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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
31/52

I Don’t Wanna Miss

かけがえのない、「今」を生きる二人。


 夕暮れの光が、病室の床に長い影を落としている。

 昼の白さはもうなく、すべての輪郭が少しだけ柔らかく溶けていた。


 リラはベッドの上で、まだ天井を見ている。

 涙は止まった。

 けれど、胸の奥に沈んだものは、まだ言葉にならないまま残っている。


 シグは、窓際に立っていた。

 外の街並みを見ているようで、実際には何も見ていない。

 ただ、何かを決める人の背中だけがそこにあった。


「……体は?」


 低く、静かな声。


「……大丈夫。たぶん」


 リラは正直に答えた。

 強がる気力も、弱音を吐く余裕も、まだなかった。


 しばらく沈黙が続く。

 機械の微かな脈動と、遠くの街のざわめきだけが、二人のあいだを満たしていた。


 シグが、ゆっくりと振り返る。


「……君に、話さなければならないことがある」


 その声に、リラの指がわずかに動く。


「城から、招待状が来ている」


「……城?」


 それだけで、空気の重さが変わる。


「スートヴズリャートへの招待だ」


「……なに、それ」


 リラは思わず聞き返した。

 聞いたこともない。

 言葉の形が、耳の中でうまく収まらない。


 スート……ヴズ……何?


