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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
名を失った均衡世界
38/54

水面下の賭け

更新お待たせしました!


第三部、2話です。

戻りつつある日常。

だが崩壊の時は──すぐそこまで来ています。


 その箱は、あまりにも異質だった。


 エリオの執務室に届く荷は、すべて精査されてから届けられる。

 誰が、どこから、どの経路で──例外無く、全てがくまなく記録された状態で。


 だが、その箱には何もなかった。


 差出人の名も、国印も、流通管理の記号すらない。

 唯一、中身を封じるように垂らされた蜜蝋だけが確認できる。


 色は深い紅色をしている。

 そして、蜜蝋。それ自体は何の変哲も無いように見えるが──問題は、印だった。


 刻まれた印。それはエリオには見覚えのないものだった。


 王城で扱われる封蝋の紋章は、すべて頭に入っている。

 ノクスヴァイ国内はもちろん、同盟国、敵対国、宗教国家に至るまで。


 それでも、この印は記憶に引っかからなかった。


 印の構成は、単純だった。線と、円。そして簡単な記号が組み合わさっている。

 だが、意味が読み取れない。


「……」


 エリオは、指先で箱の縁に触れたまま、数秒動かなかった。


 開けること自体は簡単だ。

 だが、“開けていいものか”は別問題だった。


 理性が告げている。

 これは罠だ。もしくは、試されている。


 同時に、別の感覚が強く囁いていた。


 ──無視すれば、取り返しがつかない。


 エリオは、ゆっくりと封蝋にナイフを入れた。


 ずぶり、とナイフが入る感触。

 異様に粘りのある蝋が、刃に絡みつく。


 封が切れた瞬間、背中がぞわりとした。

 誰かに見られたような感覚。


 ……気のせいだ。


 蓋を開ける。


 中に入っていたのは、小さな布に包まれた──銀の装飾品だった。


 石?……にしては、作りが良すぎる。

 表面は滑らかで、意匠も最小限であるにも関わらず、妙に目を引く。


 思考の末に、エリオの脳裏をよぎる言葉があった。


 ──思記具。


 記憶を“記録”する魔導具。

 極めて希少であり、北の独自の技術装飾だと聞く。


 エリオは実物を見たことがない。

 ただ、思い当たるものがある。


 確か、部下の一人が前に報告を上げていたはずだ。

 曰く──リラ・ヴェルノアが見慣れない装飾を身に付けている、と。


 エリオは眉をひそめる。


 (なぜ、今……)


 答えを探す前に、指先がそれに触れてしまった。


 その瞬間。


 突然、音が鳴った。


 耳ではないところ。

 頭の奥で、何かが反響した。


 目の前の景色が塗り替わる。


 石造りの部屋。開け放たれた窓。

 逆光の中に、白い髪の女が立っていた。


 〈……ここ、大事だから覚えておいて〉


 リラ・ヴェルノア。


 ノクスヴァイの外交官補佐。

 今はもう、生死不明となっている。


 映像は断片的に流れていく。

 そこからは、言葉も、表情も、途切れ途切れにしか見えなかった。


 〈マグナ……ルは……している〉

 〈世界は……それ…………〉


 音が歪み、音が遠くなっていく。


 そこで映像は終わり、エリオは自分が机に手をついていることに気づいた。


 息が、わずかに乱れていた。


 これは、記憶だ。


 彼自身のものではない。他の──あの女の記憶。


 間違いない。これが、思記具。


 確信が背筋を冷やした。


 同時に、別の感情が湧き上がる。


 ……なぜ、あの女がこれを持っている?


 いや、それよりも。


 なぜ、これが今、私の元にある?


