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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
33/53

光の中の変数

舞踏会という場所で、リラとシグが並んで歩く。

これから加速していく物語の中で、二人が並んでいられる時間は、案外こういう場にしかないのかもしれません。


 深い緑のドレスが、夜の灯りを受けて静かにきらめいている。


 シグは、ただそこに立ち尽くしていた。

 言葉を失い、視線を外すこともできずに。


 王宮の正門前のざわめきも、馬車の音も、

 すべてが遠くに感じられる。


 そこにいるのは――ただ、リラだけだった。


「……シグ?」


 不安そうな声に、はっとして彼は息を吐く。


「……あ、ああ。ごめん」


 視線を逸らし、また戻す。


「……どう言えばいいのか分からないだけなんだ」


 リラは、胸の前でそっと指を組んだ。


「……どう?

 変かな……?」


 その小さな問いが、シグの胸を強く打った。


 彼は、一歩、距離を詰める。


「……言葉が見つからない。

 でも、はっきりしていることが一つある」


 リラの目を見る。


「僕は――君のそばにいたい。

 君がどんな場所に立っても、どんな顔をしてても」


 風が、ドレスの裾を揺らした。


「……リラ」


 名を呼ぶ声は、低く、真剣だった。


「僕は、君を誰にも渡す気がない。

 君がこの場所でどれだけ眩しくても――

 僕の目に映るのは、最初に出会った君のままだ」


 しばらく、何も聞こえなくなる。


 リラの喉が、かすかに動いた。


 逃げ道のない、まっすぐな言葉。


 そして――


「……嬉しい」


 それだけで、十分だった。


 シグの表情が、わずかにほどける。


 彼の手が、そっとリラの腰に触れる。


「行こう」


 二人は並んで、王宮の大扉の前に立った。


 重厚な扉に刻まれた、マグナレオールの紋章。


 その前に、黒い正装の係員が一人、すっと立ち塞がった。


「招待状の確認を」


 シグが、迷いなく封を差し出す。


 係員はそれを受け取り、開く。

 中の羊皮紙に視線を走らせ、読み上げるように口を動かした。


「――シグ・レイグラード様」


 その名前が、静かな重みを伴って響く。


 続いて、もう一枚。


「――リラ・ヴェルノア様」


 係員の目が、ほんのわずかに上がる。

 だがすぐに、何事もなかったかのように視線を戻した。


「確かに。

 お二人とも、スートヴズリャートへの入場を許可されています」


 招待状が返される。


 シグは軽く受け取り、リラに視線を向けた。


 取っ手が押され、

 ゆっくりと、扉が開く。


 瞬間。


 溢れるような光が、二人を包み込んだ。


 無数のシャンデリア。

 きらめく装飾。

 ざわめきと、音楽と、絹が擦れる音。


 煌びやかな舞踏会の世界が、

 まるで波のように、二人のもとへ流れ込んでくる。


 深い緑のドレスが、光を受けて静かに輝き、

 シグの正装が、その隣で凛と映える。


 リラは、一瞬だけまばたきをした。


 でも――

 シグの手が、そこにある。


 だから、視線を上げる。


 そして、二人はその光の中へと踏み出した。


 *


 宮殿の大広間は、光でできていた。


