を伺う。
だが誰一人、ふざけているような素振りの者はいなかった。
塩水はじわじわと、確実に目に入ってきている。
視界が滲む。
強く目を閉じるが、全く効果がない。
涙が出る。
止まらない。
だが、拭けない。
拭こうとした瞬間、神官が首を振る。
「祝福です」
祝福らしい。
「涙は、穢れが流れ出た証です。素晴らしい」
エリオは、歯を食いしばった。
目が開かない。
開けると、さらに痛い。
顔は熱い。
間違いなく、真っ赤だ。
だが周囲は──
感動したような表情をしていた。
「……神の祝福が、よく届いています」
横にいる神官が、真剣に頷いた。
エリオは悟った。
ここで拒否するのは、最悪手だ。
ここで必要なのは、演じること。
奴らの信用を得なければ、この先へは進めない。
ゆっくりと、息を吸う。
怒りで震える声を抑える。
「……一瞬」
涙を堪えながら。
「一瞬ですが」
「神の祝福に、触れたような気が致しました」
少しの間。
神官たちの目が、わずかに細くなる。続けろ、と言っている。
「深く……感動しております」
内心は、完全に逆だった。
だが、表情は崩さない。
いや、崩せない。
目が痛すぎる。
神官達は、満足そうに頷いた。
「素晴らしい。あなたにも、見えたのですね」
「では、謁見へ」
解放された瞬間、足が少しふらつく。
涙で視界が歪んでいる。
だが誰も、それを異常だとは思っていない。
祝福の余韻として処理されている。
エリオは、心の中で誓った。
二度と、この儀式を体験することはない。
だが、この国は使える。
痛みと共に、その確信だけが残った。
*
神殿の奥は、ひどく静かだった。
先ほどまで街に満ちていた潮の匂いも、鐘の音も、ここには届いていない。
空間ごと遮断されているようだった。
天井は高いが、広くは感じない。
せいぜい、人が20人も入れば窮屈に感じる程度。
正面に、石の玉座のようなもの。
少し異様だった。
街の至る所には聖句が刻まれていたのに。
玉座には、ところどころが削ぎ落とされたような跡がある。
背後には大きな開口部があり、そこから海が見えている。
逆光が入り込んでいる。
そこに、人影の輪郭だけが浮かび上がっていた。
「──前へ」
声が落ちてくる。
予想外に、穏やかな声だった。
エリオは一歩、前へ出る。
目が、ようやく慣れてくる。
そこにいたのは一人の男だった。
ルミナス王聖国が王、ミロディオス・ルーメン。
年齢は、分からない。
老いているようにも見えるが、断定ができない。
肌は白いのに、気弱な印象とは真逆だった。
その原因は、目だ。
白い布が両目を隠すように巻かれている。
にも関わらず、エリオをまっすぐに捉えていた。
「ノクスヴァイの使者だな」
既に知っている、という声色。
エリオは、深く一礼する。
「ノクスヴァイよりの外交官、エリオ・カーディス。
本日は謁見の機会を賜り、感謝いたします」
外交の定型文を言い終える。
恐らくそれは、意味を成していない。
ミロディオスは、エリオの存在を計っている。
「……顔が赤いな」
一瞬、エリオの思考が止まる。
清めの儀の余波。
涙の痕。
熱。
「祝福を、受けて参りました」
即答する。
声は安定している。
ミロディロスは、口元をわずかに緩めた。
笑みではない。
恐らく、観察が一段終わったのだろう。
「そうか」
「では、本題に入ろう」
空気が変わる。
ミロディオスの背後から差し込む光が、急に遠く感じられた。
「お前は……世界が怒ったと言った。
我らは、そうは考えない」
エリオは、ここで初めて息を吸った。
「怒りではない、と?」
「選別だ」
その言葉には、揺らぎがない。
「世界は、選んだのだ」
エリオは何も言わず、ただ思記具を取り出した。
布に包まれた、小さな装飾。
これを見せた瞬間、
ミロディロスの目が、わずかに細くなる。
──反応した。
いける。これは、使える。
「これは、記憶を”記録”する魔導具です」
「内部には、断片的ですが……
異変の中心にいた、ある女の記憶が残っています」
あえて詳細は語らない。
主導権を、渡さないために。
ミロディロスは立ち上がらない。
だが、確実に流れがこちらに来ている。
「お前は」
「それを、我らに渡してどうする」
ミロディオスの言葉が、鋭さを増す。
「取引です」
「信仰国家である貴国ならば、
“世界の意思”という概念に、価値を見出すはずです」
長い沈黙が降りた。
だが、拒絶の意思は感じられない。
「……我らを利用するか?」
穏やかな声。
だが、逃げ場がない。
真の意図を隠すためには、時に正直であることも必要だ。
エリオは答える。
「はい」
一瞬。
見えていないはずのミロディオスの目が、不気味に光った気がした。
ミロディロスは、笑った。
今度は、はっきりと。
「フン……よろしい。お前の思い通りに動いてやろう」
背に、冷たいものが走る。
思い通りに動いているはずなのに、違和感がある。
「ただし」
差し込んでいた光が遮られ、空間を闇が支配する。
ミロディロスの顔が、陰になる。
「何かが起きた時」
「その責は、すべてお前が負え」
逃げ道が、消える。
エリオは、理解した。
この男は、
神の意思を語る者では無い。
神の側に、立っている。
「……承知致しました」
声は震えていない。
だが、内心は違う。
これは賭けだ。
勝てば、世界が動く。
負ければ、全てを失う。
ミロディロス・ルーメンは、最後にこう言った。
「世界は、名を失っている」
「だが、名を失ったものほど──
人は、勝手に呼び始める」
エリオにはまだその意味を理解できなかった。
だが一つだけ、確信した。
この国は、
自分の掌の上にはない。
最初から。
エリオの賭け。
代償を払うのは──
彼だけではありません。
「誰もが正しい」という地獄の、始まりです。