 思考が沈みかけて、すぐに浮上する。


 なぜか?それを考えることに意味はない。

 推測はいくらでもできるが、真実を突き止めるのは骨が折れるだろう。


 重要なのは、これがもたらす価値だ。


 エリオは、沈黙した思記具を見つめた。


 これは情報だ。

 断片的で、整理ができておらず、危険だ。


 だが。


 世界が混乱の中にある今、

 “記録された記憶”ほど、強い武器はない。


 彼は、静かに箱の蓋を閉じた。


 決断は、すでに下っている。


 動くなら、今しかない。


 予定表を一瞬開き、すぐに閉じる。

 彼の几帳面さが出た文字列を、じっくりと確認する必要はなかった。


 思記具は、執務机の引き出しの奥に置いた。

 鍵はかけていない。

 かける必要が無いのだ。


 これを送った人物は、私が利用することを前提にしているのだから。


 触れたときの残響。

 断片的な言葉。

 他者の記憶の再生。


 だが、感傷に浸る時間はない。


 エリオは立ち上がり、窓の外を見つめた。


 復旧が進む街。

 日常は戻りつつある。


 だが、人々の視線は落ち着いていない。


 世界は、原因を欲している。


 原因がなければ、怒りを向けられない。

 怒りがなければ、動けない。


 だから人は、理由を求めてしまう。


「……ルミナスか」


 南方諸邦、ルミナス王聖国。

 世界そのものを信仰対象とする、異質な国家。

 奇跡も、災厄も、すべてを“神の意思”として解釈する国だ。


 奴らは“世界の怒り”という言葉に、必ず反応する。


 利用できる。


 エリオは、椅子に腰掛けたまま指を組む。


 ──火種を渡す。


 これは交渉ではない。説得でもない。


 誘導だ。


 信仰国家に、あれは原因のある事象だったと説明する。

 世界が動いたのだと、そう思わせる。


 思記具はその鍵になる。


 記録された記憶。

 しかも、異変の中心にいた人物のもの。


 これ以上、奴らの興味を引く材料はない。


 冷静に考えれば、危険な賭けだ。


 宗教は制御できない。

 火をつければ、どこまで燃えるか分からない。


 だが。


 燃えなければ、何も動かない。


 この一手で、世界は確実に傾く。


 彼は封筒を取り出し、ペンを走らせた。


 『南方諸邦、ルミナス王聖国。

  特使派遣の件』


 信仰国家との情報交換。

 均衡維持のための協議。


 どれも嘘ではない。

 「本当」を盾にして、真実を隠す。


 エリオは署名を終え、紙を置いた。


 静かに息を吐く。


 一度揺れた世界に、火種を落とす。

 その賭けの代償を、誰が払うかは──まだ、決まっていない。


 *


 南方諸邦、ルミナス王聖国。


 陸路でノクスヴァイと繋がるこの国に、エリオは敢えて海路での入国を選んだ。


 この国にとって、海はただの地形ではない。

 祈りの対象であり、境界であり、世界と繋がる「口」だ。


 ただ一度の過ちが、自信を危険に陥らせる危険な賭け。

 最適な一手を打つためには、正面から踏み込み”信仰”を肌で感じる必要がある。


 船が港へ近づくにつれ、空気が変わっていく。


 潮の匂いが濃い。


 波は穏やかで、船腹に当たる音も控えめだ。

 風が強く吹いているが、騒がしくはない。


 エリオは甲板に立ち、港を見下ろした。


 まず目に入るのは、巨大な像だった。


 そして、断崖に沿って連なる街並み。

 建物は白い壁で統一され、屋根は青。

 濃淡はあれど、大部分が鮮やかな色味を保っている。


 建物の壁には文字が彫り込まれているらしい。

 遠目で見たそれは、複雑な模様にしか映らない。


 港の中央には石造りの柱が立っていた。


 人の背丈を遥かに超える、細長い柱。

 例に漏れず、細かな文字が模様のように刻まれている。


 教義だ。


 だが、誰もそれを読もうとしない。

 時折視線を向ける者がいる程度だ。


 漁師が、出航前に動きを止める。

 額に手を当て、短く祈る。


 荷を運んでいる子供が、走りながら小さく口を動かす。

 聖句を暗唱している。


 この国において、祈りは特別な行為ではない。

