君を、想う
たとえ世界が壊れても、たった一人を、守る。
何もない。
音も、匂いも、光も。
あるのは、
ただ開いたままの目と、たまたま続いているだけの呼吸。
彼女はまばたきすら、していない。
閉じる理由が、もう分からないから。
時間も分からない。
長いのか、短いのか、それすら区別できない。
ここがどこかも、どうしてここにいるのかも、
もう、掴めない。
ただ――
息を吸って、
吐いて、
また吸う。
それだけが続いている。
それは、本人の意思ではなかった。
ふいに腕の奥が疼いた。
骨の中で、割れたままの何かが静かに自己主張をしている。
痛みは、鋭くも激しくもない。ただ逃げ場のない鈍さでそこにある。
リラは無意識に、ほんの少しだけ身体を縮める。
そのとき。
視界の端に、色があった。
床の上。
影の中にひとつ。
小さな――銀。
近づこうとしたわけじゃない。
ただ、目が勝手にそこへ向いた。
情息花。
色は死んでいる。
触れなくても分かるほど、乾いて、古く、時間に置き去りにされたもの。
それはもう、生きていない。
もう誰の想いも映していない。
それでも――
リラの中で、ひとつの名前だけが浮かんだ。
シグ。
理由も、連想もない。
ただその音だけが、胸の奥に落ちてきた。
感情は、もう動かないはずだった。
リラの頬を、何かが伝った。
熱もなく、意味もなく、
ただ、勝手に流れ落ちていく。
助けてほしいでも、ここから出たい、でもない。
ただ――
シグが生きていますように。
同じ場所で、同じように壊れていませんように。
それだけを、
何もない世界の中で、繰り返し願っていた。
その祈りすら、どこにも届かないと思っていた。
だから。
最初に聞こえた音を、リラは音だと認識できなかった。
遠くで、何かがきしむ。
それはこの無の中では、異物すぎた。
――ギィ。
小部屋のどこかで、空気が少し揺れる。
光がほんのわずかに差し込む。
リラの目は動かない。
ただ、変化だけを受け取っている。
足音。
近づいてくる。
誰かがここに“来ている”。
ありえない。
ここは、誰も来ない場所のはずだった。
それでも、足音は止まらない。
視界の端に黒い影が落ちる。
誰かが、リラの前に立った。
ただ、影を見ている。
その影は膝をついた。
床に、何かが落ちる軽い音。
リラの目に、ぼんやりとした輪郭が映る。
白い布。
乱れた髪。
血と埃にまみれた手。
その手が、リラの頬に触れた。
あまりに、そっと。
壊れものに触れるみたいに。
「……リラ」
低く、震えた声。
その音は、
無の中にひびを入れた。
リラの胸の奥で、何かがわずかに動く。
まだ言葉は――生まれない。
シグは歯を食いしばったまま、彼女を見ていた。
彼の目の下には深い影。
服は裂け、血が乾いてこびりついている。
逃げ続けてきた人間の姿だった。
「……君が、ここにいるなんて……」
喉が、詰まる。
「……ごめん。遅くなった」
「……君を、ずっと探してた」
その言葉に、リラの睫毛がわずかに揺れた。
「…………」
世界の無音に、初めて音が戻り始める。
シグは、小さく息を吸い込む。
「……君が、僕のことを……想ってくれたからだ」
床に落ちている情息花に、視線が向く。
色を失ったそれが、淡く光っている気がした。
「……それで、やっと……場所が分かった」
彼はぎこちなく笑った。
ほとんど、泣いていた。
「……君が、僕のために祈ってくれたから。
……やっと、辿り着けた」
そして、もう一度。
「……リラ」
その名前が、
彼女の無を、確かに揺らした。
シグは歯を食いしばったまま、リラの拘束具に手を伸ばした。
その紋様は、まだ淡く脈打っている。
彼女の意識を縛り、身体を眠らせ続ける魔法。
……壊せない。
マグナレオールの拘束具は、正面から解除できる構造じゃない。
力で引き剥がせば――内側の神経ごと焼き切れてしまう。
「……くそ……」
シグは自分の手の震えを抑えながら、別の場所へ魔力を流す。
拘束具ではない。
リラの身体そのものに。
骨。
筋。
血流。
神経。
……ひどい。
触れただけで分かる。
これは「殴られた」じゃない。
壊された。徹底的に。
「……大丈夫。リラ……大丈夫だ……」
その言葉に何の保証もない。
それでも、何か言わずにはいられなかった。
シグの魔法が、リラの腕に流れ込む。
――激痛。
折れた骨の断面が無理やり引き寄せられる。
歪んだ位置から、正しい場所へ。
リラの身体が、拘束されたまま大きく歪んだ。
喉から、音が漏れる。
「……っ……」
息が詰まる。
世界が、急に“戻ってくる”。
痛み。
冷え。
床の硬さ。
拘束具の圧。
それらが一斉に、意識へ流れ込んでくる。
シグは慌てて彼女の肩を支える。