「城が使う呼び名だ」


 シグは淡々と続ける。


「王国が、“注視している存在”を社交界に公式に配置する夜」


 リラの眉が、わずかに寄る。


「……社交界?」


「舞踏会だ」


 その言葉で、ようやく想像が膨らむ。


 音楽。

 ドレス。

 光の中で踊る人々。


 だが、その上に、別の影が重なる。


「祝うためじゃない」


 シグの声が、現実に引き戻す。


「観測のために開かれる舞踏会だ」


 リラの胸が、ひくりと痛む。


「過去にも、この場に呼ばれた者がいる。

 強すぎる魔法使い。

 危険な発明家。

 王族と関係を持った異端者」


 シグの目が、まっすぐリラを捉える。


「君も、その枠に入った」


 リラはシーツを握った。


「……いつ?」


「一ヶ月半後だ」


 思ったより、遠い。

 思ったより、近い。


「その間、王国は君を観察する。

 準備の時間でもあり、判断の時間でもある」


 リラは目を閉じた。


「……逃げたら?」


「“異物”になる」


 即答だった。


「出席すれば、少なくとも“王国の中の存在”として扱われる」


 どちらも、重い。


「……それで、シグは?」


「僕は元々、王城に行く予定があった」


 シグは言った。


「国の諸々の調整のためだ。

 舞踏会への出席義務も含まれている」


 だからこそ、視線がリラに戻る。


「君がいなくても、僕はそこにいた」


 事故が予定を変えたのではない。

 リラが、その予定の中に組み込まれたのだ。


「……私、行かなきゃいけないの?」


 声が、少しだけ震える。


「“行くべきだ”と、僕は思う」


 シグは言った。


「強制はしない。

 だが、君が自分で選んだことを、この国の目の前で背負うなら……

 そこは、逃げる場所じゃない」


 リラは、ゆっくり息を吸う。


 怖い。

 まだ、何も整理できていない。


 それでも。


「……わかった」


 小さな声だったが、確かに言った。


「行く」


 シグは、ほんのわずかに目を細めた。


「その前に」


「……?」


「二日後の休日、君と出かけるつもりだった」


 リラの目が、少しだけ見開かれる。

 ……そういえば。事故が起きて……色々とあったから、すっかり忘れてしまっていた。


「舞踏会とは関係ない。

 ただの、僕の用事だ」


 その言い方が、逆に重い。


「だけど、君の状態次第で調整する。

 無理はさせない」


 リラは、ゆっくり頷いた。


 シグは、それ以上何も言わず、扉へ向かう。


「……シグ」


 彼は振り返る。


「ありがとう」


 それだけだった。

 でも、今のリラには十分だった。


 扉が閉まる。

 結界音が、静かに病室を満たす。


 そして、少しの静寂のあと――


 扉が、勢いよく開いた。


「――リラ!!」


 マレイアだった。


 顔を見た瞬間、彼女の表情が崩れる。

 生きている。

 ここにいる。


「……う、ぅ……」


 言葉にならないまま、マレイアは駆け寄り、リラの腕を掴んだ。


「よかった……ほんとに……

 もう……もう……!」


 涙が止まらない。


 リラは、どう返していいか分からなかった。


 喉の奥で、言葉にならない何かが引っかかる。

 “よかった”と言われるほど、自分は正しかったのか。

 “無事”と言われるほど、失ったものは軽かったのか。


 だから、ただ、マレイアの手を握り返した。


 力を込めて。

 言葉の代わりに。


 そのとき、マレイアの視線が、ふとリラの手元へ向かう。


「……え」


 そして、一拍。


「……それ……招待状?」


 シグが去った扉のほうを見る。


 リラが小さく言う。


「……城から、舞踏会の招待が来たの」


「――えぇ!?」


 病室の空気が、一瞬で変わった。


「ちょ、ちょっと待って!?

 舞踏会!? 王城の!?

 しかも……」


