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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
35/52

君を、想う

たとえ世界が壊れても、たった一人を、守る。


 何もない。


 音も、匂いも、光も。

 あるのは、

 ただ開いたままの目と、たまたま続いているだけの呼吸。


 彼女はまばたきすら、していない。

 閉じる理由が、もう分からないから。


 時間も分からない。

 長いのか、短いのか、それすら区別できない。


 ここがどこかも、どうしてここにいるのかも、

 もう、掴めない。


 ただ――


 息を吸って、

 吐いて、

 また吸う。


 それだけが続いている。

 それは、本人の意思ではなかった。


 ふいに腕の奥が疼いた。


 骨の中で、割れたままの何かが静かに自己主張をしている。

 痛みは、鋭くも激しくもない。ただ逃げ場のない鈍さでそこにある。


 リラは無意識に、ほんの少しだけ身体を縮める。


 そのとき。


 視界の端に、色があった。


 床の上。

 影の中にひとつ。


 小さな――銀。


 近づこうとしたわけじゃない。

 ただ、目が勝手にそこへ向いた。


 情息花。


 色は死んでいる。

 触れなくても分かるほど、乾いて、古く、時間に置き去りにされたもの。


 それはもう、生きていない。

 もう誰の想いも映していない。


 それでも――


 リラの中で、ひとつの名前だけが浮かんだ。


 シグ。


 理由も、連想もない。

 ただその音だけが、胸の奥に落ちてきた。


 感情は、もう動かないはずだった。


 リラの頬を、何かが伝った。


 熱もなく、意味もなく、

 ただ、勝手に流れ落ちていく。


 助けてほしいでも、ここから出たい、でもない。


 ただ――


 シグが生きていますように。


 同じ場所で、同じように壊れていませんように。


 それだけを、

 何もない世界の中で、繰り返し願っていた。

 その祈りすら、どこにも届かないと思っていた。


 だから。


 最初に聞こえた音を、リラは音だと認識できなかった。


 遠くで、何かがきしむ。

 それはこの無の中では、異物すぎた。


 ――ギィ。


 小部屋のどこかで、空気が少し揺れる。


 光がほんのわずかに差し込む。


 リラの目は動かない。

 ただ、変化だけを受け取っている。


 足音。


 近づいてくる。

 誰かがここに“来ている”。


 ありえない。

 ここは、誰も来ない場所のはずだった。


 それでも、足音は止まらない。


 視界の端に黒い影が落ちる。


 誰かが、リラの前に立った。


 ただ、影を見ている。


 その影は膝をついた。


 床に、何かが落ちる軽い音。


 リラの目に、ぼんやりとした輪郭が映る。


 白い布。

 乱れた髪。

 血と埃にまみれた手。


 その手が、リラの頬に触れた。


 あまりに、そっと。


 壊れものに触れるみたいに。


「……リラ」


 低く、震えた声。


 その音は、

 無の中にひびを入れた。


 リラの胸の奥で、何かがわずかに動く。


 まだ言葉は――生まれない。


 シグは歯を食いしばったまま、彼女を見ていた。


 彼の目の下には深い影。

 服は裂け、血が乾いてこびりついている。


 逃げ続けてきた人間の姿だった。


「……君が、ここにいるなんて……」


 喉が、詰まる。


「……ごめん。遅くなった」


「……君を、ずっと探してた」


 その言葉に、リラの睫毛がわずかに揺れた。


「…………」


 世界の無音に、初めて音が戻り始める。


 シグは、小さく息を吸い込む。


「……君が、僕のことを……想ってくれたからだ」


 床に落ちている情息花に、視線が向く。


 色を失ったそれが、淡く光っている気がした。


「……それで、やっと……場所が分かった」


