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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
34/52

継がれたもの

世界は、今日も静かに回っている。

誰かが消えていることに、気づかないまま。


 ――腕が、痛い。


 痛い、という言葉じゃ足りない。

 骨の内側でずっと硬いものが擦れている。

 呼吸のたび、そこから熱が膨らんで、脳まで染めてくる。


 誰かの手が私の背中を押す。

 押すというより、運ぶ。乱暴に。


 急に、背後から別の気配が覆いかぶさった。


 魔法。


 見えないはずの“圧”だけが、首筋に触れて身体が勝手に固まる。

 空気がぬるく濁ったみたいに感じた。


 次の瞬間、手首が冷たく締まった。


 金属の冷たさとは違う。

 冷たいのに、どこか湿っている。

 生き物のようなものが、手首に巻きついた感覚。


 視界の端で、薄い光が走る。


 ――拘束具。


 細い輪が手首を覆っている。

 黒い革でも鉄でもない。素材が分からない。

 ただ内側にだけ、淡い青白い紋が流れている。


 それが脈を打つたび、私の身体の奥が鈍くなる。


 思考は冴えているのに、筋肉が反応しない。


 息を吸うと、肺に入ってくる空気が甘い。


 香りじゃない。

 何かを“吸わされている”。


 頭の奥が薄く霞む。

 景色が、距離を失う。近いのに遠い。遠いのに近い。


 ……意識を曇らせるための処置。


 そう理解した瞬間、胃が冷えた。


 最初から、こうするために呼ばれていたんだ。


 私は歯を食いしばって、足を踏ん張ろうとした。


 でも、床が逃げる。

 どれだけ力を入れても、地面に“自分の重さ”が乗らない。


 拘束具が私を軽くしている。

 運びやすいように。抵抗できないように。


「……やめて……」


 声が喉で割れる。

 言葉が形にならない。


 口の中が乾いていて、舌が動かない。


 視界の端で通路の壁が流れていく。

 王宮の光が遠ざかり、代わりに、薄暗い石の匂いが濃くなる。


 ――地下。


 空気が変わる。湿気が増え、冷たさが骨に触れる。


 何段降りたか分からない。

 階段なのか通路なのかも曖昧だ。

 意識が半分虚ろで、距離感が壊れている。


 でも、分かる。


 ここは“牢獄”じゃない。


 牢獄なら、まだ人を生かす場所だ。

 ここは――処理する場所。


 国家の秘密に触れた者を消してきた場所。


 胸の奥が、静かに縮む。


 ――シグ。


 名前だけが、頭の中で脈を打った。


 無事でいてほしい。どこにいるの?