 マレイアが一歩引いた。


「スートヴズリャート……!?

 あのスートヴズリャート!?」


 息を呑む。


「マグナレオールの女の子なら、誰だって一度は夢見る場所なのよ!?

 王城の、あの舞踏会……」


 言葉の途中で、はっとしてリラを見る。


「……ごめん、リラは不安だよね」


 誤魔化すように続ける。


「しかも……」


 マレイアの目が、輝きと不安で揺れる。


「……あの人と?」


 リラは、わずかに頷いた。


「うん。一ヶ月半後……って聞いた」


「……一ヶ月半後……?」


 マレイアの目が、そこでようやく“現実”に追いついた。


「……待って。それって……」


 指で空中を数え始める。


「ドレス、間に合うかギリギリじゃん……」


「……ドレス?」


 リラの声は、まだ少し遠い。


「王城の舞踏会用のドレスってさ、

 普通の社交用と違うんだよ」


 マレイアは早口になる。


「装飾は、派手すぎてもダメなの。

 でも地味すぎると“見られる側”として失礼になるし……

 しかも、スートヴズリャートの特別枠で呼ばれた人って、

 貴族より目立たないといけないのに、目立ちすぎちゃいけないの」


 自分でも矛盾したことを言っていると分かっているのに、止まらない。


「仕立て直しも入るし、

 刺繍も、素材の選定も……

 早くても一ヶ月と少しはかかるよ」


 マレイアは、はっとしてリラを見る。


「……つまり……」


「……時間、あんまりないんだ」


 リラが、ぽつりと言った。


 驚きはなかった。

 ただ、胸の奥で、また一つ現実が積み重なっただけ。


「……確かに……ちょっとまずい、かも」


 マレイアは、その言葉を聞いて、少しだけ息を吐く。


「……でしょ」


 それから、ぐっと気合を入れるように言った。


「だから、予定決めよ!

 ドレスの店、早めに押さえないと」


 マレイアは、すでに頭の中で予定表を広げているみたいな顔をしている。


「……あの人、仕立屋とか知ってそうじゃない?

 何か言ってなかった?」


 リラは少し考える。


「……そういえば……次の休日に、出かける約束はしてる。

 でも、舞踏会に関わることじゃないって……」


「――えっ!?」


 マレイアが両手で口を押さえる。


「ちょ、待って……呼吸が……無理……

 それって、デートじゃない……!」


 目がきらきらと輝く。


「リラ、それチャンスよ。

 そこで仕立屋さん紹介してもらって、さりげなく聞くの。

 どんなドレスが好きか、とか……」


 指を一本立てる。


「それから、当日のあの人の服装。

 スートヴズリャートの夜は、誰もが最高に輝く夜なの。

 あの人との関係を深めるチャンスよ!」


 リラは、その勢いに少し押されながら、視線を逸らした。


「……わ、わかったけど……

 関係を深めるって……」


 頬が、わずかに熱くなる。


 マレイアは、にやりと笑った。


「で、実際……あの人と、どうなりたいの?」


 完全に、からかう声だった。


「な、なにそれ……」


 リラは視線を逸らす。


「まだ……わかんないよ」


 頬が、更に赤くなる。


「えー? 本当に?」


 マレイアは楽しそうに身を乗り出す。


「さっきの顔、どう見ても“何も考えてません”って顔じゃなかったけど?」


「……もう」


 リラは小さく息を吐いてから、ぽつりと言った。


「……さっきね。

 シグが……頬に、キスをしてくれたの」


 マレイアの動きが止まる。


「そのとき……私、思ったの。

 ああ……ここにいていいんだって。

 この世界にいていいって、受け止めてもらえた気がして……」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間――


「はぁぁぁぁぁぁぁ!?」


 マレイアが、ベッドの横で跳ねた。


「ちょっと待って!? それもう事件でしょ!?

