光の中の変数
舞踏会という場所で、リラとシグが並んで歩く。
これから加速していく物語の中で、二人が並んでいられる時間は、案外こういう場にしかないのかもしれません。
深い緑のドレスが、夜の灯りを受けて静かにきらめいている。
シグは、ただそこに立ち尽くしていた。
言葉を失い、視線を外すこともできずに。
王宮の正門前のざわめきも、馬車の音も、
すべてが遠くに感じられる。
そこにいるのは――ただ、リラだけだった。
「……シグ?」
不安そうな声に、はっとして彼は息を吐く。
「……あ、ああ。ごめん」
視線を逸らし、また戻す。
「……どう言えばいいのか分からないだけなんだ」
リラは、胸の前でそっと指を組んだ。
「……どう?
変かな……?」
その小さな問いが、シグの胸を強く打った。
彼は、一歩、距離を詰める。
「……言葉が見つからない。
でも、はっきりしていることが一つある」
リラの目を見る。
「僕は――君のそばにいたい。
君がどんな場所に立っても、どんな顔をしてても」
風が、ドレスの裾を揺らした。
「……リラ」
名を呼ぶ声は、低く、真剣だった。
「僕は、君を誰にも渡す気がない。
君がこの場所でどれだけ眩しくても――
僕の目に映るのは、最初に出会った君のままだ」
しばらく、何も聞こえなくなる。
リラの喉が、かすかに動いた。
逃げ道のない、まっすぐな言葉。
そして――
「……嬉しい」
それだけで、十分だった。
シグの表情が、わずかにほどける。
彼の手が、そっとリラの腰に触れる。
「行こう」
二人は並んで、王宮の大扉の前に立った。
重厚な扉に刻まれた、マグナレオールの紋章。
その前に、黒い正装の係員が一人、すっと立ち塞がった。
「招待状の確認を」
シグが、迷いなく封を差し出す。
係員はそれを受け取り、開く。
中の羊皮紙に視線を走らせ、読み上げるように口を動かした。
「――シグ・レイグラード様」
その名前が、静かな重みを伴って響く。
続いて、もう一枚。
「――リラ・ヴェルノア様」
係員の目が、ほんのわずかに上がる。
だがすぐに、何事もなかったかのように視線を戻した。
「確かに。
お二人とも、スートヴズリャートへの入場を許可されています」
招待状が返される。
シグは軽く受け取り、リラに視線を向けた。
取っ手が押され、
ゆっくりと、扉が開く。
瞬間。
溢れるような光が、二人を包み込んだ。
無数のシャンデリア。
きらめく装飾。
ざわめきと、音楽と、絹が擦れる音。
煌びやかな舞踏会の世界が、
まるで波のように、二人のもとへ流れ込んでくる。
深い緑のドレスが、光を受けて静かに輝き、
シグの正装が、その隣で凛と映える。
リラは、一瞬だけまばたきをした。
でも――
シグの手が、そこにある。
だから、視線を上げる。
そして、二人はその光の中へと踏み出した。
*
宮殿の大広間は、光でできていた。
天井から吊るされた無数の結晶灯が、星のようにきらめき、
磨き抜かれた床は、そのすべてを映し返している。
音楽が流れ、笑い声が浮かび、ドレスの裾が風のようにすれ違う。
ここは祝福の場所だ。
成功と秩序と、選ばれた者たちの世界。
その中心に、私たちは足を踏み入れた。
すぐに、いくつもの視線が集まるのを感じる。
好奇心、羨望、値踏みするような光。
それらが一斉に、こちらへ向けられていた。
シグは、私の様子をちらりと見て、少しだけ微笑む。
「……大丈夫。
まずは、挨拶をしよう」
彼は私の手を軽く引き、流れる人の輪の中へと導いた。
「こちら、リラ・ヴェルノア。
ノクスヴァイ王国からの留学生で――僕の、大切な人です」
その言い方に、胸が小さく跳ねる。
「お会いできて光栄です」
年配の紳士が、品のいい笑みを浮かべて頭を下げる。
