世界の覚醒
そして――動き出す。
“それ”は、大陸の各地で大規模な災害を引き起こした。
崩壊した街。
壊れた水源。
山を呑むように燃え広がる火。
だが――
最も深い傷を負ったのは、マグナレオールだった。
空へ触れる国。
その象徴は、山と共に天を目指すように築かれた城。
人の傲慢と叡智を積み上げた、空に最も近い場所。
その山に。
亀裂が入っていた。
頂から、深く。
城を裂き、城下へ至ろうとするほどの亀裂。
国そのものを断ち切るかのように。
それは災害ではない。
偶然でも、事故でもない。
世界が――
「この国は間違えた」と、
物理的に刻印した痕だった。
*
最初の異変が報告されたのは、3日前のことだった。
それから日を追うごとに、理衡教本部に届く文書の数が明らかに増加していた。
山火事。
地盤の不安定化。
街路の崩落。
内容そのものは、珍しくない。
ヴァルデンは広く、どこかで何かは起きる。
問題は、それらが――
大陸各地からほぼ同時期に理衡教へ報告されているという点だった。
ヴェルナは、各地から集められた報告書を机に並べ、淡々と目を走らせた。
被害の規模はまちまちだ。
ある地域では街そのものが損害を受け、
ある地域では「強い揺れを感じた」という証言だけが残されている。
だが、共通点がある。
――誰もが、何かを感じている。
強弱は違えど、
「揺れた」「空気が変わった」「地面が唸った」
そうした証言が、例外なく含まれていた。
そして。
理衡教の本拠であるヴァルデン内部ですら、同様の現象が起きていた。
建物の損壊は軽微。
死者もいない。
それでも、巡礼路は一時閉鎖され、
複数の教区で業務が停止を余儀なくされた。
ヴェルナは、そこで初めて筆を止めた。
これは局地的な災害ではない。
震源も、因果も、特定できない。
だが——
大陸全域が、確かに同時に“揺れた“。
彼女は静かに結論を下す。
「……異常だ」
感情は挟まれない。
善悪の判断もない。
ただ、数と頻度と範囲が示している。
——世界に、何かが起きた。
*
それは、説明のつかない混乱として現れた。
ノクスヴァイでは、夜明け前に街路の石畳が大きくひび割れた。
事故の形跡はない。誰にも思い当たることがなく、全員が首を捻っていた。
ルミナスでは、港の浅瀬が一時的に干上がり、数時間後には何事もなかったかのように戻った。
水質に変化はない。何も、検出されない。
同様に、ルミナス内部の教会。
鐘を鳴らす役割の人間が言った。
神殿の鐘が鳴らなくなった、と。
理由は不明。
鐘自体にも、異常はない。
別の地域では、家畜が一斉に鳴き声を上げ、森の生き物は姿を消し、地面だけが低く震え続けた。
またどこか遠い場所では、名前も知られていない集落が静かに崩壊した。
他の誰にも、気づかれないまま。
街が半壊する被害もあれば、ただ食器が鳴っただけの家もある。
転んだ者もいれば、立ち止まっただけの者もいる。
――共通していたのは、
何も感じなかった者はいなかった、ということだった。
事故ではない。
どちらかというと、天災とも思える。
だが偶然で片づけるには――範囲が広すぎる。
大陸の各地で、人々は同じ言葉を口にし始めていた。
「揺れた」
「今の、何だった?」
「気のせい……じゃないよな?」
誰もが身の回りの被害について話していた。
その違和感だけが、確実に伝染していく。
人々はまだ知らない。
それが「災害」ではなく、
世界そのものの変化であるということを。
*
Lirenは、数日前から閉まっている。
ルシアは体調を崩したとだけ、近隣には伝えていた。
その日、店の奥で。
壁に掛けてあった絵が、落ちた。
乾いた音。
続いて、ガラスが割れる軽い破裂音。
ルシアは、反射的に立ち上がった。
その瞬間――床が、揺れた。
大きくはない。
だが確かに、身体の芯を揺らすような振動。
思わず、よろけた。
手に持っていたコップから、水がこぼれる。
床に広がる水面が微かに揺れる。
「……」
何かが起きた。
理由は分からないけれど。
不安だけが――理由もなく、静かに膨らんでいく。
胸の奥がひどく落ち着かない。
ルシアは、まだ熱っぽい額に手を当てたまま、しばらく動かなかった。