 なにそれ!? 反則じゃない!?」


「し、静かに……!」


 リラは慌てて止める。


「次のデートで決まるかもよ!?

 運命とか! 未来とか!!」


「決まるって、なにが!!?」


 リラの声が裏返る。


 マレイアは、にやにやしながら言った。


「ふたりの関係に、決まってるでしょ」


 その声は明るいけれど、

 必死に、リラを“未来”に引き戻そうとしている音だった。


 無理に明るくしようとしているのが、分かる。


 それでも。


 その声は、確かにリラを現実に引き戻していた。


 *


 病室のカーテン越しに、朝の光が差し込んでいた。


 ベッドの横で、医者が薄い水晶板を覗き込んでいる。

 淡い光の文字が流れ、心拍や魔力波形が規則正しく並んでいた。


「……うん。問題ないな」


 医者は小さく頷く。


「回復は順調だ。魔力の乱れも落ち着いている。

 もう、宿に戻っていい」


 その言葉に、マレイアがぱっと顔を上げた。


「ほんと!? もういいの!?」


「無理をしなければ、な」


 医者はそう言ってから、リラを見る。


「……体の傷より、心のほうが時間を食う。

 だが、閉じ込めておくより、外の空気を吸ったほうがいい」


 リラは小さく頷いた。


 “外に戻る”という言葉が、まだ少し怖い。

 でも、ここに留まることも、同じくらい怖かった。


 久しぶりの宿の部屋は、病室よりずっと静かだった。

 窓から見える街の色も、昨日とは違って見える。


 マレイアは、ベッドの上にリラを座らせると、ふうっと大きく息を吐いた。


「……ほんとによかった」


 それだけ言って、少しだけ笑う。


 無理をしているのが分かる笑顔だった。


「今日はゆっくり休も。

 私はちょっと外で買い物してくるけど、すぐ戻るから」


「……うん」


 扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。


 リラは、一人になった部屋で、ベッドに腰掛けたまま、しばらく動かなかった。


 城の招待状。

 スートヴズリャート。

 一ヶ月半後。


 それらは、まだ遠い夢のようで、でも確実に現実だった。


 やがて、窓の外が少しずつ暗くなり始めた頃。

 リラはようやく、立ち上がってクローゼットを開いた。


 ――明日。


 シグと出かける日。


 頭では、舞踏会のことや、この国のこと、あの地下室のことが渦巻いている。

 それなのに、指先は、服を選ぼうとしている。


 いつものパンツ。

 動きやすくて、安心できる。


 その横に、あまり着ないロングスカートが掛かっていた。

 くるぶしまで届く、柔らかい布。


「……」


 リラは、二つの服の間で、指を止める。


 スカートなんて、今さら。

 変に思われるかもしれない。

 らしくない、って。


 でも……。


 リラは、ゆっくりとスカートを手に取った。


 *


 翌朝。


 目を覚ました瞬間、リラは飛び起きた。


「……!」


 窓から入る光が、もう高い。

 シグが来る時間まで、あと少ししかない。


 慌てて顔を洗い、歯を磨き、髪を整える。

 鏡の中の自分は、少しだけ、昨日より生きている顔をしていた。


 服を着るところで、また迷う。


 いつものパンツと外套。

 それとも、昨日選んだスカート。


「……変じゃ、ないかな」


 小さく呟いて、結局、スカートを選んだ。


 少しだけ、不安。

 少しだけ、期待。


 ノックの音がしたのは、そのときだった。


 扉を開けると、そこにシグが立っていた。


 いつもより、少しだけきちんとした装い。

 色の深い外套と、きれいに整えられた髪。


 一瞬、互いに言葉を失う。


「……」


 シグの視線が、リラのスカートに落ちる。


「……似合ってる」


 それだけ言った。


 リラの胸が、きゅっと縮む。


「……ありがとう」


 *


 並んで歩く王都の道は、昨日までと同じなのに、どこか違って見えた。


「……どこに行くの?」


 リラが尋ねる。


「あそこだ」


 シグが指差した先に、巨大なガラスのドームが見えてきた。


「国立庭園だよ」


 街の中に作られた、ひとつの小さな世界。


 中に入ると、空気が変わった。

 外の喧騒が、薄い膜の向こうに遠ざかる。


 光を透かす植物。

 見たことのない色の花。

 不思議な羽を持つ小さな鳥。


 リラは、思わず足を止めていた。


 ガラス越しに差し込む光が、葉の輪郭を縁取っている。

 花は、現実の色というより、夢の中でしか見ないような色をしていた。

 小さな鳥が羽ばたくたび、空気に淡い音が生まれる。


「……すご……」


 小さく漏れた声は、ほとんど息に近かった。


 本当は、もっと声を上げたかった。

 綺麗だって、楽しいって、胸が少し浮く感じをそのまま外に出したかった。


 けれど、体の奥はまだ少し重い。

 昨日までの痛みと疲労が、完全には抜けきっていない。


 それでも――


 リラは、シグの横顔をちらりと見た。


 この人の前では、ちゃんと“生きている自分”でいたかった。

 弱っているだけの自分じゃなくて、

 綺麗なものに心を動かされて、少し笑ってしまう自分でいたかった。