「……ごめん……でも、止めたら……」
魔法を止めれば、骨はまたズレる。
今は――無理にでも戻すしかない。
リラの睫毛が、震える。
無だった瞳に、かすかな焦点が戻り始める。
苦痛に引きずられて。
「……ぁ……」
声にならない声。
シグは、必死に話しかける。
「……大丈夫だ、リラ……聞こえるか……?」
「……君は……ここにいる……」
「……一人じゃない……」
リラの喉がかすかに動く。
何かを、探すみたいに。
目がゆっくりと、シグの方へ向く。
ぼやけた輪郭。
でも、その中に――
「…………」
しばらく、ただ、見ていた。
それから。
「……シ……」
音が、こぼれた。
シグは息を止める。
「……シグ……?」
その一言は、希望だった。
シグの目から、涙が溢れる。
「……ああ」
声が震える。
「……ここにいる」
「……君の……すぐそばに」
リラの瞳に、初めて感情が戻った。
*
痛みと、困惑と、信じられないという色。
そこに確かに、シグがいる。
それだけで、
世界が少しだけ形を取り戻した。
ぼやけた視界の中に、
確かに――シグの輪郭がある。
リラは何も言えなかった。
言葉に出せば、この光景が壊れてしまいそうな気がして。
シグはリラの前に膝をついたまま、
何度も彼女の顔を見ている。
呼吸。
まばたき。
目の動き。
それらすべてを、必死に確かめている。
「……大丈夫……」
「……ちゃんと、生きてる……」
自分に言い聞かせるみたいに。
リラは、わずかに首を動かした。
段々と、世界が痛みを取り戻す。
床の冷たさ。
背中の硬さ。
壊れた腕の、鈍い熱。
生きているという感覚が、
ゆっくりと戻ってくる。
シグの手が、彼女の額に触れる。
それはあまりにも、あたたかい。
その温度に、リラの目からは涙が溢れた。
自分がどれほど長く、何も感じずにいたのか――その落差だけで、泣けてしまう。
「……ごめん……」
シグが、そう呟く。
何に対しての謝罪なのか、
彼自身にも分かっていない。
生きていたことか。
遅くなったことか。
それとも――ここに来てしまったことか。
突如。
遠くで、
低い振動が走った。
床がわずかに、震えている。
小部屋の壁の向こうで、
マグナレオールが動き出した気配。
シグの表情が凍る。
「……」
言葉は出なかった。
ただ、“視線”を感じた。
……見られている。
城の下部、石の牢獄で。
――この奇跡が起きたことを。
マグナレオールは、監視している。
静かに、
しかし確実に。
赤い光が、廊下の奥で瞬いた。
身体ごと貫くような警報。
逃げ場が、ゆっくりと消えていく音。
シグは、もう迷わなかった。
今は、たった1秒で運命が変わる。
リラを抱き上げる。
その軽さが、あまりにも痛ましい。
「……つかまれ……」
「……離れるな……」
リラの指が、
かすかに彼の服を掴む。
それだけで、
シグの胸が締めつけられた。
二人は、走り出す。
赤い警報が、地下の回廊を震わせる。
低く、粘ついた音。
この城そのものが、二人を拒絶しているように感じる。
シグはリラを背中に抱え、走る。
真っ直ぐ。曲がる。扉を蹴破る。また真っ直ぐに。
ひたすらに続く石の床。
狭い通路。
曲がるたびに、魔力の圧が肌を刺す。
――来ている。
追手がもう、すぐそこに。
リラの意識は、完全には戻っていない。
瞳は開いているのに、焦点が揺れている。
それでも。
矢のように飛んできた魔法が、
寸前で、わずかに逸れた。
壁を削って、粉塵が舞う。
シグはそれを、ただの幸運だと思った。
走る。
息が切れる。
足が重い。
また、魔法。
今度は床を砕く衝撃。
だが、やはり――当たらない。
狙いが、わずかにずれる。
何度も。
何度も。
……おかしい。
その時。
彼の右肩に、
ぬるりとした感触が広がった。
おびただしいほどの、血。
シグの背中で、
リラの身体が痙攣している。
横目で見たリラの白いはずの頬は、
鮮血に、染まっていた。
耳から。
両の目から。
「……リラ……?」
血に染まった彼女の瞳は、遠いまま、何かを見ている。
――使っている。
無意識に、何度も。
世界を。
時間を。
ねじ曲げながら。
何か、は分からない。
けれど明確に、リラの命に危機が迫っていた。
追手はすぐそこまで来ていた。
それでも――止まった。
下ろす。
ゆっくりと、慎重に。
まるで壊れ物を扱うみたいに、
リラを床へ下ろす。
その身体は、軽すぎた。
シグは膝をつき、
彼女を抱きしめる。
ぎゅう、と。
強く、でも優しく。
「………………」
まるで時が、止まっているかのようだった。
「……逃げて……」
声が、震える。
「……生き延びて……」
回復魔法を、彼女の身体に流す。
ほんのわずかに。
それでも、今できるすべて。