 答えは出ない。

 出る前に、私は痛みで呼吸を乱した。


 腕が、熱い。

 ひびが入っている。確信できる。

 揺れるたびに、骨が擦れる。


 私はもう一度、腕を振り解こうとした。

 抵抗――というより、本能がそうした。


 ふいに。


 頬に、強い衝撃。


 世界が横に跳ねた。


 何が起きたのか理解するより先に口の端が切れて、鉄の味が広がる。


「……っ……!」


 声が漏れる。


 誰かが、ためらいなく私の顔を殴った。


 息が抜ける。

 喉の奥がひゅ、と鳴って、空気が入ってこない。


 痛みが一気に集まる。

 腕の痛み、頬の衝撃、頭の霞。


 視界が暗くなる。


 でも――そこで終わらない。


 私は、その痛みでほんの少しだけ、覚醒しかけた。


 霞が薄くなった瞬間がある。


 その瞬間だけ、私は状況を“見てしまう”。


 黒い装束。

 無駄がない動き。

 顔が見えないように影が落ちている。


 ――精鋭。


 私は、処理の“対象”だった。


 その理解が、身体を冷やした。


 私は歯を食いしばって、更に腕を引いた。


 拘束具が脈打つ。

 紋が光り、私の身体の奥を鈍らせる。


 それでも、意識だけは逃げなかった。


 逃げたら、終わる。


 その瞬間。


 腕を押さえていた手が、強くねじった。


 きしむ。


 骨が、音を立てる。

 音じゃない。感覚だ。

 身体の内側で、硬いものが割れる感触。


 痛みが爆ぜる。


「――っ……ぁ……!」


 声が、声にならない。

 目の前が暗くなる。


 私は膝を折った。

 床に落ちる前に、誰かが髪を掴んで持ち上げた。


 頭皮が引きつる。


 涙が勝手に滲んで溢れ出す。

 痛みと、恐怖。


 次の一撃が来る前に、私は抵抗をやめた。


 やめた、というより――身体がもう、正常に従わなかった。


 世界が遠ざかる。

 音が薄くなる。


 最後に聞こえたのは、冷えた声だった。


「……完全に落とせ」


 そして私は、闇に沈んだ。


 *


 冷たい。


 目を開けたのか、開いていないのか分からない。

 まぶたが重い。

 まぶたの裏に、薄い光が滲む。


 ――広い。


 空間の“広さ”だけが、皮膚で分かる。

 音が響かない。

 湿っていない。

 冷たさだけが、ひたすらに感じられる。


 石の匂いがする。

 古い石。乾いた石。


 私は、何かに固定されている。


 背中。

 肩。

 手首。

 足首。


 触れたくない場所に、光る紋がある気配がする。

 拘束具が、数を増やしている。


 考えがうまくまとまらない。


 目もおかしい。焦点が結べない。

 世界が薄い膜越しに見える。


 ――意識を曇らせる処置が、まだ効いている。


 そのとき。


 気配が、前に立った。

 近い。逃げ場は、無い。


 言葉が出る前に、身体が反応する。


 皮膚が粟立つ。

 喉が硬くなる。

 心臓が、嫌なほど大きく鳴る。


 私は、視線を下げようとした。

 意識が戻っていることを知られたら――という恐怖。


 上げられない。

 上げたくない。


 それでも――上げてしまう。


 そこにいた。


 黒と金。

 玉座ではない。

 玉座よりずっと、冷たい“格”。


 アルカン・マグナレオール。


 舞踏会の光の中にいた王とは違う。

 あれは仮面だった。


 ここにいるのは――

 排除するための顔。


 その周囲に、いくつもの影。

 そして、ごく一部の高官の姿。


 場の空気が、“秘密”の匂いをしている。


 王の声が落ちた。


「……起こせ」


 短い命令だった。


 即、私は理解した。


 私は“呼びかけ”で起こされるわけじゃない。


 痛みで起こされる。


 そして――


 誰かの足が、私の腕へ向かって振り上がった。


  衝撃が、腕を貫いた。


 骨の奥に直接、何かを打ち込まれたみたいに。

 鈍い音と、鋭い痛みが、同時に走る。


「――っ……!」


 叫び声が、喉の奥で潰れた。

 息が詰まり、視界が赤く弾ける。


 拘束された腕が異常なほど震える。

 逃げ場がないまま、痛みだけが膨らんでいく。


 もう一度。


 さっきの足が、同じ場所に叩き込まれた。


 今度は、はっきりと分かった。

 ひびが入っていた骨が――折れた。


 内側で何かが噛み合わなくなる感覚。

 身体が悲鳴を上げる前に、意識が跳ねる。


 私は、無理やり、現実に引き戻された。