 彼はぎこちなく笑った。


 ほとんど、泣いていた。


「……君が、僕のために祈ってくれたから。

 ……やっと、辿り着けた」


 そして、もう一度。


「……リラ」


 その名前が、

 彼女の無を、確かに揺らした。


 シグは歯を食いしばったまま、リラの拘束具に手を伸ばした。


 その紋様は、まだ淡く脈打っている。

 彼女の意識を縛り、身体を眠らせ続ける魔法。


 ……壊せない。


 マグナレオールの拘束具は、正面から解除できる構造じゃない。

 力で引き剥がせば――内側の神経ごと焼き切れてしまう。


「……くそ……」


 シグは自分の手の震えを抑えながら、別の場所へ魔力を流す。


 拘束具ではない。

 リラの身体そのものに。


 骨。

 筋。

 血流。

 神経。


 ……ひどい。


 触れただけで分かる。

 これは「殴られた」じゃない。

 壊された。徹底的に。


「……大丈夫。リラ……大丈夫だ……」


 その言葉に何の保証もない。

 それでも、何か言わずにはいられなかった。


 シグの魔法が、リラの腕に流れ込む。


 ――激痛。


 折れた骨の断面が無理やり引き寄せられる。

 歪んだ位置から、正しい場所へ。


 リラの身体が、拘束されたまま大きく歪んだ。


 喉から、音が漏れる。


「……っ……」


 息が詰まる。

 世界が、急に“戻ってくる”。


 痛み。

 冷え。

 床の硬さ。

 拘束具の圧。


 それらが一斉に、意識へ流れ込んでくる。


 シグは慌てて彼女の肩を支える。


「……ごめん……でも、止めたら……」


 魔法を止めれば、骨はまたズレる。

 今は――無理にでも戻すしかない。


 リラの睫毛が、震える。


 無だった瞳に、かすかな焦点が戻り始める。


 苦痛に引きずられて。


「……ぁ……」


 声にならない声。


 シグは、必死に話しかける。


「……大丈夫だ、リラ……聞こえるか……?」


「……君は……ここにいる……」


「……一人じゃない……」


 リラの喉がかすかに動く。


 何かを、探すみたいに。


 目がゆっくりと、シグの方へ向く。


 ぼやけた輪郭。

 でも、その中に――


「…………」


 しばらく、ただ、見ていた。


 それから。


「……シ……」


 音が、こぼれた。


 シグは息を止める。


「……シグ……?」


 その一言は、希望だった。


 シグの目から、涙が溢れる。


「……ああ」


 声が震える。


「……ここにいる」


「……君の……すぐそばに」


 リラの瞳に、初めて感情が戻った。


 *


 痛みと、困惑と、信じられないという色。


 そこに確かに、シグがいる。


 それだけで、

 世界が少しだけ形を取り戻した。


 ぼやけた視界の中に、

 確かに――シグの輪郭がある。


 リラは何も言えなかった。


 言葉に出せば、この光景が壊れてしまいそうな気がして。


 シグはリラの前に膝をついたまま、

 何度も彼女の顔を見ている。


 呼吸。

 まばたき。

 目の動き。


 それらすべてを、必死に確かめている。


「……大丈夫……」

「……ちゃんと、生きてる……」


 自分に言い聞かせるみたいに。


 リラは、わずかに首を動かした。


 段々と、世界が痛みを取り戻す。


 床の冷たさ。

 背中の硬さ。

 壊れた腕の、鈍い熱。


 生きているという感覚が、

 ゆっくりと戻ってくる。


 シグの手が、彼女の額に触れる。


 それはあまりにも、あたたかい。


 その温度に、リラの目からは涙が溢れた。


 自分がどれほど長く、何も感じずにいたのか――その落差だけで、泣けてしまう。


「……ごめん……」


 シグが、そう呟く。


 何に対しての謝罪なのか、

 彼自身にも分かっていない。


 生きていたことか。

 遅くなったことか。

 それとも――ここに来てしまったことか。


 突如。


 遠くで、

 低い振動が走った。