「……もう、戦わなくていい……」
「……普通の日々に……戻って……」
リラのまぶたが、かすかに揺れた。
シグは、額を彼女の額に当てる。
「……君を……巻き込んでしまって……」
「……本当に……ごめん」
シグの目から、涙がこぼれ落ちた。
「……ただ」
「……君と……一緒に……いたかった」
リラの意識は、ほとんど無い。
それでも。
その言葉は、
彼女の中に、確かに届いていた。
――行かないで。シグ。置いて、いかないで。
叫びは、声にならない。
シグは、もう一度だけ、
彼女を抱きしめる。
強く。
離れないと誓うみたいに。
そして。
静かに、手を離した。
足音が響き渡る。
影が、いくつも通路の奥に現れる。
魔法陣。
殺意。
だが追手の目に映ったものは。
――修羅。
シグのその目に、迷いはない。
あるのは、覚悟だけ。
君を、守る。
追手の一人が、後ずさった。
刹那。
重力が、歪む。
次の瞬間には、空気ごと圧縮された。
追手の先頭が、弾け飛ぶ。
誰かの絶叫が響き渡る。
続く追手は、怯まない。増幅された殺意。
目の前にいるのが、人間ではないと悟ってもなお、マグナレオールは止まらない。
シグは一歩、前に出た。
たったそれだけで、
空気の密度が変わる。
床の石が、軋みを上げた。
見えない重圧が、空間そのものを押し潰していく。
「……君には、触れさせない」
声は低く、静かだった。
次の瞬間、
追手の一人の身体が突然、縦に折れた。
重力が、狂った。
骨が耐えきれずに砕け、
内臓が潰れ、
血が床へと叩きつけられる。
悲鳴は、途中で消えた。
残りの追手が、一斉に魔法を展開する。
光。
熱。
圧縮された魔力の奔流。
――殺意の集中砲火。
だが。
シグの前で、
空気が捻じ曲がった。
撃ち出された魔法は、
彼に届く前に進行方向を失い、
壁と天井に叩きつけられて爆散する。
通路が、抉れる。
石が砕ける。
炎が巻き上がる。
その中心で、
シグだけが、動かない。
彼は手を、わずかに振った。
その動きに呼応して、
追手の何人かが宙に浮かんだ。
そして、彼らの身体だけが、
この場所の“下”を失った。
「――っ!」
見えない壁に挟まれたように、
骨と肉が音を立てて潰れた。
残った兵が、叫びながら突進する。
剣。
短杖。
接近戦用の魔導具。
シグは、目を細めただけだった。
――空気が、消えた。
彼の前方数メートルの空間が、
完全なる真空になる。
呼吸も、音も、存在できない領域。
突っ込んできた追手たちは、
その境界を越えた瞬間、
喉を掻きむしながら倒れた。
肺が潰れる。
血が泡立つ。
言葉は、出ない。
それでも、
追手の攻撃は止まらない。
シグの身体に、一撃が届き始める。
肩が、焼ける。
脇腹が、裂ける。
だが彼は後退しない。
腕にはもう、感覚がない。
それでも上げた。
彼の後ろには、
床に横たわる、リラの姿がある。
それだけが、
世界のすべてだった。
シグは、血を吐きながら進む。
「……ここは、通さない」
重力が、再び歪む。
今度は――
通路全体が、下へ落ちる。
床も、敵も、瓦礫も、
すべてが“落下”を始める。
天地が反転したような感覚。
悲鳴と衝撃が、
一瞬で塗り潰される。
魔法が、魔法を喰い合う。
シグは、圧倒していた。
ひとつ潰し、ひとつ裂き、ひとつ黙らせる。
数をもろともしない魔法、魔法、魔法。
命が尽きるまで、ただ全身全霊で敵を殺し続けた。
だが。
それでも。
数と、執念と、
マグナレオールの力は――止められない。
ついに、一つの魔法が、
シグの身体を貫いた。
身体が一瞬、宙に浮く。
落ちる。
そして、鈍い音。
リラの足元に、
シグが、ころがった。
場違いなほどの静寂が、一瞬辺りを包んだ。
血が、広がっていく。
リラは、
それを――認めなかった。
世界へ向けて、叫ぶ。
言葉じゃない。
存在そのものをかけて。
――シグを死なせないで。
お願い。彼を、失いたくない。
その願いに。
“応えた“。
世界が――ひとつ、息を吸う。
鈍い音がした。
空気が、押し戻される。
貫かれたはずの箇所へ、血が“戻る”。
床に広がった赤が、筋になって吸い寄せられていく。
倒れたシグの身体が、わずかに浮いた。
時間が、巻き戻るように。
“起きたはずのこと”が、起きなかったことになる。
シグが撃ち抜かれる直前になる。
すべての魔法が、逸れる。
――それは、あまりに強大すぎる“力“。
リラは、何も知らない。
世界の秘密も、理屈も、代償も。
ただ、失いたくない。
その一念だけで、
世界を叩き起こした。
そして――
その瞬間。
世界が、覚醒する。
リラの力すら、
飲み込むほどの。
とてつもない破壊と震動が、
マグナレオールを揺らした。
第二部、クライマックス。