まるで――
何かを奪われてしまうような感覚だけが、残った。
その頃、Lirenの外では。
雲は高く、いつもと同じように流れている。
色も、形も、異常はない。
それでも。
何かが目を覚ましたような感覚がして、一人また一人と足が止まり、気付けばその場の全員が空を見上げていた。
*
王立大学は、もう前のような恐ろしいまでの美しさを保っていなかった。
石造りの回廊には無数の亀裂が走り、柱の一部は途中から折れ、床には崩れ落ちた天井の破片が広範囲に散乱している。
いつもなら人の声が反響するはずの場所は、今は低い呻き声と、瓦礫を動かす音だけで満ちていた。
中でも図書室は、最も酷かった。
天井近くまで積まれていた書架は倒れ、無数の本が床に散らばっている。
紙は破れ、濡れ、埃と粉塵にまみれ、内容を読む以前に“文字”としての形を失っていた。
水晶媒体も同じだった。
記録用の結晶は粉々に砕け、淡い魔力の残滓だけが空気に漂っている。
光はもう、宿っていない。
セレストは、その中にいた。
瓦礫を持ち上げ、崩れた書架を同僚と協力して起こし、踏み荒らされた本を集める。
誰かに指示されたわけではない。ただ、動いていた。
何を守るべきかも、何を優先すべきかも、分からなかった。
それでも、手を止める理由もなかった。
知は――今は誰も救わなかった。
数日が経っても作業は終わらず、その日も空が暗くなってきて初めて、人の数が少しずつ減っていった。
負傷者は別の場所へ運ばれて、治療が始まっている。
残っているのは瓦礫と、疲労だけだった。
セレストもまた、大学を出て歩き出した。
いつもなら、静寂に包まれる時間帯。
城下町は、夜になっても落ち着いてはいなかった。
崩れた家屋。
応急的に組まれた支柱。
治療を受ける人々。
名を呼び合う声。
誰もが何かを失っていて、誰もがそれを探して必死だった。
家に帰ろうと思ったのは、数日ぶりだった。
きっと自分の家も無事ではない。
それは分かっていた。
それでも、身体を横たえる場所が欲しかった。
歩いている途中、突如鈍い音がした。
巨大な水晶。
建物の壁面に埋め込まれていた大きな装飾用水晶が、振動に耐えきれず崩れ落ちたのだ。
砕け散った破片の下で、二人の男女が下敷きになっている。
血が蛇口を捻ったように広がり、辺りの地面が染まっていく。
周囲の人々がすぐに駆け寄り、叫び声が上がる。
周囲の何人かが懸命に治療魔法を発動し、誰かが瓦礫をどかし始める。
セレストは、立ち尽くすことしか出来なかった。
目の前で起きていることを、ただ見ていた。
知っているはずの理論も、学んできた知識も何の役にも立たない。
必要なのは力と判断で――
彼女には、どちらもなかった。
人の輪から離れ、再び歩き出す。
少し先で、泣き声が聞こえた。
子どもだった。
親の姿が見えない。
周囲の大人たちも、首を横に振るだけ。
子供に構う余裕なんて、誰にもなかった。
セレストは、黙って水筒を差し出した。
子どもは一瞬ためらい、それから受け取って、夢中で水を飲んだ。
その姿を見届けてから、セレストは立ち上がる。
水筒は、空になっていた。
喉が渇いていることに、そのとき初めて気づいた。
けれど、水はもうない。
次、いつ手に入るかも分からない。
それはセレストだけではない。
誰もが、何も分かっていなかった。
セレストは歩き続ける。
この先どうなるのか、
明日が来るのか、
それすら分からないまま。
*
マグナレオール全土は、混乱を極めていた。
上層では城壁に亀裂が走り、空へ触れるために築かれた塔の一部が崩落した。
城下も街の復興と混乱と、人々の焦燥で埋め尽くされていた。
下層に至る巨大な穴は、壁が一部崩れ瓦礫が空間にいくつも浮遊している。
下層の街では古い水路が崩壊し、生活用水が断たれた地区もあった。
建物の倒壊。
魔導装置の停止。
補修のために動員される人々。
空へ伸びる国は、確かに強かった。
だが、その“強さ”は今、試されていた。
混乱は、やがて言葉になる。
「これはただの災害じゃない」
「規模がおかしい」
「震源は、どこにある?」
噂は、ゆっくりと、しかし確実に形を持ち始める。