「レイグラード殿がこんなふうに誰かを連れてくるのは、珍しい」
「まあ……素敵なドレス。タラトレントの?」
「ええ……えっと……」
言葉を探していると、シグがさりげなく補ってくれる。
「仕立てたばかりなんです。
彼女に、とても似合うでしょう?」
何気ないやり取りなのに、会話の端々に、この世界の「格」が滲んでいる。
肩書き、家名、仕事、功績。
誰が、どれほどの価値を持つかを、皆が自然に理解している。
私は、それに少しだけ慣れている自分を見つけて、ほっとした。
ノクスヴァイでも、こういう空気の中に立つことはあった。
笑顔の作り方も、言葉の選び方も、体が覚えている。
でも――
この場所は、少し違う。
どこか、もっと冷たくて、もっと厳しい。
ひと通りの挨拶を終えたところで、シグが私の耳元で小さく言う。
「少しだけ、席を外してもいいかな」
「……え?」
「すぐ戻る。
ここで待ってて」
不思議そうに頷くと、彼は人の波の向こうへ消えていった。
私は、一人で大広間の中央に立つ。
音楽と話し声に包まれながら、場の空気を感じていると――
ふと、気配が変わった。
さざめきが、少しずつ静まっていく。
笑い声が落ち、楽器の音が、ゆっくりと弱まる。
人々が、無意識のうちに、同じ方向を向き始める。
「……?」
何が起きるのか、分からないのは、どうやら私だけらしい。
やがて中央の一段高い壇に、光が集まった。
厳かな沈黙が、大広間を満たす。
何かが、始まる。
私は一人、その輪の外で、ただ立ち尽くしていた。
そして、壇上に高官が立った。
「今宵はスートヴズリャート――」
高官の声が朗々と響く。
「マグナレオールが誇る一年の成果を、ここに集う者すべてに示す夜」
拍手が起こる。
誰もが、この流れを知っている。
研究、開発、交易、統治。
選ばれた者たちの名前が、ひとり、またひとりと読み上げられ、
壇の上に光が灯る。
*
会場は、光に包まれている。
その中で、私だけが息苦しさを味わっていた。
息が、上手くできない。
反射的にシグを探した。
……いない。
さっきまで、そこにあったはずの温もりがない。
「すぐ戻る」
そう言われたことは覚えている。
なのに、その言葉が。
今は紙切れみたいに、軽く感じられた。
どうして?
理由は、もう分かっている。
私は、ちゃんと理解してしまっている。
この場は――
ただの舞踏会じゃない。
この場は、
「この国が、世界に向けて自分を誇示する場所」だ。
誰が役に立ち、
誰が価値を持ち、
誰が“正しく”この国を支えているか。
それを、
光と音楽と拍手で可視化するための場所。
だからこそ――
“そこからはみ出した存在”が一番目立つ。
私だ。
ランストゥードの事故。
あの機械。
あの判断。
あれは、
この国の「正しさ」から外れた出来事だった。
そして私は、
その“禁忌“に触れてしまった人間。
胸の奥で、
嫌な予感が、はっきりと形を取り始める。
――やめて。
私は、まだ何も言われていないのに、
心の中で、何度もそう呟いていた。
拍手が続く。
でもその音が、どんどん遠くなっていく。
まるで――世界の外側に押し出されていくみたいに。
そして。
空気が変わった。
ゆっくりと、確実に。
空間が凍っていくような、絶対的な恐怖。
私の勘が、逃げるべきだと警報を鳴らしている。
そこに、いる。
私は、壇の奥を見てしまった。
玉座。
黒と金に包まれた、ひとつの存在。
アルカン・マグナレオール王。
この国の、頂点。
伝承や肖像画で見てきた姿と、寸分違わない。
いや――
違う。
実物は、
「王」という言葉で表せるものじゃなかった。
視線を向けられただけで、