「……ね」


 小さく声をかける。


「……ここ、すごく綺麗」


 ちゃんと喜べているか、不安になる。


 シグは、リラの視線の先を見てから、静かに頷いた。


「この国が、誇れる場所のひとつだ」


 その声が、穏やかで。


 リラは、少しだけ安心して、もう一度庭園を見回した。


 胸の奥に、かすかなあたたかさが灯る。

 まだ完全じゃないけれど、確かに戻ってきているものがあった。


 入口近くの売店で、シグが温かい飲み物と軽い食べ物を買ってくれた。


 少し苦い液体が、喉を通る。

 柔らかい何かが、口の中でほどける。


 リラはカップを両手で包んで、わざと少しだけ目を細めた。

 はしゃぐほどの元気はないのに、嬉しいふりだけは上手くなりたかった。


「……おいしい」


 リラは、そう言って少し笑った。


 庭園の奥へ進むにつれて、植物の種類が変わっていく。


 シグは、ときどき立ち止まり、花や木を見ては、短く説明をした。

 どれも、この国でしか見られないものばかり。


 リラはその横を歩きながら、ただそれを聞いていた。


 専門的な言葉も多いのに、不思議と退屈しない。

 シグの声は低くて落ち着いていて、植物や生き物の話をしているのに、どこか人の記憶を語っているみたいだった。


 ガラス張りの天井から差し込む光が、二人の影を床に重ねる。

 歩くたびに、その影が少しずつずれて、また寄り添う。


 言葉が途切れても、気まずさはない。

 むしろ、沈黙の中にあるもののほうが、静かに満ちていた。


 リラは、ときどきシグの横顔を見る。

 シグも、視線の端でリラの歩幅を確かめるように、わずかに速度を緩める。


 庭園は果てしなく広いのに、

 二人のあいだだけが、ただひとつの小さな世界みたいにまとまっていた。


 やがて、少し空気の違う一角にたどり着く。


 そこには、深い緑色の花が咲いていた。


 静かで、強く、そしてどこか儚い。


 シグが、その前で足を止める。


 ほんの少しだけ、表情が柔らぐ。


「……この花が好きなんだ」


 リラは、その横顔を見る。


「……綺麗」


「昔は、もっとあった。

 でも、今はここにしか残っていない」


 シグの声が、わずかに低くなる。


 リラは、花と、彼の横顔を交互に見た。


 深いグリーン。

 静かで、でも確かに生きている色。


 その色が、なぜか胸に残った。


  深い緑の花は、光の下でも派手にきらめかなかった。

 ただ、静かにそこにいて、誰かの目を待っているみたいだった。


 リラは、花弁の縁に目を凝らす。

 薄い膜のような層が重なっていて、触れたら壊れてしまいそうなのに、芯は折れない。

 強さと脆さが、この花の美しさを際立たせている。


「……どうして、好きなの?」


 リラがそう言うと、シグは花から目を離さないまま答えた。


「目立たないのに、美しいんだ」


 短い言葉だった。

 なのに、胸の奥にすっと入ってくる。


「……うん。美しくて……儚い感じがする」


「そうだね。

 派手に着飾らなくても、この花は綺麗なんだ。きっと、どんな時も」


 リラは、その横顔を見た。


 いつもより少しだけ柔らかい目。

 誰かを裁く目じゃない。

 誰かを測る目でもない。


 ただ、“美しい”と認める目だった。


 ――この目を、覚えておこう。


 リラは、深い緑の花の雰囲気を、心の奥にそっと沈めた。

 舞踏会の夜、きっと必要になる。

 なぜか分からないけど、そう思った。


 シグが、ふっと息を吐く。


「……行こうか」


 それ以上は語らなかった。

 語れば、ここにいる理由が剥がれてしまうみたいに。


 リラは頷き、歩き出す。


 歩きながら、シグがふと足を止める場所があった。

 目線だけ、少し遠くの植栽に落ちる。


 そこには、花の札が並んでいる。

 薄い金属板に刻まれた、古い分類名。

 その多くに、同じ注記が添えられていた。


 ――「現存確認されず」

 ――「当該地域において絶滅」


 リラはそれを読むより先に、シグの空気の変化を感じてしまった。

 ほんの一瞬だけ、呼吸が浅くなる。

 目が、遠くを刺す。


 ……何を、確かめているの?


 そう聞こうとして、やめた。

 ここで聞けば、彼の胸の奥に触れてしまう気がしたから。


 シグは、何事もなかったように歩き出す。

 その背中は、少しだけ強張っていた。


 *


 夕方になり、庭園の光が金色に変わる頃。

 二人はドームの外へ出た。


 外の城下は、昼とは違う匂いを纏っていた。

 石畳が冷え、灯りが点り、遠くの笑い声が柔らかく流れる。


「凄く素敵な所だったね。連れてきてくれて……ありがとう」


「君が楽しんでくれたなら良かった。

 ……ところで、お腹は減ってないか?」


「……少し」


 そう言った自分の声が、昨日よりちゃんと現実に響いているのに気づく。

 リラは、少しだけ安心した。


 歩き出した道の途中。

 品のある看板の店が見えた。


 窓の奥には、淡い光が揺れている。

 布が吊られ、糸が並び、人の手が何かを作っている気配がした。


 リラの心臓が、理由もなく跳ねる。


 ――仕立屋。


 マレイアの言葉が脳裏をよぎる。

 “早めに押さえないと”

 “間に合わないよ”