 天井から吊るされた無数の結晶灯が、星のようにきらめき、

 磨き抜かれた床は、そのすべてを映し返している。

 音楽が流れ、笑い声が浮かび、ドレスの裾が風のようにすれ違う。


 ここは祝福の場所だ。

 成功と秩序と、選ばれた者たちの世界。


 その中心に、私たちは足を踏み入れた。


 すぐに、いくつもの視線が集まるのを感じる。

 好奇心、羨望、値踏みするような光。

 それらが一斉に、こちらへ向けられていた。


 シグは、私の様子をちらりと見て、少しだけ微笑む。


「……大丈夫。

 まずは、挨拶をしよう」


 彼は私の手を軽く引き、流れる人の輪の中へと導いた。


「こちら、リラ・ヴェルノア。

 ノクスヴァイ王国からの留学生で――僕の、大切な人です」


 その言い方に、胸が小さく跳ねる。


「お会いできて光栄です」


 年配の紳士が、品のいい笑みを浮かべて頭を下げる。


「レイグラード殿がこんなふうに誰かを連れてくるのは、珍しい」


「まあ……素敵なドレス。タラトレントの?」


「ええ……えっと……」


 言葉を探していると、シグがさりげなく補ってくれる。


「仕立てたばかりなんです。

 彼女に、とても似合うでしょう?」


 何気ないやり取りなのに、会話の端々に、この世界の「格」が滲んでいる。

 肩書き、家名、仕事、功績。

 誰が、どれほどの価値を持つかを、皆が自然に理解している。


 私は、それに少しだけ慣れている自分を見つけて、ほっとした。


 ノクスヴァイでも、こういう空気の中に立つことはあった。

 笑顔の作り方も、言葉の選び方も、体が覚えている。


 でも――


 この場所は、少し違う。


 どこか、もっと冷たくて、もっと厳しい。


 ひと通りの挨拶を終えたところで、シグが私の耳元で小さく言う。


「少しだけ、席を外してもいいかな」


「……え?」


「すぐ戻る。

 ここで待ってて」


 不思議そうに頷くと、彼は人の波の向こうへ消えていった。


 私は、一人で大広間の中央に立つ。


 音楽と話し声に包まれながら、場の空気を感じていると――


 ふと、気配が変わった。


 さざめきが、少しずつ静まっていく。

 笑い声が落ち、楽器の音が、ゆっくりと弱まる。


 人々が、無意識のうちに、同じ方向を向き始める。


「……?」


 何が起きるのか、分からないのは、どうやら私だけらしい。


 やがて中央の一段高い壇に、光が集まった。


 厳かな沈黙が、大広間を満たす。


 何かが、始まる。


 私は一人、その輪の外で、ただ立ち尽くしていた。


 そして、壇上に高官が立った。


「今宵はスートヴズリャート――」


 高官の声が朗々と響く。


「マグナレオールが誇る一年の成果を、ここに集う者すべてに示す夜」


 拍手が起こる。

 誰もが、この流れを知っている。


 研究、開発、交易、統治。

 選ばれた者たちの名前が、ひとり、またひとりと読み上げられ、

 壇の上に光が灯る。


 *

 

 会場は、光に包まれている。


 その中で、私だけが息苦しさを味わっていた。


 息が、上手くできない。

 反射的にシグを探した。


 ……いない。


 さっきまで、そこにあったはずの温もりがない。


「すぐ戻る」


 そう言われたことは覚えている。

 なのに、その言葉が。


 今は紙切れみたいに、軽く感じられた。


 どうして?