自分が“測られている”と分かる存在。
人間を、
人間として見ていない目。
まるで動く駒を見るような、冷たさと精度。
私の全身の毛が逆立つのを感じた。
怖い、という感情より先に、
本能が叫んでいる。
――逆らうな。
――この存在には、逆らってはいけない。
人々が一斉に膝をつく。
それは、礼儀じゃなく、生存本能だった。
私も、遅れて膝を折る。
床に触れた手が凍ったような錯覚を覚える。
この場所が突然、処刑場みたいに感じられた。
王は、ゆっくりと。しかし、絶対的な支配を片手に語り出す。
「……今年は、もう一人。
特別に言及すべき者がいる」
声は、よく通る。
澄んでいて、揺れがなく、
逃げ場を与えない音。
私の心臓が、
嫌なほど大きな音を立てて鼓動を刻む。
「ランストゥード・マグナレオールにて、実験機構の暴走事故が発生した」
……来る。
「一名が、命を落とした」
胸の奥で、
何かが、ひび割れる。
王の視線が、
まっすぐ、私に向けられるのが分かる。
見なくても、分かる。
「リラ・ヴェルノア」
その名が、
世界の中心で響く。
「前へ」
足が、勝手に動き始める。
その動きは、錆び付いた機械のようだった。
私は歩いている。
でも、本当に歩けているのか、分からない。
床が遠い。
天井が高すぎる。
空気が、凍っている。
――ここで終わる。
あの庭園も、
シグの声も、
深い緑のドレスも。
すべて、王の一言で“無かったこと”になる。
私は、誰にも守られない場所に立っている。
シグはこの場にいない。
この世界で、私を“私”として知っている人は――もういない。
足が、言うことをきかない。
――こんな終わり方……
それでも、
私は歩かなければならなかった。
逃げられないのは、分かっていた。
王は続ける。
「其方は、本来触れてはならない領域に踏み込み
――世界の法則を一瞬だけ、書き換えた」
会場がざわめく。
それがどれほどの“罪”かを、皆が理解している。
「多くの者は、それを恐れ、排除するだろう」
「だが――」
王の瞳が、私を貫く。
「それは違う」
沈黙。
「其方は罰せられない。……称賛もされない」
「ただ――記録される」
ぞっとするほど、優しくも残酷な言葉だった。
「リラ・ヴェルノア。
其方は今日から、“変数”だ」
世界が、私を“物”として見始めた瞬間だった。
*
――私だけが、そこにいない。
居場所もなく、壁際に立っていた。
銀のシャンデリアの光が、髪に落ちるたび、少しだけまぶしそうに目を細める。
けれど、その目は、誰とも合わない。
ここは、私の居場所じゃない。
そんな確信だけが、胸の奥で静かに疼いていた。
正しいことをしたはずなのに、
それでも世界は、私を拒んでいるように感じた。
音楽が盛り上がる。
人々が、互いに手を取り合い、笑いながら回る。
――みんな、ちゃんと世界の中にいる。
自分だけが、透明な膜の外側に立っているような気がした。
「……リラ」
低く、穏やかな声。
振り向いた瞬間、胸の奥の張りつめていた糸が、ほどけた。
そこにいたのは――シグだった。
正装に身を包みながらも、いつものままの空気。
静かで、深くて、揺れない。
「……戻ってきたんだね」
声が震えるのが分かって、私は笑おうとして、やめた。
「待たせてごめん」
その一言が、あまりにシグで。
私はそれだけで息ができた。
――シグが来てくれた。
その安心感に、私の脳は支配されていた。
「……さっきね……」
言いかけた私の言葉を、彼は遮らない。
ただ、ゆっくりと頷く。
「怖かったね」
その声が、私の胸の奥に触れる。
「……うん」
答えた瞬間、涙が出そうになって慌てて飲み込んだ。
「大丈夫。もう、ひとりにしない」