 床がわずかに、震えている。


 小部屋の壁の向こうで、

 マグナレオールが動き出した気配。


 シグの表情が凍る。


「……」


 言葉は出なかった。


 ただ、“視線”を感じた。


 ……見られている。


 城の下部、石の牢獄で。

 ――この奇跡が起きたことを。


 マグナレオールは、監視している。


 静かに、

 しかし確実に。


 赤い光が、廊下の奥で瞬いた。


 身体ごと貫くような警報。


 逃げ場が、ゆっくりと消えていく音。


 シグは、もう迷わなかった。

 今は、たった1秒で運命が変わる。


 リラを抱き上げる。


 その軽さが、あまりにも痛ましい。


「……つかまれ……」

「……離れるな……」


 リラの指が、

 かすかに彼の服を掴む。


 それだけで、

 シグの胸が締めつけられた。


 二人は、走り出す。


 赤い警報が、地下の回廊を震わせる。


 低く、粘ついた音。

 この城そのものが、二人を拒絶しているように感じる。


 シグはリラを背中に抱え、走る。

 

 真っ直ぐ。曲がる。扉を蹴破る。また真っ直ぐに。


 ひたすらに続く石の床。

 狭い通路。

 曲がるたびに、魔力の圧が肌を刺す。


 ――来ている。


 追手がもう、すぐそこに。


 リラの意識は、完全には戻っていない。

 瞳は開いているのに、焦点が揺れている。


 それでも。


 矢のように飛んできた魔法が、

 寸前で、わずかに逸れた。


 壁を削って、粉塵が舞う。


 シグはそれを、ただの幸運だと思った。


 走る。

 息が切れる。

 足が重い。


 また、魔法。


 今度は床を砕く衝撃。

 だが、やはり――当たらない。


 狙いが、わずかにずれる。


 何度も。

 何度も。


 ……おかしい。


 その時。


 彼の右肩に、

 ぬるりとした感触が広がった。


 おびただしいほどの、血。


 シグの背中で、

 リラの身体が痙攣している。


 横目で見たリラの白いはずの頬は、

 鮮血に、染まっていた。


 耳から。

 両の目から。


「……リラ……?」


 血に染まった彼女の瞳は、遠いまま、何かを見ている。


 ――使っている。


 無意識に、何度も。


 世界を。

 時間を。

 ねじ曲げながら。


 何か、は分からない。

 けれど明確に、リラの命に危機が迫っていた。


 追手はすぐそこまで来ていた。

 それでも――止まった。


 下ろす。

 ゆっくりと、慎重に。


 まるで壊れ物を扱うみたいに、

 リラを床へ下ろす。


 その身体は、軽すぎた。


 シグは膝をつき、

 彼女を抱きしめる。


 ぎゅう、と。

 強く、でも優しく。


「………………」


 まるで時が、止まっているかのようだった。


「……逃げて……」


 声が、震える。


「……生き延びて……」


 回復魔法を、彼女の身体に流す。


 ほんのわずかに。

 それでも、今できるすべて。


「……もう、戦わなくていい……」


「……普通の日々に……戻って……」


 リラのまぶたが、かすかに揺れた。


 シグは、額を彼女の額に当てる。


「……君を……巻き込んでしまって……」


「……本当に……ごめん」


 シグの目から、涙がこぼれ落ちた。


「……ただ」


「……君と……一緒に……いたかった」


 リラの意識は、ほとんど無い。


 それでも。


 その言葉は、

 彼女の中に、確かに届いていた。


 ――行かないで。シグ。置いて、いかないで。


 叫びは、声にならない。


 シグは、もう一度だけ、

 彼女を抱きしめる。


 強く。

 離れないと誓うみたいに。


 そして。


 静かに、手を離した。


 足音が響き渡る。


 影が、いくつも通路の奥に現れる。


 魔法陣。

 殺意。


 だが追手の目に映ったものは。


 ――修羅。


 シグのその目に、迷いはない。


 あるのは、覚悟だけ。


 