 理由は、もう分かっている。


 私は、ちゃんと理解してしまっている。


 この場は――

 ただの舞踏会じゃない。


 この場は、

 「この国が、世界に向けて自分を誇示する場所」だ。


 誰が役に立ち、

 誰が価値を持ち、

 誰が“正しく”この国を支えているか。


 それを、

 光と音楽と拍手で可視化するための場所。


 だからこそ――


 “そこからはみ出した存在”が一番目立つ。


 私だ。


 ランストゥードの事故。

 あの機械。

 あの判断。


 あれは、

 この国の「正しさ」から外れた出来事だった。


 そして私は、

 その“禁忌“に触れてしまった人間。


 胸の奥で、

 嫌な予感が、はっきりと形を取り始める。


 ――やめて。


 私は、まだ何も言われていないのに、

 心の中で、何度もそう呟いていた。


 拍手が続く。

 でもその音が、どんどん遠くなっていく。


 まるで――世界の外側に押し出されていくみたいに。


 そして。


 空気が変わった。


 ゆっくりと、確実に。

 空間が凍っていくような、絶対的な恐怖。


 私の勘が、逃げるべきだと警報を鳴らしている。


 そこに、いる。


 私は、壇の奥を見てしまった。


 玉座。


 黒と金に包まれた、ひとつの存在。


 アルカン・マグナレオール王。

 この国の、頂点。


 伝承や肖像画で見てきた姿と、寸分違わない。


 いや――

 違う。


 実物は、

 「王」という言葉で表せるものじゃなかった。


 視線を向けられただけで、

 自分が“測られている”と分かる存在。


 人間を、

 人間として見ていない目。


 まるで動く駒を見るような、冷たさと精度。


 私の全身の毛が逆立つのを感じた。


 怖い、という感情より先に、

 本能が叫んでいる。


 ――逆らうな。


 ――この存在には、逆らってはいけない。


 人々が一斉に膝をつく。


 それは、礼儀じゃなく、生存本能だった。


 私も、遅れて膝を折る。


 床に触れた手が凍ったような錯覚を覚える。

 この場所が突然、処刑場みたいに感じられた。


 王は、ゆっくりと。しかし、絶対的な支配を片手に語り出す。


「……今年は、もう一人。

 特別に言及すべき者がいる」


 声は、よく通る。

 澄んでいて、揺れがなく、

 逃げ場を与えない音。


 私の心臓が、

 嫌なほど大きな音を立てて鼓動を刻む。


「ランストゥード・マグナレオールにて、実験機構の暴走事故が発生した」


 ……来る。


「一名が、命を落とした」


 胸の奥で、

 何かが、ひび割れる。


 王の視線が、

 まっすぐ、私に向けられるのが分かる。


 見なくても、分かる。


「リラ・ヴェルノア」


 その名が、

 世界の中心で響く。


「前へ」


 足が、勝手に動き始める。

 その動きは、錆び付いた機械のようだった。


 私は歩いている。

 でも、本当に歩けているのか、分からない。


 床が遠い。

 天井が高すぎる。

 空気が、凍っている。


 ――ここで終わる。


 あの庭園も、

 シグの声も、

 深い緑のドレスも。


 すべて、王の一言で“無かったこと”になる。


 私は、誰にも守られない場所に立っている。


 シグはこの場にいない。

 この世界で、私を“私”として知っている人は――もういない。


 足が、言うことをきかない。


 ――こんな終わり方……


 それでも、

 私は歩かなければならなかった。


 逃げられないのは、分かっていた。


 王は続ける。


「其方は、本来触れてはならない領域に踏み込み   

 ――世界の法則を一瞬だけ、書き換えた」


 会場がざわめく。


 それがどれほどの“罪”かを、皆が理解している。


「多くの者は、それを恐れ、排除するだろう」


「だが――」


 王の瞳が、私を貫く。


「それは違う」


 沈黙。


「其方は罰せられない。……称賛もされない」


「ただ――記録される」


 ぞっとするほど、優しくも残酷な言葉だった。


「リラ・ヴェルノア。

 其方は今日から、“変数”だ」


 世界が、私を“物”として見始めた瞬間だった。


 *


 ――私だけが、そこにいない。


 居場所もなく、壁際に立っていた。

 銀のシャンデリアの光が、髪に落ちるたび、少しだけまぶしそうに目を細める。

 けれど、その目は、誰とも合わない。


 ここは、私の居場所じゃない。


 そんな確信だけが、胸の奥で静かに疼いていた。


 正しいことをしたはずなのに、

 それでも世界は、私を拒んでいるように感じた。


 音楽が盛り上がる。

 人々が、互いに手を取り合い、笑いながら回る。


 ――みんな、ちゃんと世界の中にいる。


 自分だけが、透明な膜の外側に立っているような気がした。


 「……リラ」


 低く、穏やかな声。


 振り向いた瞬間、胸の奥の張りつめていた糸が、ほどけた。