そう言って、彼は私の手を取る。
その手の温度が、確かに現実だった。
音楽が次の曲へ滑り込む。
人々が自然に組み合い、踊り始める。
「踊ろう」
シグは、当然のように言った。
私は頷いて、彼の腕に身を預けた。
――終わったんだ。
何も起きない。
私は、ここにいていい。
そう思いたかった。
彼は、私を導くように一歩踏み出す。
足運びは滑らかで、呼吸の間もぴったり合う。
だからこそ、最初は気づけなかった。
「……さっきも伝えたけど」
踊りながら、彼が囁く。
「今日の君は、本当に美しい」
胸が、きゅっとなる。
「……誰にも渡したくない」
その言葉は甘い。
甘いのに――どこか、重い。
褒め言葉のはずなのに。
「君を……失いたくないんだ」
嬉しさよりも先に。
シグが、そんな言い方をするだろうか。
そんな思考が一瞬だけ浮かぶ。
でもすぐ、安心がそれを押し流す。
私が今欲しいのは、理由じゃない。
支えだ。
「……今日まで巻き込んでしまって、すまなかった」
謝る必要なんてないのに。
彼は続ける。
「僕と――この国で、一緒に歩んでくれないか?」
耳が言葉を拒否した。
一瞬、音楽の音だけが大きくなる。
「……え?」
顔を上げると、シグは微笑んでいる。
いつもと同じ笑顔。
なのに。
その微笑みが、私を落ち着かせるために“作られた”みたいに見えた。
「どういう意味……?」
声が思ったより硬い。
「今までの私たちを否定するみたいなこと――」
私は、言葉を選ぶ。
「あなたは、そんなふうに言う人じゃない」
シグの目が一瞬だけ揺れた。
笑顔が、わずかに遅れて追いつく。
「否定じゃない」
静かな声。
「……守りたいだけだ」
優しい。
優しいのに、なぜか胸の奥が冷える。
私は一歩、距離を取ろうとした。
一瞬の、まばたきの間に。
彼の表情が、崩れた。
笑顔の“作り方”を忘れたみたいに、口元が歪む。
瞳の奥の冷たさが、露骨に覗く。
そして――
背後の空気が、割れた。
何かが来る。
私が振り向くより先に、腕を掴まれた。
強い。骨ごと持っていかれるほどの力。
声が出かけた瞬間、別の手が私の肩を押さえ込む。
ドレスの生地が乱暴に引かれる。
「……っ!」
周囲は、踊っている。
笑っている。
グラスが触れ合う音すら、平和だ。
――誰も見ていない。
いや、見えていない。
認識が滑っていく。
私の存在だけが、舞踏会から切り離される。
私は必死に足を踏ん張る。
逃げようとする。
その反動で、掴まれた腕が――嫌な角度にねじれた。
きしむ。
骨が、悲鳴を上げる。
「……っ、やめ……!」
声にならない。
次の瞬間、痛みが爆ぜた。
腕の内側で、何かが“ずれた”感覚。
目の前が漆黒に染まっていく。
息が、抜ける。
抵抗が、途切れる。
その隙を逃さず、身体が持ち上げられた。
足が床を離れ、引きずられるように連れて行かれる。
「……シグ……」
名前を呼びかけた。
返るはずがない。
――だって、ここにいるのは。
“シグの顔をした何か”だから。
私の視界の端で彼がこちらを見ている。
唇が、わずかに動く。
“それ“の目は、笑っていなかった。
「……大丈夫だよ。君の為だ」
ぞっとした。
その一言で、全部が繋がる。
これは偶然じゃない。
最初から、ここへ連れてくるための罠だった。
痛みで霞む意識の中で想う。
――本物のシグは、どこなの?
答えを探すより早く、視界がさらに暗くなる。
連れて行かれる先の廊下が、夜会の光から切り離されていく。
音楽が、遠のいて行く。
人々の笑い声も。
そして、私の世界から“祝祭”が消えた。
残ったのは――
痛みと、冷たい手と、息の仕方を忘れるほどの恐怖だけだった。
次回更新は、15日夕方を予定しています。