 リラは、ここだと分かった瞬間、口が勝手に動いた。


「……そういえば」


 シグが横目で見る。


「……良い仕立屋、知らない?」


 自分で言ってから、遅れて恥ずかしくなる。

 “さりげなく”のつもりが、まったくさりげなくない。


 シグは、ほんの少しだけ口角を上げた。

 笑った、というより、気配が緩んだだけ。


「ちょうど、あそこがいい」


 指先が、まさにその店を示す。


「格式もある。

 腕も確かだ。

 ……一ヶ月半なら、急げば間に合う」


 リラの喉が鳴る。


「……シグって、そういう店、よく知ってるんだね」


「必要な時に使うだけだ」


 淡々と言うのに、隠しきれない“慣れ”がある。


 リラは、勇気を出して続けた。


「……どんな、ドレスが良いと思う?」


 一瞬の沈黙。

 リラは自分の顔が熱くなるのを感じた。


 ――聞いちゃった。


 完全に聞いちゃった。


 シグの歩く速度が、少し緩まる。


「……今は」


 ほんの一瞬だけ視線を逸らす。


「……今は、その話をすると……」


 言いかけて、言葉が途切れる。


「……君に、変な期待をさせる」


 そう言ったあと、シグはほんの少しだけ口を結んだ。

 まるで、自分のほうが先に期待してしまいそうだと認めたくないみたいに。


「それが、嫌なんだ」


 低く、少しだけ困ったような声だった。


 リラは口を尖らせたくなるのをこらえ、視線を逸らす。


 ……ずるい。


 でも、怒れない。

 “守っている”のが分かってしまうから。


「……わかった」


 その一言だけ言って、歩き出す。


 シグは何も言わなかった。

 ただ、歩幅をほんの少しだけリラに合わせた。


 *


 「ここだ」


 店に入ると、灯りが暖かかった。

 どこか甘い香りがして、遠くで楽器の音が鳴っている。

 小さな舞台があり、歌手の男が準備をしていた。


 二人は壁際の席に通される。


 食事は、優しい味だった。

 温かい湯気が、胸の奥の冷えを少しずつ溶かしていく。


 リラは、スプーンを動かしながら、ふと考える。


 ――ここは、審判の場所じゃない。


 庭園もそうだった。

 この店もそうだ。


 世界には、まだ“ただ美しいだけの場所”が残っている。


「……舞踏会」


 リラが、ぽつりと言う。

 言葉が落ちた瞬間、喉が少し痛む。


「……ちょっとだけ、怖い」


 シグは、皿から視線を上げた。


「怖いのは当然だ」


「……私、見られるんだよね」


「ああ。見られる」


「でも、見られるのは“君”だ」


 リラは眉を寄せる。


「……それ、慰めにならない」


「慰めじゃない」


 シグは静かに言う。


「君が、君であることを証明するために必要だ」


 胸の奥が、少しだけ揺れる。


 リラは、スプーンを置く。

 言葉を選ぶために、呼吸を整える。


「……シグ」


「うん」


「私、あなたを巻き込むのが怖い」


 正直に伝えた。

 今日の温もりを失う未来があるかもしれない。それが、怖い。


 シグは、少しだけ目を伏せた。


 そして、顔を上げる。


「巻き込んでしまったのは、僕だ」


 淡々とした声だった。


「だから、君が怖れる夜を……僕も一緒に歩く」


 リラの心臓が、また跳ねる。


 そこに、音楽が重なった。


 舞台の上で、歌手が息を吸う。

 次の瞬間、店の空気が変わる。


 低い旋律。

 熱を含んだ声。

 情熱的なのに、どこか寂しい。

 抱きしめるみたいに甘いのに、離さない覚悟が滲んでいる。


 歌詞ははっきり聞き取れない。

 でも、意味は分かってしまう。


 “見逃したくない”

 “眠りたくない”

 “この瞬間を失いたくない”


 そんな痛いほどの願いが、音に変わって流れ込んでくる。


 リラは、呼吸を止めた。


 きっと、この先もずっと覚えてるんだろう。

 情熱と、寂しさと、覚悟が同じ線で結ばれているこの夜を。


 リラは、自分の手がわずかに震えているのに気づく。

 怖いのか、嬉しいのか、分からない。


 ただ、心が揺れている。


 シグが、静かに言った。


「さっきの話だけど」


 リラは、首だけで振り向く。


「……ドレス」


 リラの頬が、一気に熱くなる。


「……い、今!?」


 シグは表情を変えない。


「僕は……今日の君のような格好が好きだ」


 声が低い。

 余計な飾りがない。

 だから、刺さる。


 リラは言葉を失う。


 ロングスカート。

 迷って、選んだ。

 “可愛いと思われたい”と、言えない気持ちで選んだ。


 それを、見抜かれたみたいで。

 でも、否定されなかった。


「派手じゃないのに、女性らしさがある」


 シグは続ける。


「強く見えるのに、柔らかいところがある」


 リラは、思わず視線を落とした。


 胸が苦しい。

 でも、その苦しさは痛いだけじゃない。


「……さっき、庭園で」


 リラは、小さく言う。


「深い緑の花が好きって言ってたよね」


「うん」


「……私、覚えてる」


 シグは、それ以上言わない。

 ただ、リラを見た。


 店の灯りが揺れる。

 歌が、夜の底を撫でる。


 ――恋。


 それは甘いだけじゃない。

 寂しさを含んでいる。

 虚しさも、不安も、怖さも含んでいる。


 それでも、手を伸ばしたいと思ってしまう。


 歌が盛り上がる。

 熱が増す。

 なのに、二人の周りだけ、妙に静かだった。


 言葉はいらない。


 音楽が、全部言っている。


 リラが顔を上げる。


 その瞬間。


 シグの目と、ぶつかった。


 視線が絡む。

 彼は、逸らさない。


 店の灯りが、二人の間に薄い金色の線を引く。

 歌い手の声が遠くなる。


 リラは、息ができない。


 でも、それは苦しいからじゃない。

 この一秒を、失いたくないからだ。


 シグの目は、いつもみたいに静かだった。

 でも、その静けさの底に、熱がある。


 “見逃さない”という熱。

 “ここにいる”という覚悟。

 “君を失いたくない”という、言葉にならない誓い。


 リラは、瞬きもしなかった。

 瞬き一つで、この瞬間が途切れてしまいそうで。


 歌は続く。

 情熱的で、寂しくて、どこまでも寄り添ってくれる旋律。


 その中で、二人はただ、見つめ合う。


 言葉は、いらなかった。


 世界が静かに、満ちていく。

この夜を、忘れないでいてくれたら嬉しいです。

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