 目の焦点が、強引に合わされる。


 涙で滲む視界の向こうに、王がいる。


 ――近い。


 舞踏会の壇上で見たときより、はるかに近い。

 距離の問題じゃない。

 “存在”が、近い。


 逃げ場が、世界から消えている。


 王の目が、私を捉えている。


「……お前」


 その一言で、背中に冷たいものが走った。


「お前は、何者だ」


 声は低く、澄んでいて、鋭い。

 それは、処理の始まりのような響きを含んでいた。


 私は喉を動かそうとして――うまく動かない。

 自分の嗚咽だけが、空気に溶けて行く。


 意識を曇らせる魔法が、まだ残っている。

 でも、痛みだけは鮮明すぎる。


「答えろ」


 王の声が、少しだけ強くなる。


「何故、お前があの力を持っている」


 ――あの力。


 何のことかは、分かる。


 ランストゥード。

 あの瞬間。

 世界が、一瞬だけ、私の選択に従った。


「……わかり……ません……」


 掠れた声が、やっと漏れる。


「知らない?」


 王の視線が、わずかに細くなる。


「そんなはずはない」


 一人が、前に出た。

 無言で、私の腕を見下ろしている。


 王は、それを止めなかった。


「お前は、世界の法則に触れた」


「触れただけではない。歪めた」


「それが何で、誰の命令によるものか――言え」


 私は、首を横に振った。


 痛みで、視界が揺れる。


「……本当に……何も……」


 言葉の途中で、足が再び、腕へ振り下ろされた。


 さっきよりも、ためらいがない。


 もはや、声ですらなかった。


 何かが喉を引き裂いて、外に噴き出しただけの音。

 それが自分の叫び声だと理解するのに、少し時間がかかった。


 涙が勝手に溢れて、視界を滲ませた。

 でもそれが涙なのか、痛みでにじんだ水なのか、もう分からない。


 肺が内側から引き裂かれるみたいに痙攣する。

 息を吸おうとすると、折れた腕の痛みが胸まで突き抜けて、空気が喉の奥で止まる。


 吸えない。

 吐けない。


 ただ、身体だけが「生きろ」と命令を出し続けて、それが全部痛みに変換されていく。


 私は絶望した。

 ――答えを持っていない。


 答えが出るまで……“私は壊され続ける“


 王の沈黙が空間を締め上げる。


「……もういい」


 その声に、冷えた決断が滲んでいた。


「処理する」


 周囲の気配が、一瞬だけ揺れた。


 場の何人かが、わずかに目を動かす。

 高官の一人が、息を呑む。


 それが何を意味するか、全員が理解している。


 殺す。

 最初の予定通りに。


 国家にとっての“事故”として消す。


 だが――


 王は、私をもう一度見た。


 今度は獲物ではなく、何かを照合する目で。


「……ヴェルノア、と言ったな」


 心臓が、強く打つ。


「お前の家系だ。どこに、繋がっている」


 身体に刻まれた恐怖。答えなければまたあの痛みが来る。


 私は、震える息を吐きながら答えた。


「……プレガーテの……谷……」


 ほんの一瞬。

 けれど、はっきりと。


 王の瞳が、見開かれた。


 それは、舞踏会でも、この地下でも、

 誰一人として見たことのない顔だった。


 冷静でも、威厳でもない。

 計算でも、支配でもない。


 ただ――

 予測していなかったものを突きつけられた人間の顔。


 周囲の高官の何人かが、無意識に息を止める。

 彼らは今、決して見てはいけない王の表情を見たと悟っていた。


 王の口がわずかに動いた。

 まるで、自分でも止められないように。


「……プレガーテ……」


 理解。

 そして――恐怖。


 他の誰にも分からない。


 けれど、王だけが、確信してしまった。


 プレガーテ。


 その名が、彼の中で何かと繋がった。


 王は、手を上げた。


「……待て」


 処理を遂行しかけていた動きが、止まる。


 誰も、動けない。


 王の顔から、舞踏会で見せた最後の人間らしさが消えた。


 今あるのは――

 忘れたいものを前にした者の、怯え。


「……そうか」


 王は、私を見た。


 もう、憎しみすらない。

 ただ、避けたいものを見る目だ。


「……予定を変更する」


 あっさりと言った。


「ヴェルノアの名を消すには、影響が大きすぎる」


 高官の一人が、慎重に頷いた。


「……ご判断は、当然です」


「この件は、事故でも失策でもない。

 “行方不明”として処理すべきでしょう」