 君を、守る。



 追手の一人が、後ずさった。


 刹那。

 重力が、歪む。


 次の瞬間には、空気ごと圧縮された。


 追手の先頭が、弾け飛ぶ。


 誰かの絶叫が響き渡る。


 続く追手は、怯まない。増幅された殺意。


 目の前にいるのが、人間ではないと悟ってもなお、マグナレオールは止まらない。


 シグは一歩、前に出た。


 たったそれだけで、

 空気の密度が変わる。


 床の石が、軋みを上げた。

 見えない重圧が、空間そのものを押し潰していく。


「……君には、触れさせない」


 声は低く、静かだった。


 次の瞬間、

 追手の一人の身体が突然、縦に折れた。


 重力が、狂った。


 骨が耐えきれずに砕け、

 内臓が潰れ、

 血が床へと叩きつけられる。


 悲鳴は、途中で消えた。


 残りの追手が、一斉に魔法を展開する。


 光。

 熱。

 圧縮された魔力の奔流。


 ――殺意の集中砲火。


 だが。


 シグの前で、

 空気が捻じ曲がった。


 撃ち出された魔法は、

 彼に届く前に進行方向を失い、

 壁と天井に叩きつけられて爆散する。


 通路が、抉れる。

 石が砕ける。

 炎が巻き上がる。


 その中心で、

 シグだけが、動かない。


 彼は手を、わずかに振った。


 その動きに呼応して、

 追手の何人かが宙に浮かんだ。


 そして、彼らの身体だけが、

 この場所の“下”を失った。


「――っ!」


 見えない壁に挟まれたように、

 骨と肉が音を立てて潰れた。


 残った兵が、叫びながら突進する。


 剣。

 短杖。

 接近戦用の魔導具。


 シグは、目を細めただけだった。


 ――空気が、消えた。


 彼の前方数メートルの空間が、

 完全なる真空になる。


 呼吸も、音も、存在できない領域。


 突っ込んできた追手たちは、

 その境界を越えた瞬間、

 喉を掻きむしながら倒れた。


 肺が潰れる。

 血が泡立つ。

 言葉は、出ない。


 それでも、

 追手の攻撃は止まらない。


 シグの身体に、一撃が届き始める。


 肩が、焼ける。


 脇腹が、裂ける。


 だが彼は後退しない。


 腕にはもう、感覚がない。

 それでも上げた。


 彼の後ろには、

 床に横たわる、リラの姿がある。


 それだけが、

 世界のすべてだった。


 シグは、血を吐きながら進む。


「……ここは、通さない」


 重力が、再び歪む。


 今度は――

 通路全体が、下へ落ちる。


 床も、敵も、瓦礫も、

 すべてが“落下”を始める。


 天地が反転したような感覚。


 悲鳴と衝撃が、

 一瞬で塗り潰される。


 魔法が、魔法を喰い合う。


 シグは、圧倒していた。

 ひとつ潰し、ひとつ裂き、ひとつ黙らせる。

 数をもろともしない魔法、魔法、魔法。


 命が尽きるまで、ただ全身全霊で敵を殺し続けた。


 だが。


 それでも。


 数と、執念と、

 マグナレオールの力は――止められない。


 ついに、一つの魔法が、

 シグの身体を貫いた。


 身体が一瞬、宙に浮く。


 落ちる。


 そして、鈍い音。


 リラの足元に、

 シグが、ころがった。


 場違いなほどの静寂が、一瞬辺りを包んだ。


 血が、広がっていく。


 リラは、


 それを――認めなかった。


 世界へ向けて、叫ぶ。


 言葉じゃない。


 存在そのものをかけて。


 ――シグを死なせないで。


 お願い。彼を、失いたくない。


 その願いに。


 “応えた“。


 世界が――ひとつ、息を吸う。


 鈍い音がした。


 空気が、押し戻される。


 貫かれたはずの箇所へ、血が“戻る”。

 床に広がった赤が、筋になって吸い寄せられていく。


 倒れたシグの身体が、わずかに浮いた。


 時間が、巻き戻るように。

 “起きたはずのこと”が、起きなかったことになる。


 シグが撃ち抜かれる直前になる。


 すべての魔法が、逸れる。


 ――それは、あまりに強大すぎる“力“。


 リラは、何も知らない。

 世界の秘密も、理屈も、代償も。


 ただ、失いたくない。


 その一念だけで、

 世界を叩き起こした。


 そして――


 その瞬間。


 世界が、覚醒する。


 リラの力すら、

 飲み込むほどの。


 とてつもない破壊と震動が、

 マグナレオールを揺らした。

第二部、クライマックス。

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