 生活の一部だ。


 船が接岸すると、鐘が鳴った。


 一つ鳴ると、共鳴するように他の場所でも音が響きだす。

 街のあちこちから、重なり合う音。


 その音程は様々だ。


 不思議な感覚だった。

 歓迎されているような、拒絶されているような。


 鐘の音に合わせて、人の動きが変わる。


 話していた者が口を閉じる。

 歩いていた者が、自然に足を止める。


 皆が一斉に、巨大な像の方角を向き、祈りを捧げる。


「祈りの刻です」


 案内役の神官が淡々と告げた。


 表情は柔らかく、声も穏やかだ。


 だがその口調には、彼を判断するような響きが含まれていた。


 港全体の時が止まっているようだった。


 人々は同じ方向を向き、目を閉じている。


 誰かが号令をかけたわけではないのに、揃っている。


 ただ信じているだけだ。


 ──神を。


 祈りが終わると、何事もなかったように動きだす。


 エリオは、背筋に微かな寒気を覚えた。


 ヴァルデンとも、ノクスヴァイとも違う。


 ここでは、基準を制度が縛っているわけではない。


 代わりに、世界そのものが基準になっている。


「……国が、信仰で動いている」


 エリオが呟くと、神官は小さく微笑んだ。


「ええ。私たちは、神に従っているだけです」


 従っている。

 その言葉に、疑問は感じられない。


 街を進む。


 道は石畳。

 隙間には、青いタイルが埋め込まれている。


 近づいて見れば、そこにも聖句が刻まれている。


 足元にまで、祈りがある。


 市場には魚が並ぶ。

 生臭さは無い。

 銀色の鱗が光り、香草と果物の匂いも混じっている。


 白い布に包まれた塊が目に入る。

 フェターニアと呼ばれる乳製品だと、神官が言った。


「神の恵みです。海も山も、等しく」


 世界が与えた、ただそれだけで十分らしい。


 エリオの前を歩いていた神官が、足を止める。


 白い神殿が見えていた。


 海を背にして建てられ、

 光を受けて眩しいほどに輝いている。


 神の意思を映す鏡のように。


「これより、清めの儀に入っていただきます」


 その言葉に、エリオは小さく頷いた。


 ここからが、本番だ。


 *


 神殿の奥へ進むと共に、周辺の空気が徐々に冷たく変化していった。


 冷たくて、少し湿っている。

 それに──やけに静かだ。


 音は存在している。

 足音は響くし、布の擦れる音もする。


 だが、誰も無駄な音を立てない。


 通されたのは、円形の小部屋だった。


 中央には、浅い石の器。

 中には透明な液体が見える。


 気づかぬうちに、神官が三人立っていた。

 全員、表情が読めない。


 そのうちの一人が、口を開く。


「清めを行います。──こちらへ」


 説明は無い。


 エリオは一瞬戸惑ったが、すぐに言われた通りに動く。


 ここでの余計な言葉は、確実に損になる。


 神官の一人に、腕を取られた。


 その力は弱く、抵抗はできる。

 だが、する意味はない。だからしない。


「顔を下へ」


 次の瞬間。


 ──冷たい。


 塩水だ。


 容赦なく、顔を洗われる。

 というより、ほぼ押し付けられている。


 鼻に入る。

 口に入る。


 目が痛い。鼻がツーンとする。


「……っ」


 堪らず顔を上げた瞬間、額に手が当てられた。


 「祈りを」


 神官の声は、驚くほど穏やかだった。


 エリオは、息を整える。


 口を開く。


 覚えたばかりの聖句を、正確に唱える。


 一度でも間違えることは許されない。

 間違えた場合は儀式が最初からになると、案内役の神官が言っていた。


 塩水が、頬を伝う。


 反射的に拭おうとして──

 神官の手が、それを静止する。


「触れてはなりません」


 理由は言わない。


 次。


 乾く前に、次の工程。


 額に何かを塗られる。


 ざらり、とした感触。


 塩だ。


 異常なほど、量が多い。


 そして数秒後。


 当然の事態が起こる。


 水によって溶けた濃い塩水が、目に入ってきた。


 ──これは、試されているのか?