――原因は、この国なのではないか。
空を目指しすぎたのではないか。
世界の均衡を、踏み越えたのではないか。
誰かが断言したわけではない。
それでも、疑念は人々の間を巡り始めていた。
だが。
そんな噂の流れを、知らない場所もある。
瓦礫と埃に覆われた、城下の一角。
タラトレントの工房では、今日も人の手が動いていた。
ルーヴェンが、片足を引きずりながら歩いている。
膝から下に巻かれた布には、まだ血の跡が残っていた。
そこまで深い傷ではない。
だが、確実に痛む。
それでも彼は、動かないわけにはいかなかった。
「……親父、やめろって言っただろ!!」
エリアが声を荒げる。
「足、見てみろよ。そんな状態で、なんで瓦礫なんか――」
ルーヴェンは、手を止めなかった。
「大した怪我じゃない」
「嘘つけ。歩くたびに引きずってるだろ」
工房の中も、無残だった。
壁は崩れ、作業台は壊れ、仕立て途中だったドレスは瓦礫の下敷きになっている。
布は裂け、刺繍は潰れ、光沢は完全に失われていた。
エリアは、拳を握る。
「……こんな状態でさ……」
「ドレスを作りに来る人なんて、いないだろ」
「……全部、ダメになった」
声が、震える。
ルーヴェンは、ゆっくりとエリアを見た。
そして、静かに言った。
「だからこそだ」
瓦礫から手を離し、少し体重をかけ直す。
「お前は、やるな」
「は?」
「お前の手は……俺にとっての希望だ」
エリアが言葉を失う。
「だから、俺がやる」
「瓦礫をどかすのも、補修も、今できることは全部だ」
「その代わり」
ルーヴェンは、エリアの手を見た。
布を扱うための、細く、器用な指。
「そっちの手伝いを――頼めるか」
「……ふざけるなよ」
エリアは噛みつくように言う。
「親父の方が怪我してるだろ!?」
「だから……! 私が……やるべきだ」
ルーヴェンは、少しだけ笑った。
「そうだな。」
そして、続ける。
「だが――マグナレオールは強い」
「国民も、また、強い」
「必ず復興できる」
視線を上げる。
崩れた天井の向こう、かろうじて見える空を。
「時間はかかるかもしれないが……」
「お前のドレスを、必要とする者は必ず現れる」
エリアは、唇を噛む。
「その時」
「また、お前が必要とされる」
ルーヴェンの声は、穏やかだった。
だが、その奥には、拭いきれない不安が滲んでいる。
「邪魔なわけじゃない」
「俺には俺の、お前にはお前のやるべきことがある」
「未来を見ろ」
言い聞かせるように。
自分自身に言い聞かせるように。
「……俺たちは、前に進むしかないんだ」
エリアは、何も言えなかった。
ただ、その言葉の裏にあるものを、感じ取っていた。
不安。
恐怖。
立ち止まれないという、焦り。
ルーヴェンは、何かを察している。
だからこそ、未来を語るしかない。
前を見るしかない。
それが、今を耐える唯一の方法だと、知っているから。
*
噂は、風より遅い。
だが、風より確実に、人のあいだを渡る。
震えた。
揺れた。
壊れた。
誰もが“知っている”。
世界が、何かをしたのだと。
けれど誰も、“分からない”。
震源はない。
原因は見えない。
理屈だけが置き去りにされ、恐怖だけが先に歩く。
各地の災害は、形が違った。
山が割れた場所。
水が枯れた場所。
火が走った場所。
地盤が沈んだ場所。
そしてそれは、一度では終わらない。
まるで余震のような小さな揺れ。
魔導灯の明滅。
井戸水の濁り。
空気の密度が変わる、言葉にできない違和感。
世界はまだ、落ち着いていない。
その“不安定”が、人々から思考を奪い、
代わりに、ひとつの形を与える。
――誰かのせいだ。
誰かが、やりすぎたのだ。
誰かが、世界を怒らせたのだ。
最初は小さな声だった。
酒場の端。
瓦礫の下。
治療所の入口。
「被害が集中した国がある」
「空へ触れる国があるらしい」
「山の頂に城を作ったらしい」
「神に刃向かったのだろう」
誰も見ていないのに、断言だけが増えていく。
やがて噂は、国境を越える。
言い方が変わる。
温度が変わる。
疑念が、歪な正義に変わる。
「危険だ」
「監視すべきだ」
「止めるべきだ」
「潰すべきだ」