 そこにいたのは――シグだった。


 正装に身を包みながらも、いつものままの空気。

 静かで、深くて、揺れない。


「……戻ってきたんだね」


 声が震えるのが分かって、私は笑おうとして、やめた。


「待たせてごめん」


 その一言が、あまりにシグで。

 私はそれだけで息ができた。


 ――シグが来てくれた。


 その安心感に、私の脳は支配されていた。


「……さっきね……」


 言いかけた私の言葉を、彼は遮らない。

 ただ、ゆっくりと頷く。


「怖かったね」


 その声が、私の胸の奥に触れる。


「……うん」


 答えた瞬間、涙が出そうになって慌てて飲み込んだ。


「大丈夫。もう、ひとりにしない」


 そう言って、彼は私の手を取る。


 その手の温度が、確かに現実だった。


 音楽が次の曲へ滑り込む。

 人々が自然に組み合い、踊り始める。


「踊ろう」


 シグは、当然のように言った。


 私は頷いて、彼の腕に身を預けた。


 ――終わったんだ。

 何も起きない。

 私は、ここにいていい。


 そう思いたかった。


 彼は、私を導くように一歩踏み出す。

 足運びは滑らかで、呼吸の間もぴったり合う。


 だからこそ、最初は気づけなかった。


「……さっきも伝えたけど」


 踊りながら、彼が囁く。


「今日の君は、本当に美しい」


 胸が、きゅっとなる。


「……誰にも渡したくない」


 その言葉は甘い。

 甘いのに――どこか、重い。


 褒め言葉のはずなのに。


「君を……失いたくないんだ」


 嬉しさよりも先に。


 シグが、そんな言い方をするだろうか。


 そんな思考が一瞬だけ浮かぶ。

 でもすぐ、安心がそれを押し流す。


 私が今欲しいのは、理由じゃない。

 支えだ。


「……今日まで巻き込んでしまって、すまなかった」


 謝る必要なんてないのに。

 彼は続ける。


「僕と――この国で、一緒に歩んでくれないか?」


 耳が言葉を拒否した。


 一瞬、音楽の音だけが大きくなる。


「……え?」


 顔を上げると、シグは微笑んでいる。

 いつもと同じ笑顔。


 なのに。


 その微笑みが、私を落ち着かせるために“作られた”みたいに見えた。


「どういう意味……?」


 声が思ったより硬い。


「今までの私たちを否定するみたいなこと――」


 私は、言葉を選ぶ。


「あなたは、そんなふうに言う人じゃない」


 シグの目が一瞬だけ揺れた。


 笑顔が、わずかに遅れて追いつく。


「否定じゃない」


 静かな声。


「……守りたいだけだ」


 優しい。

 優しいのに、なぜか胸の奥が冷える。


 私は一歩、距離を取ろうとした。


 一瞬の、まばたきの間に。


 彼の表情が、崩れた。


 笑顔の“作り方”を忘れたみたいに、口元が歪む。

 瞳の奥の冷たさが、露骨に覗く。


 そして――


 背後の空気が、割れた。


 何かが来る。


 私が振り向くより先に、腕を掴まれた。


 強い。骨ごと持っていかれるほどの力。


 声が出かけた瞬間、別の手が私の肩を押さえ込む。

 ドレスの生地が乱暴に引かれる。


「……っ!」


 周囲は、踊っている。

 笑っている。

 グラスが触れ合う音すら、平和だ。


 ――誰も見ていない。


 いや、見えていない。


 認識が滑っていく。

 私の存在だけが、舞踏会から切り離される。


 私は必死に足を踏ん張る。

 逃げようとする。


 その反動で、掴まれた腕が――嫌な角度にねじれた。


 きしむ。


 骨が、悲鳴を上げる。


「……っ、やめ……!」


 声にならない。


 次の瞬間、痛みが爆ぜた。


 腕の内側で、何かが“ずれた”感覚。

 目の前が漆黒に染まっていく。


 息が、抜ける。

 抵抗が、途切れる。


 その隙を逃さず、身体が持ち上げられた。

 足が床を離れ、引きずられるように連れて行かれる。


「……シグ……」


 名前を呼びかけた。


 返るはずがない。


 ――だって、ここにいるのは。


 “シグの顔をした何か”だから。


 私の視界の端で彼がこちらを見ている。

 唇が、わずかに動く。


 “それ“の目は、笑っていなかった。


「……大丈夫だよ。君の為だ」


 ぞっとした。


 その一言で、全部が繋がる。


 これは偶然じゃない。

 最初から、ここへ連れてくるための罠だった。


 痛みで霞む意識の中で想う。


 ――本物のシグは、どこなの?


 答えを探すより早く、視界がさらに暗くなる。

 連れて行かれる先の廊下が、夜会の光から切り離されていく。


 音楽が、遠のいて行く。


 人々の笑い声も。


 そして、私の世界から“祝祭”が消えた。


 残ったのは――

 痛みと、冷たい手と、息の仕方を忘れるほどの恐怖だけだった。

次回更新は、15日夕方を予定しています。

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