 エリオは涙が滲んできた目で、周りの神官の顔を伺う。


 だが誰一人、ふざけているような素振りの者はいなかった。


 塩水はじわじわと、確実に目に入ってきている。


 視界が滲む。


 強く目を閉じるが、全く効果がない。


 涙が出る。


 止まらない。


 だが、拭けない。


 拭こうとした瞬間、神官が首を振る。


「祝福です」


 祝福らしい。


「涙は、穢れが流れ出た証です。素晴らしい」


 エリオは、歯を食いしばった。


 目が開かない。

 開けると、さらに痛い。


 顔は熱い。

 間違いなく、真っ赤だ。


 だが周囲は──

 感動したような表情をしていた。


「……神の祝福が、よく届いています」


 横にいる神官が、真剣に頷いた。


 エリオは悟った。


 ここで拒否するのは、最悪手だ。


 ここで必要なのは、演じること。

 奴らの信用を得なければ、この先へは進めない。


 ゆっくりと、息を吸う。


 怒りで震える声を抑える。


「……一瞬」


 涙を堪えながら。


「一瞬ですが」


「神の祝福に、触れたような気が致しました」


 少しの間。


 神官たちの目が、わずかに細くなる。続けろ、と言っている。


「深く……感動しております」


 内心は、完全に逆だった。


 だが、表情は崩さない。


 いや、崩せない。

 目が痛すぎる。


 神官達は、満足そうに頷いた。


「素晴らしい。あなたにも、見えたのですね」


「では、謁見へ」


 解放された瞬間、足が少しふらつく。


 涙で視界が歪んでいる。


 だが誰も、それを異常だとは思っていない。


 祝福の余韻として処理されている。


 エリオは、心の中で誓った。


 二度と、この儀式を体験することはない。

 だが、この国は使える。


 痛みと共に、その確信だけが残った。


 *


 神殿の奥は、ひどく静かだった。


 先ほどまで街に満ちていた潮の匂いも、鐘の音も、ここには届いていない。


 空間ごと遮断されているようだった。


 天井は高いが、広くは感じない。

 せいぜい、人が20人も入れば窮屈に感じる程度。


 正面に、石の玉座のようなもの。


 少し異様だった。

 街の至る所には聖句が刻まれていたのに。

 玉座には、ところどころが削ぎ落とされたような跡がある。


 背後には大きな開口部があり、そこから海が見えている。


 逆光が入り込んでいる。


 そこに、人影の輪郭だけが浮かび上がっていた。


「──前へ」


 声が落ちてくる。


 予想外に、穏やかな声だった。


 エリオは一歩、前へ出る。


 目が、ようやく慣れてくる。


 そこにいたのは一人の男だった。

 ルミナス王聖国が王、ミロディオス・ルーメン。


 年齢は、分からない。

 老いているようにも見えるが、断定ができない。


 肌は白いのに、気弱な印象とは真逆だった。


 その原因は、目だ。


 白い布が両目を隠すように巻かれている。

 にも関わらず、エリオをまっすぐに捉えていた。


「ノクスヴァイの使者だな」


 既に知っている、という声色。


 エリオは、深く一礼する。


「ノクスヴァイよりの外交官、エリオ・カーディス。

 本日は謁見の機会を賜り、感謝いたします」


 外交の定型文を言い終える。


 恐らくそれは、意味を成していない。

 ミロディオスは、エリオの存在を計っている。


「……顔が赤いな」


 一瞬、エリオの思考が止まる。


 清めの儀の余波。

 涙の痕。

 熱。


「祝福を、受けて参りました」


 即答する。


 声は安定している。


 ミロディロスは、口元をわずかに緩めた。


 笑みではない。

 恐らく、観察が一段終わったのだろう。


「そうか」


「では、本題に入ろう」


 空気が変わる。


 ミロディオスの背後から差し込む光が、急に遠く感じられた。


「お前は……世界が怒ったと言った。

 我らは、そうは考えない」


 エリオは、ここで初めて息を吸った。


「怒りではない、と?」


「選別だ」


 その言葉には、揺らぎがない。


「世界は、選んだのだ」


 エリオは何も言わず、ただ思記具を取り出した。


 布に包まれた、小さな装飾。


 これを見せた瞬間、

 ミロディロスの目が、わずかに細くなる。


 ──反応した。


 いける。これは、使える。


「これは、記憶を”記録”する魔導具です」


「内部には、断片的ですが……

 異変の中心にいた、ある女の記憶が残っています」


 あえて詳細は語らない。


 主導権を、渡さないために。


 ミロディロスは立ち上がらない。

 だが、確実に流れがこちらに来ている。


「お前は」


「それを、我らに渡してどうする」


 ミロディオスの言葉が、鋭さを増す。


「取引です」


「信仰国家である貴国ならば、

 “世界の意思”という概念に、価値を見出すはずです」


 長い沈黙が降りた。


 だが、拒絶の意思は感じられない。


「……我らを利用するか?」


 穏やかな声。

 だが、逃げ場がない。


 真の意図を隠すためには、時に正直であることも必要だ。


 エリオは答える。


「はい」


 一瞬。


 見えていないはずのミロディオスの目が、不気味に光った気がした。


 ミロディロスは、笑った。


 今度は、はっきりと。


「フン……よろしい。お前の思い通りに動いてやろう」


 背に、冷たいものが走る。


 思い通りに動いているはずなのに、違和感がある。


「ただし」


 差し込んでいた光が遮られ、空間を闇が支配する。


 ミロディロスの顔が、陰になる。


「何かが起きた時」


「その責は、すべてお前が負え」


 逃げ道が、消える。


 エリオは、理解した。


 この男は、

 神の意思を語る者では無い。


 神の側に、立っている。


「……承知致しました」


 声は震えていない。


 だが、内心は違う。


 これは賭けだ。

 勝てば、世界が動く。

 負ければ、全てを失う。


 ミロディロス・ルーメンは、最後にこう言った。


「世界は、名を失っている」


「だが、名を失ったものほど──

 人は、勝手に呼び始める」


 エリオにはまだその意味を理解できなかった。


 だが一つだけ、確信した。


 この国は、

 自分の掌の上にはない。


 最初から。

エリオの賭け。

代償を払うのは──


彼だけではありません。

「誰もが正しい」という地獄の、始まりです。

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