やがて、結論だけが残る。
原因かもしれない国。
罰せられるべき国。
世界の均衡を乱した国。
証拠はない。
だが、“疑う理由”だけは無限に生まれる。
人は、恐怖を説明するために、
最も目立つ象徴を選ぶ。
最も高い山を選ぶ。
最も傲慢に見える城を選ぶ。
その国が何をしてきたかではない。
何を象徴しているかだけが、裁きの材料になる。
空へ触れる国。
空を割くほどに伸びた山。
誇りと同じ形をした城。
今。
そこに、亀裂が入っていた。
まるで――
「間違えた」と、断罪されたかのように。
世界中の凶弾が、そこへ向き始める。
誰かの怒り。
誰かの祈り。
誰かの正義。
その全てが、ひとつの名前に集まっていく。
――マグナレオール。
*
マレイアもまた、瓦礫の中にいた。
崩れた壁を補修し、割れた石をどかし、
使えるものと、使えないものを分ける。
それは復興と呼ぶには、あまりにも原始的で、
ただ――生き延びるための作業だった。
家は、半壊していた。
屋根の一部が落ち、
壁に走った亀裂から、風が入り込む。
それでも、家だった。
母も、父も、生きている。
それだけで、胸の奥が一度、緩む。
「無理しなくていいのよ」
母はそう言ったが、
その声には、明らかな熱があった。
顔色も悪い。
咳こそ出ていないが、目の奥が疲れている。
「……ママこそ、無理しないで。私がやるから……ちょっと休んでてよ」
マレイアは、そう答えて立ち上がる。
埃にまみれた寝室。
崩れた棚。
床に散った破片。
奇跡的に壊れていないベッドがある。
その上の埃を、何度も払った。
使えそうな毛布を探し、
比較的きれいなものを一枚だけ見つける。
それを広げ、
簡易的に整える。
「ママ、こっち。ちょっと汚いけど……ごめんね」
「……ううん、ありがとう」
母は小さく笑って、横になった。
その目が閉じるのを確認してから、
マレイアは、そっと部屋を出る。
外は、まだ混乱の中にあった。
誰かが瓦礫を運び、
誰かが声を上げ、
誰かが泣いている。
それでも、街は動いている。
壊れたままではいられないと、
誰もが知っているから。
マレイアは、歩き出した。
崩壊した街を、もう一度。
向かう先は、決まっていた。
あの宿。
――リラが、泊まっていた場所。
もしかしたら。
もしかしたら、帰ってきているかもしれない。
片付けをしているかもしれない。
誰かを手伝っているかもしれない。
そんな期待を、否定しきれない。
宿は、静かだった。
半壊しているが、
建物自体は、まだ立っている。
中に入る。
足音だけが、響く。
部屋に入って、
すぐに分かる。
――いない。
空気が、違う。
人の気配がない。
マレイアは、
壊れていない椅子を見つけ、力なく座った。
長く、息を吐く。
胸の奥に溜めていた不安が、
ようやく形を持つ。
視界の端。
机が、倒れている。
脚が折れ、
引き出しが外れている。
床に――
小さなものが、転がっていた。
思記具。
リラが、大切にしていたものだ。
マレイアはそれを拾い上げる。
指先で、軽く埃を払う。
もし、彼女が帰ってきた時に。
ちゃんと、ここにあると分かるように。
マレイアはそれを、目立つ場所へ置いた。
辛うじて形を保ったままの棚の上。
一番、視線に入る場所。
「……リラ……どこにいるの……」
小さく、そう呟いて。
マレイアは、部屋を後にした。
その背中を呼び止める者は、いなかった。
世界は確かに、形を変えた。
――もう誰も、後戻りはできない。
これにて、第二部完結です。
次回から第三部が始まります。
ここまで第二部を読んで頂き、本当にありがとうございます。
リラの選択が世界そのものを揺らしたところで、一つの区切りとなりました。
この先、物語は“戦争”と“世界の真実”に踏み込みこんでいきます。
ここからが、この作品の核心です。
もし少しでも心が動いたなら、
どの場面でもいいので感想で教えてもらえると嬉しいです。
皆さんの言葉が、この物語を前に進める力になります。
評価も、とても大きな支えになります。
続きを書く覚悟を、背中から押してください。
最後になりましたが、第三部も。
宜しくお願い致します。