 王は、わずかに口元を歪めた。


「行方不明」


 その言葉がここでは“実質的な死”であることを、全員が知っている。


「……忘れろ」


 王は私に言ったのではない。

 この場にいる全員に、命じた。


「この女の存在を」


「記録から消し、記憶から消し、世界から消せ」


 視線が、私に戻る。


「お前は、ここで終わる」


「二度と――世界に戻ることは無い」


 それは、静かな処刑だった。


 私の意識が、また、遠のく。


 痛みと恐怖と、理解できない何かを残したまま。


 だが。


 最後に私の意識が捉えたのは――


 恐怖に支配された、王の目だった。



 この人が、世界で一番「私」を怖れている。



 *


 店の中にはまだ甘い酒の匂いが残っていた。


「もう閉店よ。ほら、あんたたち」


 カウンター越しに言うと、常連たちが名残惜しそうにグラスを置く。


「えー、もう?」


「今日はやけに早いな」


「デートでもあるんじゃないか?」


 誰かが軽く冗談めかして言って、私は曖昧に笑った。


 いつもなら、この時間には――

 あの白い髪が、入口の鈴を鳴らしている。


 遅くなったわ、って。

 少し疲れた顔で。でも必ず、ここに来る。


 ……今日も、来ない。

 まだ帰ってきていない。


「はいはい。帰った帰った」


 私はカウンターを拭きながら、いつもの調子で追い出そうとして――


 ふと、手が止まった。


 理由は分からない。


 ただ。

 胸の奥で何かが強く、嫌な音を立てた。


「……リラ?」


 口から勝手に名前がこぼれる。


 鼓動が、急に速くなる。

 頭の中がひどく静かになる。


 ――無事でいて。


 そんな言葉が、思考より先に浮かんだ。


「ルシア?」


 常連の男が、私を覗き込む。


「大丈夫か?顔、真っ青だぞ……」


 私は答えられなかった。


 理由なんて、ない。

 何も見ていないし、何も聞いていない。


 それでも――

 行かなきゃいけない気がした。


 私はエプロンを外し、カウンターを回って扉へ向かう。


「おい、ルシア!」


 腕を掴まれる。


「どこ行くんだ!?何があった?」


「……離して」


 声が自分のものじゃないみたいに震えていた。


「ルシア、落ち着け」


「落ち着いてる」


 嘘だった。


 胸の奥が、今にも壊れそうだった。


「行かなきゃ……」


「どこに?」


 その問いに答えられない。


 分からない。

 場所も、理由も。


 でも――


「……あの子が」


 喉が詰まる。


「リラが……危ない」


 常連たちが、一瞬黙る。


「は?」


「何言ってるんだ?」


「マグナレオールにいるんだろう?」


 そう。何も、分からない。


 それがいちばん怖い。


「止めないで!!!」


 私は、ほとんど叫ぶように言った。


「お願い、止めないで……行かないと……!」


「ルシア、しっかりしろ!」


 肩を掴まれる。

 揺さぶられる。


 でも、その手の温度すら、遠い。


 私の頭の中には、ただ一つの想いしかなかった。


 ――無事でいて。リラ。


 少しして。

 ようやく理性が戻ってくる。


 ここからマグナレオールは遠い。

 間に合うはずがない。


 何に、間に合わないのかも分からない。


 それでも――私は知っていた。


「あの子は……今、ひとりなの」


 常連の男がそっと手を離す。


「……何を知った?」


「何も知らない。

 でも、分かるの」


 涙が、勝手に溢れてくる。


「私は、あの子が……リラが……」


 言葉がうまく繋がらない。


「……危ないって、分かるの」


 彼は、しばらく何も言わなかった。


 私を見る目はいつもと同じ。

 少しだけ期待して、少しだけ諦めている、あの目。


 それでも――今は、ただ真剣だった。


「……リラは、強い子だ。それに――約束を破るような子じゃない。」


 ルシアの目が見開かれる。


「……うん」


 私は、うなずいた。


「私は……リラを……信じてる」


 必ず帰ってくると、あの子は言った。


 リラ。


 私を、一人にしないで。


「……無事でいて」


 誰に向けるでもなく私はそう呟いた。


「お願い。」


 夜の街に、私の声だけが静かに溶けていった。

この国はもう、安全じゃない。

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